私たちはバプテスマ人である
(マタイの福音書 3:13~17)
神は
唯一なる父でおられる
私たちがその方の子となるためには
必ずバプテスマを受けなければならない(使1:4~)
バプテスマは儀式ではなく、実状である
人によって造られたものではなく、
神の御心であり、命令である(マタイ3:13~15)
ナザレ人は
聖霊によって生まれたとしても、ダビデの根であったために、
バプテスマを受けることによって義を成就し、
神の御子として認められた(ローマ1:3~4)
イエス・キリストは命じて、(使1:4~)
「あなたがたは水と聖霊によってバプテスマを受けなさい」といわれたが、
バプテスマを受けた者は初めて
神の子と呼ばれるようになるし、
聖霊がこれに印を押して保証される(Ⅱコリント1:21~22)
私たちの信仰は体験する実状であり、(使19:1~5)
聖霊の保証を受けなければならない
水によって古い人を葬り、
聖霊によって新しい人として生まれ変わらなければならない
これがまことのバプテスマ人である
◎バプテスマを受けることによって肉体が変わるのではなく、
身分が変わり、
聖くなったのである
◎悔い改めがないバプテスマは儀式に過ぎない
神の関心を引くこともできないし、
罪の赦しを受けることもできない
◎バプテスマを受けた者は
イエス・キリストの人である
初めて神を父と呼ぶ
※キリスト教会の行事は体験である
儀式ではない
霊的な信仰をもとう
私たちはバプテスマ人である (マタイの福音書 3:13~17)
私たちは神の子である
神は唯一なる父でおられます。誰でも肉体の父がいますし、祖先がいます。ある人はすでに死んだ祖先に供え物をささげながら、祖先から祝福を受けるであろうと期待します。しかし、死んだ者が与えることができるものは何もありません。死んだ者を頼るのであれば、結局、自分を偶像に結びつけることになり、神に忌み嫌われる者となります。
神は生きておられます。その方は万物を造られただけではなく、万物が続けて生きていくことができるように今も絶えず働いておられます。その方は地に露と雨を与えることによって植物を成長させ、時に従って花を咲かせ、実を結ばせます。私たちが自分を運命に預けたり死んだ祖先に頼ったりしないで神を頼るのは神が今も生きて働かれるためです。
私たちはイエス・キリストを信じて神の子となりました。死んだ者の子孫でなく、生きておられる方の子となりました。今、私たちはその方の養育を受けていますし、将来、天の栄光を相続として受けるという約束を信じています。果たしてみなさんの心の中にイエスを信じる自負心があるでしょうか? 神の子という身分に対する誇りがあるでしょうか?
私たちはバプテスマを受けた
初めて神の御前に出て来たときに、私たちは神の御言葉通りに悔い改めてバプテスマを受けました。悔い改めとは立ち返ることです。太陽に背を向けていた者が立ち返ると、顔が明るく輝きます。このように神に立ち返るのが悔い改めです。人は誰でも多くの過ちを犯します。神が私たちに願われるのはそのような罪をひとつひとつ並べることでなく、自分の身分が罪人であるという事実を認めて神に立ち返ることです。
私たちは悔い改めてバプテスマを受けました。水の中に沈むことによって肉体に属していた情欲の人を葬りました。水と土は本質的に同じであるために、死んだ人を土に埋めることと霊が死んだ人を水の中に沈めることは同じです。また、私たちは水から上がることによってキリストに結びついた者となりました。そして、これによって聖霊にあずかった者となり、まことのキリスト者となりました。バプテスマを受けたとしても自分の性格が依然として変わらないと考えて失望する者もいます。しかし、私たちが知らなければならないのはバプテスマを通して変わったのは私たちの肉体ではなく、霊的な身分であるという事実です。
バプテスマは人によって作られた儀式ではなく、神の命令です。イエス・キリストは聖霊によって胎に宿ってこの世に来た神の御子でおられます。それゆえ、その方には罪がありません。それにもかかわらず、その方は神の働きをはじめる前にバプテスマを受けられました。ダビデの子孫という肉体の身分を葬り、神の御子という身分を現されたのです。神はバプテスマを受けて水から上がられるその方について「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」といわれました。これによって神はイエスが自分の御子であるという事実を確証されました。
バプテスマを受けるというのは復活という来世の力を感覚的に体験するということであり、神の子になったという証しを得るということです。それにもかかわらず、ある人は自分の信仰がまだ足りないという理由によって、バプテスマを受けることを拒みます。外見的にそのような態度はとても謙遜に見えますが、実際にはそれと反対です。私たちがバプテスマを受けたのは自分には自らを救うべき功労が何もないということを認めたためです。自分の足りなさを補充してからバプテスマを受けるという者はまことの悔い改めを経ていない者です。自分が罪人であるということを認めるのであれば、すぐにバプテスマを受けなければなりません。「私には何の功労もありません。それゆえ、イエス・キリストの功労を受けます。」と告白するのがバプテスマの意味です。
私たちは義人である
私たちが神の子になったというのは義人になったということです。普段から過ちを多く犯している者は自分が義人であるという事実をやさしく認めることができないかもしれません。しかし、バプテスマを受けたのであれば、自分が義人であるということを認めなければなりません。神の子になりながらも続けて罪人の思想をもっていてはいけません。どんなに罪過が多かったとしても「主よ、私を義としてくださったので、感謝します。」と告白することができなければなりません。神の子になったとしても続けて自分が罪人であるという考えを捨てることができないのであれば、霊魂が幸せになることはできません。律法と良心によって罪に定められた者は結局、地獄に行くしかありません。それゆえ、恵みを受けなければなりません。罪人の思想から脱け出さなければなりません。
イエスが祈るときに一度でも「父よ、私は罪人です。」といわれたことがあるでしょうか? その方は極めて謙遜な方でおられますが、そのようにいわれたことは一度もありません。私たちも同じです。イエスが私たちに「あなたがたは罪人である。」といわれたことがあるでしょうか? もちろんイエスを信じたのちにも、私たちは罪を犯します。しかし、そのたびに私たちは悔い改めます。そして、常に新しいはじまりをもつことによって進歩に進歩を重ねます。聖書を多く読んだとしても続けて罪人の思想から脱け出すことができていないのであれば、何の意味があるでしょうか? 神は罪人の父ではなく、義人の父でおられます。
私たちは再び来られる主を迎える者である
私たちはバプテスマ人であるという誇りをもたなければなりません。まだバプテスマを受けていない者は謙遜なふりをして後回しにしないで、早くバプテスマを受けなければなりません。私たちが義人となったのは最初から義人として生まれてきたためではなく、イエス・キリストが私たちを義としてくださったためです。イエス・キリストは十字架で死ぬことによって私たちの代わりに刑罰を受けられました。その功労を否定して続けて罪を担おうとする者は滅びるしかありません。
神をさらに愛してください。これからはイエスによってだけ生きようとしてください。そして、さらに大きな働きに用いられることを慕い求めてください。罪を犯したのであれば、神をさらに愛してください。神を愛してこそ隣人も愛することができます。主が来られるときに、罪人は裁きを受けなければなりませんが、義人は喜びをもって主を迎えるようになります。みなさんはどこに立つのでしょうか? 神を愛する義人は裁きの座に立たないで、救い主の前に立つようになります。イエスを救い主とした者は誰でもそのようになります。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室