2016.02.21_牧師コーナー

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】
2016. 2. 21.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師

私には生涯、忘れることができない友が多くいる。ひとりひとり明らかにすることはしないが、ただこの人だけは誇りたい。牧師とは他の職種とは異なる職種である。人々は牧師が神になることを期待するし、この世は牧師を高貴な者と考える。それゆえ、牧師には肉体をもっている者としてひとり戦わなければならないことが少なくない。

ある理髪師が王の髪を刈るために宮に入ったが、王の耳を見て衝撃を受けた。王の耳がロバの耳のようであったためである。王は理髪師に「もしお前が私の耳を見たことをこの世に知らせるのであれば、斬首を免れることができない。」と厳しく警告した。理髪師は自分が見た王の耳をひとりだけ知っているのがつらくて、ついに病気にかかった。
そのとき、ある医者が理髪師の病気に気づいて、「あなたの病気は薬によって治るものではありません。台風の大風が吹く日に、枯れた大木の根元にある腐った穴に向かって、あなたの心の中に隠していることを叫びなさい。」といった。理髪師が医者がいった通りにしたところ、体のむくみは取れ、病気は治ったという。
人は自分が見たことを隠しておくことができない。それがむしろ病気になるためである。牧師は生涯、理髪師のように生きなければならない。その法を守らないのであれば、大きな試練を受ける。さらに牧師の周りにこのような理髪師が出て来るのであれば、どうなるであろうか。
牧師は神ではない。人であり、肉体であり、普通の人間である。ただ天の職分を受けて聖く生きているだけである。それゆえ、牧師は自らの苦痛に耐える。そのとき、近くにいる友の心も穏やかでないのも事実である。しかし、正直に私を知って私を守ってくる者がいるのであれば、それよりも幸せなことはない。ノアの裸を見たハム(カナン)は心の中にそれを隠しておくことができないで、ふたりの兄弟にそれを告げた。それゆえ、ハムとその子孫は永遠に呪いを受けたと聖書はいっている。目下の者の振る舞いがどんなに重要であるのかを知ることができる。
36年前、教会のバスの運転者として採用され、のちに按手を受け、長老となった趙貴一(チョギイル)長老は私が外国に行くとき以外は一日も私と離れたことがなかったが、このたび高齢となり、私のそばを離れるようになった。私がこの人を称えたいのはこの人が教会の職員である前に教会の主人であったためである。まことの「管理人」であったためである。
彼は元老監督の社宅の仕事、家庭のこと、牧師の一挙手一投足、すべてをともにしたが、その口はまことに堅かったし、誠実であった。牧師や伝道師、執事、多くの者が彼から叱咤激励を受けたが、それは彼の品性がそうであったためではなく、彼がまことの教会の主人であったためである。
すべての人がこのような主人意識をもつことをまことに願う。私は趙貴一(チョギイル)長老のおかげでまことに幸せであった。

 

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室