戸が閉められる前に
(マタイの福音書 25:1~13)
神は
正確であり、誤りがない
その方が
創造された世界は年限と時間が正確である
これは
造物主の御心と品性通りになされたのである(伝3:1~8)
それゆえ、
すべての時と期限は
神の権限にある(マタイ24:36~37)
神を正しく知るためには時間を守らなければならない
ひとつの時代が去り、次の時代が来るが、
神は永遠に変わることがない(伝1:4~11)
神が戸を開かれる時があり、
また、戸を閉められる時がある(マタイ25:13)
これを悟る者が賢い信仰者である
これを無視して自分の思い通りに行う者は
決してそこに入って行くことができない
肉体の規定が霊的な練習となって、
霊的な生活に益をもたらさなければならない
人間は時間の束縛を受ける
聖霊の人は時間を守らなければならない(ヨハネ3:8)
◎主は時が至ってヨルダン川に出て来られたし、
時が至って福音を宣べ伝えられたし、
時が至って復活について語られた
◎愚かな娘たちのように
戸が閉められたのちに後悔しないで、
戸が閉められる前に入って来なさい
◎墓に入って行った人を考えないで、
入って行く前に霊魂を救い、
自分の霊魂を救いなさい
※礼拝の時間はその時を語る、
天のしるしである
戸が閉められる前に入場しなさい
戸が閉められる前に (マタイの福音書 25:1~13)
時が来る前に準備しなければならない
神は正確であり、誤りがない方でおられます。人間が作った時計の中で最も正確であるといわれる原子時計は300万年に一秒しか誤差を生じさせないといいます。そのような原子時計よりも正確な方が神でおられます。神は永遠の間にただ一秒の誤差も許さないで、すべてを自分の時間表に従って進められます。聖書に記録された預言は神が将来、なされることについて予め知らせる役割をしました。以前の人々はその預言に従ってキリストが来られるのを待ちましたし、イエスはその預言に従って現れ、殺され、よみがえり、天に上られました。
イエスはこの世の終わりについて尋ねる弟子たちに「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使1:7、訳者注: 韓国語の聖書では「時と期限は、」となっている)といわれました。主は私たちが神が定められた時を知ることができないとはっきりといわれました(マタイ24:36)。ある人は自分はその時と期限を知っていると主張しながら人々を惑わします。これは神に敵対することです。神だけが知っておられる時を知ろうとするのは神のようになろうという意味であるためです。
サタンは神と等しくなろうとしたのちに堕落した者です(イザヤ14:14)。イエス・キリストは本来、神と等しい方であるのに、これを当然なことと考えないで、自分を低めて仕える者の姿をとり、死にまで従われました(ピリピ2:6~8)。ところが、しもべに過ぎない天使が神と等しい位置に上ろうとしたのです。蛇がエバを惑わすときに彼女に投げかけたメッセージも「お前も神のようになることができる。」というものでした(創3:5)。
永遠のいのちを得るためには神を知らなければなりませんが、神が自分の権限に置かれたことまで知ろうとしてはいけません。御子は神と等しい方でおられますが、父と御子の間にははっきりとした位階があります。御子はその位階を尊重し、父が自分の権限に置かれたことは知ろうとしませんでした。ましてや罪人であったのちに恵みによって神の子となった私たちは言うまでもありません。
神が禁じられたことについてはあえて知ろうとしないで、謙遜な心で従わなければなりません。親は子どもが知ってもよいことがないと判断されることについてはあえて子どもに知らせません。神も同じです。それゆえ、私たちはイエスが語られた通りに時と期限を知ろうとしないで、常に目を覚ましてその日に備えなければなりません(マタイ25:13)。
戸が閉められれば、二度と入って行くことができない
イスラエルの伝統的な婚礼は独特な方式によって進められます。花婿は昼から祝賀客とともに町内を歩き回ったのちに、夕暮れを迎える頃、結婚式場に入って行きます。独特なのは「定められた時間になると、結婚式場の戸が閉められ、そのときからは誰も中に入って行くことができない。」という点です。たとえ花婿と親しい友人であったとしても、一度、戸が閉められると、式場の外で花婿を祝うしかありません。
私たちは自分の霊的な生活において戸が閉められたのではないかを自ら診断してみる必要があります。礼拝堂でともに礼拝をささげる者の中には戸の中に入って行った者もいれば、依然として戸の外にいる者もいます。10人の娘がすべて花婿を出迎えましたが、5人は結婚式場に入って行き、残りの5人は入って行くことができませんでした。私たちはこのような主の御言葉を深刻に受け入れなければなりません。一度、戸が閉められるのであれば、遅れて油を用意したとしても戸の中に入って行くことはできません(マタイ25:1~13)。
ある人が証しをしながら「私は以前、お金を多く稼ぎました。そのときは決心さえすれば、ひとりで礼拝堂を建てることもできました。」といいました。その言葉を聞いて「あの人の信仰は本当にいいな。」と考えるかもしれません。しかし、それは過去の話に過ぎません。その人は戸が開かれているときに戸の中に入って行きませんでした。
結婚式場に入って行くことができなかった5人の娘について、主は愚かであるといわれました。愚かな者は機会があるときには主の御言葉を無視し、機会がなくなったのちに初めて戸惑い、走り回ります。私たちは自分の家庭がすでに閉められた戸の外にいるのではないかを調べ、気を引き締めなければなりません。すでに戸が閉められた家庭は他の人がどんなに油を借して助けたとしても意味がありません。
