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愛は赦す
(マタイの福音書 18:21~35)
神は
愛でおられる
その方が
この世を永遠に愛された(ヨハネ3:16)
その愛を十字架で見せられたが、
血を流すまで愛されたのである(Ⅰコリント1:18)
この世が苦痛に満ちているのは愛がないためである
この世が恨みに満ちているのも愛がないためである
この世には赦しがないために自由がない
赦しがないために宗教が多いし、
迷信があふれている
律法が限界を現したのは赦しが
なかったためである(ローマ8:3)
福音にいのちがあるのは赦しの
愛があるためである(ヨハネ10:10)
この世には赦しを受けることができない者があふれている
私たちは赦しを受けた者であり、(エペソ2:8)
神の愛を受けた者である(マタイ3:17)
イエスは愛の救い主でおられるし、
聖霊は愛の助け主でおられる(ガラテヤ5:22)
愛とは互いに赦し合うことである(マタイ5:7)
◎私たちには地球を離れる日が訪れる
天を受け継ぐことができないものだけを
この世に置いていく
◎愛はもっていくが、
愛がないものは置いていく
神の愛を受けることができないのであれば、置いていく
◎赦すことは愛である
七度の七十倍までも赦さなければならないし、
イエスの血のような愛を行わなければならない
※イエス・キリストは愛でおられるので、
その血は愛であり、
その恵みは永遠の愛である
愛は赦す (マタイの福音書 18:21~35)
初めの戒めを犯した人類の罪をイエスが贖われた
神は愛でおられます。神は自分の御心のために人類を創造されましたが、その人類を保存するために「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」という戒めを与えられました。神は人間を造るときに人間に自由意志を与えられましたが、これは戒めに従うのであれ、逆らうのであれ、自ら選択させるためでした(申30:19)。
悪魔の惑わしにだまされた人間は神が与えられた戒めを守ることができず、それによって霊が死ぬようになりました。霊が死んだというのは霊がなくなったという意味ではなく、地獄で永遠に刑罰を受けるようになったという意味です。このように絶望に陥った人間を憐れんだ神はイエス・キリストを遣わして、十字架で死なせました。神の御子が直接、死を通して私たちに救いの道を開いてくださったのです。
主は私たちに、死ぬべき運命から脱け出す過程としてバプテスマを与えてくださいました。バプテスマがなされる時間はとても短いですが、バプテスマがもたらす霊的の変化はとても大きいです。バプテスマを受ける者は水の中に入って行く瞬間、罪によって死んだ古い人を葬りますし、水から上がるときにはよみがえられたキリストと結びつくことによって復活にあずかる資格を得ます。
イエスは私たちの罪の価を代わりに払って、私たちの罪を贖ってくださいました。「贖う」という言葉には「救う」という意味と「借金を返す」という意味があります。イエスによる罪の贖いは永遠に一度だけです。イエスが十字架につけられるのは二度と起こることではありません。その方は十字架で死ぬことによって一度に人類のすべての罪の価を払われました(ローマ6:23)。
罪の贖いを受けたために、ことさらに罪を犯してはいけない
罪の贖いを受けた者はことさらに罪を犯してはいけません。神は罪の贖いを受けた者にバプテスマを与え、按手を与え、すばらしい御言葉を与え、のちに来る世の力を味わわせ、聖霊の賜物も味わわせました。このようにはっきりとした体験をしたのちに堕落するのであれば、その人は二度と悔い改めに立ち返ることができません。機会が少しでも残っているのであれば、自分の罪を贖ってくださった主の愛に感謝して御言葉に従わなければなりません(ヘブル6:1~8)。
神に向けられた愛は変わってはいけません。ことさらに罪を犯して、神から受けた恵みを消してはいけません(へブル10:26~31)。ことさらに犯す罪とは神に敵対する罪をいいます。ことさらに罪を犯すというのはバプテスマを受ける前の状態に再び戻って神の敵になるということです。そのようにことさらに罪を犯す者には再び悔い改める機会がありません。神はそのような者の罪を贖ういけにえをそれ以上、備えておかれませんでした。
教会はイエスの体ですし(エペソ1:23)、イエスは神でおられます。それゆえ、教会に敵対するのであれば、それもことさらに犯す罪と見ることができます。イエスは「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:15~17) といわれました。
アダムに与えられた戒めを犯した罪を神が贖われたのは一度だけです。ことさらに罪を犯すというのはそのような神の恵みを否定する行為となるために、ことさらに罪を犯した者には何の憐れみも期待することができません。イエスもそのような者の弁護者となられないために、その人は自ら神の御前で申し開きするしかありません(ローマ14:12)。
愛は赦す
神は罪の贖いを受けた者に新しい戒めを与えられました。これはいのちを得た者に永遠のいのちを得させるためでした(ヨハネ12:50)。イエスが生き返るために父の戒めに従われたように、私たちも永遠のいのちを得るために神の戒めに従わなければなりません。その戒めとは兄弟を愛しなさいというものです。
