律法の中ではるかに重要なもの
(マタイの福音書 23:23~24)
神は
愛でおられる
その方が
この世に関心をもたれたのは大きな御心をもたれたためである(マタイ6:10)
神の御心は御子を愛して、(ヨハネ6:39~40)
御子のためにすべてのものを備えられたということである(ヘブル1:3)
それゆえ、
御子をこの世に遣わされたときに、
神の御言葉として遣わされた(ヨハネ1:14)
御言葉は
神のふところにおられたその方の御心なので、(ヨハネ1:18)
人間はその御言葉を戒めとして受けなければならない(ヨハネ10:17~18)
律法も御言葉であり、
真理も御言葉であるが、
その根本は愛である
それゆえ、
正義には愛がなければならないし、
憐れみにも愛がなければならないし、
誠実にも愛がなければならない
律法を知り、福音を信じたとしても愛がなければ、
大きなもの、すなわち大意を失ったのである
◎律法を完全に理解したとしても
正義の根本である愛がなければ、
わざわいがある
◎福音を完全に得たとしても
憐れみの根本である愛がなければ、
わざわいがある
◎信仰があったとしても
誠実の根本である愛がなければ、
わざわいがある
※イエス・キリストが警告された、
律法と福音の中ではるかに重要なものと
信仰の中ではるかに重要なものを捨ててはならない
律法の中ではるかに重要なもの (マタイの福音書 23:23~24)
祝福を受けるためには従って忍耐しなければならない
神は愛でおられます。神は目に見えない方です。しかし、神は御子に対する限りない愛を通して自分を現されました。私たちが御子に対する神の愛を少しでも察することができるのは子どもに対する親の愛を体験しているためです。親は自分の命よりも子どもを愛します。御子に対する神の愛はこれと同じです。その愛を知るのが私たちの信仰です。
祝福という言葉を聞くと、人々は宝くじに当たるなどの物質的な幸せを思い浮かべたりします。私たちの周りには、神に物質的な豊かさを求めたのちに応答を受けることができなかったという理由によって失望して信仰まで失ってしまう愚かな者がいます。私たちがはっきりと知らなければならないのは神の御言葉は祝福を含んでいる種のようなものであるという点です。祝福を受けようとする者は必ず御言葉を受けなければなりません。御言葉を受けないというのは祝福を拒むということと同じです。
祝福を受け入れるというのは畑が種を受け入れるということと同じです。神がアブラハムに「私はあなたに祝福を与えよう。」と約束されると、アブラハムは種を受けるようになりました。農夫は実を得るためにまず種を植えます。その種が育って木となるまでには忍耐の時間が必要です。これと同じように、祝福の実を得るためには必ず忍耐しながら待ち望まなければなりません。
神は偽りを言われません。神は約束したことを覆さないで、何であっても必ずそれを成し遂げられます(民23:19~20)。それゆえ、神の御言葉は決して私たちを失望させません。私たちは神の御言葉を疑ってはいけません。疑うというのは神が与えようとされる祝福を拒むということと同じです。私たちは神によって蒔かれた種が根を下ろして健康に育つことができるように忍耐しながら待ち望まなければなりません。
祝福の根源となって子孫代々に祝福を受けさせよう
神は祝福を約束するときに常に「あなたとあなたの子孫は祝福を受ける。」、あるいは「あなたの子孫千代まで祝福を受ける。」といわれました。たとえ今すぐに祝福の結果が現れなかったとしても、私たちが神と交わる間に神の御言葉が私たちの中に根を下ろすのであれば、いつかはその実が現れますし、結局、私たちの子孫代々がその実を食べるようになります。反対に、偶像を拝むというのは呪いを蒔くということと同じであるために、子孫三、四代が呪いの実を食べるようになります。
