2016.01.03_牧師コーナー

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】

2016. 1. 3.(主日) ソウル聖楽教会 週報より
ソウル聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師

私が諦念したというのはすべてをあきらめたという意味ではなく、機会を逃したことを認めるという意味である。それゆえ、私はあきらめというものを受け入れてこなかった。一度、思いを抱いたのであれば、良い目的には最後まで根を下ろそうと力を尽くして生きてきた。
 中学校に入ることを切に願いつつもかなわなかったその日、私は自暴自棄にならないで、機会を逃したことを認め、再び手順を踏んだ。「どのようにすれば、苦学することができるだろうか?」と一日中、悩みながらも、私の前にあることを疎かにしなかった。すべてが勉強であると考えて、几帳面に学んだ。
 「どうしてであろうか?」と問う習慣をもって他の人の農作を助けたために、1年間、働いただけでも、まるで20年間、働いた者のように知って学んだ。そのようにしたのが今日、説教者として講壇に立って教えるときに大きな助けとなっているし、本を書くときにも大きな助けとなっている。これを「根」というのであろうか。極めて小さなことにも知恵はその根から湧いてくる。
 根がなければ、益がなく、実を得ることができない。私が主のしもべとなる前にはひとりの人間であり、無益な肉体に過ぎなかった。この世に生きる理由も知らなかった。ただ生きているために身もだえしたし、生きているために死力を尽くして戦った。ただ肉体のために。しかし、主の恵みを受けてからは私が生きなければならない理由を知った。それのために一日中、力を尽くすのである。
美しい花であっても根がある。根があるものだけが実を結んで生き残る。これを自然という。私には自然の人と霊的な人がいる。自然の人は結局、土に帰るし、霊的な人は天に行く。これを真理という。私は自然と真理をはっきりと悟っている。それで、自然からは文学が出て来るし、霊的なものからは真理と福音が湧いてくる。
それゆえ、土に帰る肉体のものであってもすべて使いたいし、天(霊界)に帰る霊魂についたものであっても使おうとする。地の中に埋もれるものであっても育てて、大事なものは大事にしようとするし、天(霊界)に入って行く霊的なものを貴く考えて、よくしようとする。
この2つをよく育ててささげようとするときに、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という主イエスの教訓を考える。主は不正な富に忠実な者が神の国の大きな働きをよく担うことができるといわれた。それゆえ、どれひとつも疎かにすることができない責任が伴う。私はこのように生涯を送ろうとして努力してきた。
オォ! 主よ、私は主の御心にふさわしいしもべとなることだけを願います。

翻訳: ソウル聖楽教会 ベレヤ・アカデミー宣教振興院 宣教振興センター 日本語翻訳室