私たちはバプテスマを受けて、キリストの中でひとつの兄弟となりました。それゆえ、今、私たちがしなければならないのは互いに愛し合うことです。他の人の代わりに自分の命をささげたとしてもその人に愛がないのであれば、何の意味もありません(Ⅰコリント13:1~3)。愛とは何でしょうか? すなわち赦しです。神が私たちの罪を贖って赦してくださったように、私たちも互いに赦し合わなければなりません。
ある王が1万タラントを借りた者を憐れんで、借金を免除してやりました。ところが、借金を免除されたその人は自分に100デナリの借りがある者に機会を与えず、牢に投げ入れました。その事実を知った王がその人を呼びつけて、「悪いやつだ。お前があんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではないか。」といいました。この話を終えたのちに、イエスは「あなたがたもそれぞれ心から兄弟を赦さないのであれば、天の私の父もあなたがたにこのようになさるのです。」と強調されました(マタイ 18:23~35)。
ペテロが「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか? 七度まででしょうか?」と尋ねたときに、イエスは「七度までなどとはいいません。七度を七十倍にするまでといいます。」といわれました(マタイ18:21~22)。これは限りなく赦しなさいという意味です。
この世は次第に悪くなっていっています。今日、親が子どもに危害を加えたり、子どもが親を殴ったりすることさえもしばしば起っています。親子関係において最も重要なのは愛です。どんなに子どもに良い物を食べさせたり良い服を着せたりしたとしても、赦しがないのであれば、それは愛ではありません。夫婦の間でも愛がなければなりません。妻が夫を赦し、夫が妻を赦さなければなりません。
初めの戒めを犯して滅びるしかなかった人間の罪を贖われた神に対してことさらに罪を犯すというのは永遠に神と敵になるということです。教会に向けられた罪もやはりことさらに犯す罪に該当するために、赦しを受けることができません。しかし、人と人の間の葛藤は赦しさえあるのならば、すべて解決することができます。兄弟の間で互いに赦し合うのであれば、教会には愛があふれるでしょう。夫婦の間でも互いに赦し合わなければなりませんし、親子の間でも互いに赦し合わなければなりません。互いに憤りを抱えていないで、聖霊によって赦し合わなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 03. 20.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は19歳の青年のときに、聖霊と賜物を豊かに受け、幻も見て、主イエスの尊い血の力を限りなく叫びながら、礼拝堂で身もだえした。そのときから暗記するかのように新旧約聖書を繰り返し読んだ。そして、24歳のときに、主に召されて伝道者となった。水火も辞さないで、ただ伝道の働きをしながら一年一年、歳を取っていき、いつの間にか老年を目の前にしている。余生がどれほど残っているのかはわからないが、カイコが桑の葉をかじって食べるように、時間は私の生涯をかじって飲み込んでいっている。
ソウルに上ってきたときには3人家族であったが、今は嫁まで含めて4人となった。ひとりもいなかった教会員は数万人に増えた。ただひとつの道を走ってきた体は老いて、気力は水蒸気のように抜け落ち、辛かった思い出だけが残って松竹岩に埋められている。
私がもっていくものはない。ただこの地に置いていくものだけがある。さらに置いていきたいという欲に満ちている。窯の底に焦げついているご飯をスプーンでガリガリと引っ掻くように、私の体にへばりついている経験や栄光の体験をすべて剥がして置いていきたいという欲に満ちている。頭に多くの知識がなかったとしても、霊魂に満ちている栄光の福音仲裁や聖霊の賜物をすべて使っていきたいという欲に満ちている。
心霊についているものをすべて剥がしたのであれば、これからは私の魂が笑ったり泣いたりしたこの世での経験を文学として再び咲かせ、満開にしたい。私は生涯、視無言をしてきた。泥のかたまりとして息をしていた体はゆっくりと消えていく。しかし、文章は残って翻訳され、咲いて実を結び、全世界に広がっていく。そのようにしなければならない。これらの文章は創作であるが、はっきりと神の意図が入っているし、聖霊の感動によって書かれたものである。私がもっていくことができない主のものである。それゆえ、主の御名があるところで読まれるのである。
私は生涯、一度も無駄な落書きをしたことがない。この世にいる愛する人々をひとりひとり追憶しながら感謝して涙を流す。私が恨んで憎んだ人々も思い出として残っており、後悔を覚える。どちらにしても置いていくものをどうして愛することができなかったのか、恥ずかしさを覚える。私は人間である。人である。人は霧の中に消えていく。時間が過ぎるほど、私を覚える者は減っていき、私を認める者も消えていく。私を愛する者も私を忘れていく。しかし、私の文章は生き続け、よみがえって花を咲かせ、実を結び、広がっていく。
私が体、心、命を尽くして開拓して立てた教会は私の代わりに、主を愛する熱心さを噴出させるであろう。もし私が失望させたことがあるのならば、赦してください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室