2016.04.17_牧師コーナー

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】2016. 4. 17.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師

私は幸せが何であるのかを知っている。これは私が自由であるためである。自由は「放縦」をいうのではなく、すべての抑圧を克服することができる「信仰」をいう。神は自由でおられる。その方は天と地、どこででも制限を受けられない。人々がその方を無視して拒んだとしてもその方には関係がない。その方にだけ最後の勝利があるし、その方だけが永遠でおられる。

私は私の霊魂が願うものが何であるのかを知っている。私の霊魂は神が許された真理を頼る。肉体の働きは霊魂を妨害するが、神の真理は霊魂を自由にする。神のすべての御言葉と力が私の霊魂に幸せを与える。

御言葉の霊感、尊い血の霊感、聖霊の霊感は私の霊魂に慰めと力と満足を与える。肉体は肉体の道を行くが、霊魂は霊の道を行く。今、私は肉体に属しているのであろうか? あるいは、霊魂に属しているのであろうか? 実は2つすべてに属している。それゆえ、「肉体通りに生きるのであれば、必ず死ぬが、霊魂のために生きるのであれば、永遠に生きる。」ということを疑わない。

説教壇で神の御言葉と神の国について伝えるときに、私の霊魂は幸せを感じる。幸せに満ちる。私は疑わないために幸せである。私の霊魂を支配する勢力は何もない。私は霊魂が願うことであるのならば、何であっても同意する。

野花は背が高かったとしても、低かったとしても関係がない。ただ自分の季節に自分の姿を現しているのが自由である。信者でありながらも信仰を通して幸せを得ることができないのであれば、自由がない。私の霊魂が願うものは神が知っておられるし、イエス・キリストによってすべて許された。私の霊魂に力がないのであれば、私は不幸である。

霊魂が喜ぶのであれば、神に献身しようとする。説教したり文章を書いたりするのは私の霊魂を休ませないためであり、怠けさせないためである。それが私の自由である。神に仕える喜びは私の霊魂の自由である。私が私のすべてを神にささげるのは私の霊魂の自由である。肉体のためにすべてを犠牲したとしても、限界がある。生涯、肉体のために働いてきたのは老いてこれ以上、耐えることがむずかしい弱い体である。しかし、霊魂のために生きてきた生活は日々、その光に近づきながら、霊魂が豊かに受けた栄光を喜ぶ。

外なる人は衰えて、力と意欲を失っている。しかし、霊魂は日々、新しくなり、力に満ちる。肉体によるのであれば、霊魂はつまづく。しかし、霊魂を愛するのが私の自由であるために、私は自由を享受しようとする。私は自由である。私は神のために、霊魂のために生きる。

 

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室