
天国のかぎ
(マタイの福音書 16:13~20)
神は
造物主でおられる
その方が
すべてのものを御子のために造られたので、
御子は万物の主人でおられる(ヘブル1:2~3)
その方が自分の聖徒にかぎを与えられたが、
天と地と万物を得ることができる権威を与えられた(マタイ16:19)
これは
聖霊によって与えられたものであり、
天国のかぎである(ヨハネ3:5~8)
これを信仰というが、
信仰は従ってこそ成就される
従わないのであれば、得るものがない(ヤコブ2:26)
信者であっても信仰を実践しないのであれば、
得ることができない
信仰を実践するのであれば、得るが、これは
イエス・キリストの権限であり、約束である(マタイ28:18)
イエスの名と信仰はひとつである(ヨハネ1:12)
イエスの名は天国のかぎである
これが子としての権威である
聖霊がこれを守られる
◎信仰をもとう
イエスの名を頼ろう
信仰に印が押されると、天国のかぎとなる
◎私たちはこの地にいる間に
神の国の栄光を見ることができるし、
神の力と祝福を受けることができる
◎神が与えられた天国のかぎを無視しないで、
何にでも使いなさい
天で開かれる
※イエスが
神の御子でおられることと、
キリストでおられることを確信しよう
天国のかぎ (マタイの福音書 16:13~20)
子としての堂々とした姿を守ろう
神は造物主でおられます。その方が天と地と万物を創造されたのは御子のためでした。イエス・キリストはよみがえったのちに天と地のすべての権威を受けて天に上り、それによって万王の王となられました。その方はすべてのものの主権者であり、天地の主でおられます。驚くべきことはその方が信じる者にその権威を与えられたという事実です。私たちは神の子となりましたし、将来、復活して天を相続として受けます。残念なのは多くのキリスト者が自分がもった大きな権威を忘れて自らを孤児のように扱うという事実です。
イエスは「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31~32)といわれました。イエスのまことの弟子となるためには御言葉にとどまらなければなりません。御言葉にとどまるというのは「他の人が知らない聖書の知識を多く蓄積する。」という意味ではなく、「聖書に現れた神の御心を知って実践し、それによって神の御心を成就する。」という意味です。
また、イエスは「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)といわれました。神の御言葉が私たちの中にとどまるのであれば、私たちが何を求めたとしても、主はそれをかなえられます。ところが、ある人はこのような約束を受けたとしても自分に与えられた権威を用いようとしないで、まず人々の助けを求めようとしますし、それによって神の子としてもたなければならない堂々とした姿さえも失ってしまいます。
悪魔の権威に勝利する信仰をもとう
ピリポ・カイザリヤ地方の人々がイエスを喜んで迎えると、イエスは弟子たちに「人々は人の子を誰だと言っていますか?」と尋ねられました。弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言う人もいますし、エリヤだと言う人もいます。また、他の人はエレミヤだとか、預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。イエスが人々に自分を預言者と紹介したのであれば、決して殺されることはなかったでしょう。その方は自分を神の御子と紹介し、それによって殺されました。
今日、信者はよく「教会に通っているために、平安になり、夫の仕事もうまくいき、子どもも言うことをよく聞くようになりました。」と宣伝したりしますが、あまり「イエスは神の御子であり、私たちの救い主です。」と告白しません。イエスが弟子たちに「あなたがたは私を誰だと言いますか?」と尋ねられたときに、ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです。」と答えました。これについてイエスは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます私の父です。」といわれました(マタイ16:13~17)。
イエスは「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白する信仰の岩の上に教会を建てられました(マタイ16:18)。今日、キリスト教には多くの教派が存在しますが、教会は教派の上に建てられたのではなく、「イエスはキリストであり、神の御子である。」ということを認める信仰の上に建てられたのです。イエスは「このような信仰の岩の上に建てられた教会であってこそ悪魔の権威に勝利する。」といわれました(マタイ16:18)。
教会がリバイバルすることができないのはどうしてでしょうか? それは悪魔の抑圧のためです。エペソ人への手紙2章1~2節は「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」といいました。人であれ、教会であれ、罪の中にいるのであれば、この世の流れに従うようになりますし、それは悪魔の抑圧を受けているという証拠です。「イエスは生ける神の御子キリストです。」ということを徹底的に認める教会だけが悪魔の権威に勝利してリバイバルすることができます。
天国のかぎを使おう
イエスは教会に「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19)といわれました。神はダビデにかぎを与えられました(黙 3:7)。ダビデ王がイスラエルを治めていた40年間、太平の時代をなすことができたのは彼にかぎがあったためです。かぎをもった者には戸を開けたり閉めたりする権勢があります。神からすべての権勢を受けた主は私たちにかぎを与えながら、「かぎを与えるので、いくらでも開けなさい。あなたが開けるのであれば、天でも開かれますし、あなたが閉めるのであれば、天でも閉められます。」といわれました。私たちは主から受けたそのかぎを使って天の門を開けなければなりません。どんなに善良な良心をもって教会生活をしたとしても天の門を開けないのであれば、霊的な生活を進歩させることができません。