親であれば誰でも子孫が健康に生まれて幸せに生きることを願います。しかし、子どもが障害をもって生まれたり不幸に遭ったりするのであれば、親は一生、苦しみを抱えて生きていかなければなりません。私たちは将来、どのようなことが押し寄せてくるのかを知りませんし、また、自分からどのような子孫が出て来るのかも知りません。私たちが選ぶことができる最善の道は祝福を受けることです。私たちが祝福の根源となるのであれば、子孫代々が祝福の実を豊かに食べることができます。イスラエルの人口は800万人にしかなりませんが、3億人を超える周囲のアラブ国家を十分に相手にしています。また、今まで輩出されたノーベル賞受賞者の約30%がユダヤ人です。今日、彼らがそのような実を享受することができるのは彼らの祖先が祝福を選んだためです。
神に向けられた愛を証明しよう
聖書の内容を一言で表現するのであれば、関係に関する話ということができます。聖書は第一に、父子関係、すなわち愛と孝によってつながる父と子の関係を語っていますし、第二に、夫婦関係、すなわち花婿でおられるイエスと花嫁となった教会の関係を語っていますし、第三に、兄弟関係、すなわち聖徒がキリストの中でひとつの体であるということを教えています。また、このような関係の中で最も重要なものは愛であるということを強調しています。律法をすべて守ったとしても律法よりも重要な神の愛を知らないのであれば、何の意味もありませんし、福音をすべて受け入れたとしても兄弟に対する愛がないのであれば、何の意味もありませんし、山を動かすほどの信仰があったとしても神に向けられた愛がないのであれば、何の意味もありません。聖書はそれを強調しています。
この世の人々の目には愚かに見えたとしても私たちが神に十分の一をささげることができるのは神を愛するためです。十分の一をささげるのは自分のものを自発的に神にささげることとは異なります。十分の一をささげることについて負担を感じるのであれば、それは最初からそれを自分のものと考えたためです。十分の一は最初から神のものです(マラキ3:7)。十分の一を完全にささげない者は献金をささげるときにも、できるだけ少なくささげようとします。「献金」という言葉には本来、「祝福」という意味が含まれています。私たちが喜びによって献金をささげるというのは私たちが祝福を受けた者であるという事実を現して証明するということです。
この世に属していた者がキリスト者になるというのは非常にむずかしいことです。しかし、キリストが再び来られる時までキリスト者が貞操を守り、キリストとともに結婚披露宴に入って行くというのもやさしいことではありません。私たちは戸が閉められる前に悔い改めなければなりません。まだ機会があるときに、神を愛さなければなりません。神を愛する機会を逃したイスカリオテ・ユダやサウル王のような者は結局、自殺して生涯を終えました。神が与えられた悔い改めの機会にこれ以上、背を向けてはいけません。神のものを盗んだことからはじめて、私たちが神に挑んだことがどんなに多いでしょうか? 私たちは神から御言葉を受けるときに、早く悔い改めなければなりません。
正義もあわれみも誠実も疎かにしてはいけない
信仰生活において義を知ることはとても重要です。神の義を知らない者は義務的に宗教生活をするしかありません。パリサイ人は律法に照らして少しの欠点も見つけるのがむずかしいほど聖なる生活をしていましたが、神の義を知ることができませんでした。神が御子に向けられた自分の愛を現したこと、それが義です。神と御子の関係を知る者が義を知る者ですし、そのような者だけが神の栄光を見ることができます。
神は御子を愛するその愛によって私たちを愛してくださいます。私たちは神が現してくださったその愛を受け入れなければなりません。私たち自身はもちろん、私たちの子孫までその愛を知らせなければなりません。子どもに向けられた人間の愛がどんなに大きいでしょうか? ましてやそのような愛を天性として与えられた神の愛はどんなに大きいでしょうか? 人々はときどき、自分が神の愛を受けることができていないという考えに陥ったりします。しかし、神が私たちに御言葉を聞かせ、その御言葉を私たちの心霊に植えようとされるということ自体が私たちに向けられた神の愛を証明しています。
神がキリストを通して私たちに向けられた愛を現してくださったように、私たちはキリストの体である教会を通して神に向けられた私たちの愛を現さなければなりません。イエス・キリストと私たちの関係は夫婦関係と同じです。夫婦関係の核心は無理やりに守る契約にあるのではなく、偽りのない愛にあります。その愛は一時的なものではありません。夫婦は互いのために自分を犠牲にします。相手の過ちを発見したとしても、絶えず赦してその関係を守っていきます。
