2016.02.07_牧師コ一ナ一

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】
2016. 2. 7.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師

時速80キロで走ってきて、再び新年を迎えた。これから進んで行く道がどのようになっているのかは私にもわからないが、非常に短いようなので、感謝する。高い山の頂上に上り、私が通って来た道を振り返ってみる。後悔や恥ずかしさ、未練が本当に多い。今は肉体の力も、時間的な余裕も、社会的な資格もない。私は再び何かをすることができる者でもない。それでも、私が息をする日までは私を守らなければならないし、私に与えられた霊的な責任を負わなければならない。それゆえ、悩んでいる。

ひとつひとつ整理しながら、私がしようとしてきたこと、しがみつこうとしてきた文学を楽しみたい。そのためにも私に積まれた知識がなければならないが、私は自分が本当に無知であるということを悟って慌てているし、また、恥じている。知識には師匠がいなければならないし、師匠から学んだ根本と理論、体系がなければならない。しかし、私はまことに無知であるということを否認することができない。

生涯、勉強してきたといっても、それはでたらめであった。まともに勉強したことがないし、それゆえ、まともに知っていることがない。得ようと努力してきたが、すでに固まってしまった脳や精神、肉体によってひとつも実践することができなかった。私にはまことな師匠がいなかったし、私の骨に刻んでおくほどの名もなかった。これは私が勉強に興味がなかったためである。

それだけではなく、私には知らなければならない常識さえも足りない。最近は賢い電話機をもつことによっていくらでも立派な常識を得ることができるが、私はそれさえももっていないために、この世をむなしく生きる盲人である。田舎で農業を営む者もインターネットをすることができるというが、私はそれさえもすることができない。私は空き缶に過ぎない。これが恥ずかしい。

ただ、早くから神に会って聖書を知るようになったのは幸いなことであった。私は聖書に現れた神とその方が遣わされたイエス・キリスト、イエスが遣わされた弁護者でおられる聖霊について、誰よりもよく知って信じてきた。誰かが生意気であり、高ぶっていると悪口を言ったとしても、これははっきりとしたことである。

神を知る知識と知恵はこの世の知識に無知であり、知恵が足りない私の生涯にとって大きな祝福である。私はこの世をすべて失ったとしても神を失うことができない。この世で知ることがなかったとしても私はイエスを知っている。そのために、神がまだ私を説教壇に立たせているのではないだろうか。

私は「私のような馬鹿が再び出て来てほしい。この世では無知であり、足りなかったとしても、神をよく知る天才が何人か出て来てほしい。」と願っている。私はこの世で多くのほこりを浴び、垢にまみれ、多くの罪過も負ってきたが、イエスの尊い血を知って信じるために生きているし、聖さを悟る。私にとっては歳月が矢のようではなく、光のように走っている。短い私の生涯を自ら祝う。感謝する。

 

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室