信仰生活をはじめるときから完全な聖徒、すなわち主の花嫁とならなければなりません。 多くの人が主の御前に出て来て「私を救ってください。」と身もだえしますが、その内容を調べてみると、多くの場合においてその人が願う救いは肉体の栄えを指しています。しかし、体がどんなに豊かになったとしても、それによっては天の御国を相続することができません(Ⅰコリント15:50)。イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、その方と結びついた者はすでにその方の花嫁です。自分がすでにその方の花嫁になったという事実を忘れ、続けてさまよう者となってはいけません。すでに花嫁となった者に求められるのは花婿を熱く愛することです。
戸が閉められる前に教会を愛そう
戸が閉められる前に神を愛さなければなりません。そして、まことに神を愛するのであれば、自分の体を愛するように隣人を愛さなければなりません。自分の体を愛するように愛しなさいというのは母性によって愛しなさいという意味です。自分は飢えたとしても、子どもにはよく食べさせようとするのが母性です。自分にあるものすべてを犠牲にしたとしても子どもを成功させようとするのが母性です。
私たちがこのような母性によって愛さなければならない隣人の中で、最も近くにいるのは教会です。教会には故郷や性別や性格が異なる人々が集まっていますが、すべてがひとつとなってキリストの体を構成しています。ある人は将来、主から「お前たちは私が空腹であったときに食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、私が旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにも訪ねてくれなかった。」という御言葉を聞くようになります(マタイ25:41~46)。彼らは「主よ。いつ私はあなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか?」と詰問するかもしれません。今、私たちがはっきりと知らなければならないのは「教会を愛することこそ主を愛することである。」という事実です。
将来、過去を思い出しながら後悔したとしても、それは何の意味がありません。私たちは愛することができるときに主を愛さなければなりません。戸が閉められるのであれば、愛そうとしたとしても愛することができません。聖書にはイエスが誰かのそばを通り過ぎる場面がよく登場します。主が通り過ぎたのちにはそれ以上、機会がありません。「私が油を用意するためにどんなに苦労したのか、ご存じですか?」といったとしても、一度、閉められた戸は再び開かれません。主はこれを予め警告されました。私たちは戸が閉められる前に主を愛さなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 02. 14.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私の切なる願いはあまり残されていない生を尽くして文章を書くということである。私は多く勉強することができなかったが、むしろそれが恨みのようになり、文章を書くことや読むことを祝福と考えてきた。熱心に読んだり、学んだり、書いたりして他の人には不可能なほどの多くの本も執筆してきた。これは私がこの世にいる間よりも私がこの世を離れたのちにその効力が現れるようにするためであった。私がこの世にいる間にすべきことをすべてすることができなかったとしても、私がこの世を離れたのちにでも続けて働くためであった。
私はむやみに文章を書くのではない。文章を書くために1年、あるいは数ヶ月間、神に「私に文章を書くことができる霊感と知恵と知識を加えてください。」と祈り、その祈りの応答を受けたときに初めて「ペン」を取る。そして、一字一字を私の随筆として書き進めていく。機械に入れておいたのちにではなく、私の霊魂と脳、そして、胸に入れておいたのちに、手を使って一字一字を書き進めていく。他の人々は理解することができなかったり、信じなかったりするかもしれないが、私はこれまでそのようにしてきた。神から出て来る霊感を記録してきた。
それゆえ、私の文章は聖霊がともに働かれ、読む人に必ず感動や力、しるしを伴わせる。私はそれを否認することができない。「私が書いた本を家に置いておくのであれば、今すぐには時間がなかったとしても、のちにでも読むことができる。あるいは子孫であってもその本を手にするのであれば、彼らから大きな働きが現れる。」と私は確信する。
私が書いた文章はなるべく最初に出版された本から読んでいくのが有益である。新来者、あるいは私の本に初めて接する者に新刊を勧めるのは無理であると考える。私は木が根を下ろすように苗木を植え、次には木と枝を育て、花を咲かせ、そののちに実を刈り取るように執筆している。それゆえ、最初に書いた本から読んでいくことを勧める。そのようにしてこそ、バランスをもって霊感を得ると確信する。そのようにするのであれば、誰でもこの御言葉が岩から出て来る生ける水であるということを知るようになる。その岩は「イエス・キリスト」でおられる。イエスのために書いた本ではなく、イエスが語られた御言葉を宣べ伝える働きをするだけである。
私は本を書くときにまず前書きを書き、そののちに本論に入る。それゆえ、「必ず前書きをよく読まなければなりません。」と勧める。まず前書きを消化してこそ、その本の内容をよく理解するようになる。急いで読むのが重要なのではない。その御言葉を受けようとしなければならない。「そのようにするのであれば、神の力と霊感によって書いたその本の内容がまさに自分の祝福となる。」と確信する。神の御言葉は祝福である。その方の賜物である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室