キリストが妻となった私たちに願われるのは正義と憐れみと誠実です。正義と憐れみと誠実の核心は愛です。律法をどんなによく守っていたとしても愛がなければ、それは「ぶよはこして除くが、らくだは飲み込む。」ということと同じです(マタイ23:24) 。パリサイ人のように行為として完ぺきであったとしても神の愛を受けないのであれば、何の意味もありません。また、恵みを受けたとしても教会を愛さないのであれば、何の意味もありませんし、大きな信仰をもっていたとしても神を愛さないのであれば、何の意味もありません。私たちは神の要求が何であるのかを悟って、神に向けられた愛を現さなければなりません。神を愛するのが信仰です。これからは神に対する不信仰と不従順を悔い改めて、神を愛さなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 02. 21.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私には生涯、忘れることができない友が多くいる。ひとりひとり明らかにすることはしないが、ただこの人だけは誇りたい。牧師とは他の職種とは異なる職種である。人々は牧師が神になることを期待するし、この世は牧師を高貴な者と考える。それゆえ、牧師には肉体をもっている者としてひとり戦わなければならないことが少なくない。
ある理髪師が王の髪を刈るために宮に入ったが、王の耳を見て衝撃を受けた。王の耳がロバの耳のようであったためである。王は理髪師に「もしお前が私の耳を見たことをこの世に知らせるのであれば、斬首を免れることができない。」と厳しく警告した。理髪師は自分が見た王の耳をひとりだけ知っているのがつらくて、ついに病気にかかった。
そのとき、ある医者が理髪師の病気に気づいて、「あなたの病気は薬によって治るものではありません。台風の大風が吹く日に、枯れた大木の根元にある腐った穴に向かって、あなたの心の中に隠していることを叫びなさい。」といった。理髪師が医者がいった通りにしたところ、体のむくみは取れ、病気は治ったという。
人は自分が見たことを隠しておくことができない。それがむしろ病気になるためである。牧師は生涯、理髪師のように生きなければならない。その法を守らないのであれば、大きな試練を受ける。さらに牧師の周りにこのような理髪師が出て来るのであれば、どうなるであろうか。
牧師は神ではない。人であり、肉体であり、普通の人間である。ただ天の職分を受けて聖く生きているだけである。それゆえ、牧師は自らの苦痛に耐える。そのとき、近くにいる友の心も穏やかでないのも事実である。しかし、正直に私を知って私を守ってくる者がいるのであれば、それよりも幸せなことはない。ノアの裸を見たハム(カナン)は心の中にそれを隠しておくことができないで、ふたりの兄弟にそれを告げた。それゆえ、ハムとその子孫は永遠に呪いを受けたと聖書はいっている。目下の者の振る舞いがどんなに重要であるのかを知ることができる。
36年前、教会のバスの運転者として採用され、のちに按手を受け、長老となった趙貴一長老は私が外国に行くとき以外は一日も私と離れたことがなかったが、このたび高齢となり、私のそばを離れるようになった。私がこの人を称えたいのはこの人が教会の職員である前に教会の主人であったためである。まことの「管理人」であったためである。
彼は元老監督の社宅の仕事、家庭のこと、牧師の一挙手一投足、すべてをともにしたが、その口はまことに堅かったし、誠実であった。牧師や伝道師、執事、多くの者が彼から叱咤激励を受けたが、それは彼の品性がそうであったためではなく、彼がまことの教会の主人であったためである。
すべての人がこのような主人意識をもつことをまことに願う。私は趙貴一長老のおかげでまことに幸せであった。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室