天国のかぎとは何でしょうか? イエスの名です。イエスの名は神が御子に与えられた最高のかぎです。ヘブル人への手紙書1章4節は「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」といいましたし、ピリピ人への手紙2章9節は「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」といいました。イエスはその名を今、私たちに与えてくださいました。私たちにイエスの名がなかったのであれば、私たちがどのようにして罪から脱け出すことができたでしょうか? 私たちがどんなに修養を積んで苦行をしたとしても、それによっては罪から脱け出すことができません。イエスの名によって私たちは罪から脱け出しましたし、バプテスマを受けてイエス・キリストの跡をもつようになりましたし、聖霊を受けて賜物を現すようになりました。
ある人は問題が生じるたびにイエスの名を頼って神の助けを求めるよりは特定の人を訪ねて行って相談をしたり祈りを要請したりします。このような人は外見的には信仰がいいように見えますが、実際には神秘主義的な性向をもつ者です。その人が教会の牧師を訪ねて行ったとしても同じです。何かの問題にぶつかったときに、私たちが優先的に探さなければならないのは人ではなく、イエスの名です。主は私たちに「その名によって何かを求めるのであれば、私がそれをしましょう。」と約束されました(ヨハネ14:13)。私たちは天国の栄光を相続として受ける神の相続者です。そのような権勢をもったのであれば、この地にいるときから天国のかぎを使うことを躊躇してはいけません。
イエスの名の前でひざをかがめよう
問題が生じるたびに人を訪ねて行く者のほとんどは心に自分の偶像を置いています。そのような人は神の助けを受けることはおろか、神から無視を受けるようになります。神は「心に偶像を置いたまま預言者に自分のことを尋ねる者、また、そのような人に偽りをもって答える者はともに滅びる。」と警告されました(エゼキエル14:3~10)。
神はイエスの名の前で謙遜な者の祈りを聞かれます。それゆえ、神がイエスの名によって命じられたことを無視する者は祈りの応答を受けるのがむずかしいです。反対に、イエスの名の前で謙遜にひざをかがめる者、すなわちイエスの名によって受けた職分を誠実に遂行する者、イエスの名によって受けた賜物を忠実に使う者は祈りの応答を受けます。
一、二度、祈ったのちにあきらめないで、応答を得るときまで続けて求めなければなりません。ダニエルは祈りはじめてから応答を受けるときまで、祈りをやめませんでした。実際にダニエルの祈りはすぐに神から応答を受けましたが、その応答を彼に伝えようとする天使の道を悪魔がふさいでいました。しかし、ダニエルはあきらめないで祈り、結局、21日後に応答を受けました(ダニエル10:13~14)。応答の時期は神にかかっています。私たちがすべきことは応答が来るときまであきらめないで神に出て行くことです。
問題が生じるときに人を頼るよりも、まず神を探す者とならなければなりません。イエスの名を受けたとしてもそれを使わないのであれば、天の門は依然として閉められています。反対に、私たちがイエスの名を使うのであれば、主は天の門を開いて、天にある霊的なものを限りなく供給してくださいます。主はすでに私たちに天国のかぎを与えてくださいました。そのかぎを倉庫に置いたまま、他の人に物乞いをして歩かないで、毎日、そのかぎをもって神の御前に出て行かなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 04. 03.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は常に「私は生きていたい。」と誓う。歳月は生きている者とともに流れていく。また、木が育つように、小さな芽が出て来て育つように、続けて変化とともに進歩がなければならない。水車のように続けて同じところを回るではなく、成長しなければならない。私は水車ではない。私は日々、創意があふれる創造的な生涯を送りたい。
「ただ一日も休まないで成長しなければならない。牧会であれ、説教であれ、創造的な進歩がなければならない。」と考え、何であっても、過去にしたことをそのまま維持しながら怠けるのではなく、成長する生活をすることによってすべてのことに創造的な合理性を追求する。そのようにしてこそ、発展し、さらに大きな働きをすることもできる。
種を蒔いたのであれば、芽が出て来なければならないし、芽が出て来たのであれば、枝や葉が出て来なければならない。その結果、花が満開となり、実を結ぶようになる。そのように「生きている」というのは日々、新しく育つということを意味する。私は以前、頼るところがなかったためにその場にとどまっていたが、イエス・キリストを迎え入れたのちには熱心に主に頼りながら、毎日、成長するためにすべてのことに創造的な生涯を送ってきた。その結果、私のように無価値であった者が今日、偉大な証人となった。
私がもしこの世を離れたとしても、私が蒔いた種は続けて芽を出し、育ち、花や実を結ぶと確信する。これが私の霊魂の喜びである。私は肉体の限界を感じているが、すべきことは多い。若者のように働きたいし、すべての人よりも熱心に働きたい。私の霊魂が一流となる信仰生活を期待する。
私は過去の境遇を恥ずかしく考えない。それは私の出発であった。無から今日の私となるまで主に頼って成長してきた。主イエスがただ一日も私の手を放さなかったし、私も主の手を放さなかった。それゆえ、肉体は疲れ、誰もうらやましがるほどの境遇ではなかったとしても、天の天使が私を見てともにしてくれたために、天使が私の証人である。
10年前よりも成長しなければならないし、3年前よりも成長しなければならないし、1年前よりも成長しなければならない。 肉体と戦ったとしても昨日よりも成長するためには霊が勝利しなければならない。肉体は私の霊の成長を妨害するが、私は再び肉体に勝利して、霊魂を成長させようとする。
「どのようにすれば、信仰生活をよくすることができるであろうか? どのようにすれば、文章をよく書くことができるであろうか?」と常に悩むのではなく、私には創意性が満ちあふれる。愛する聖徒たちよ、水車のような信者とならないで、毎日、成長する、創造的で偉大な聖徒となろう。アーメン
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室