
信仰を完全なものとされる聖霊
(使徒の働き 19:1~7)
神は
働かれる神であり、
自分の御心を成就される方である(エレミヤ33:2)
その方は
大きな働きをひとりでしないで、
御子によってなさるし、(ヘブル1:2)
御子によらずにはひとつもなさらない(ヨハネ1:3)
神が
この世に御子が必要であるということを知っておられたように、
主イエスは
私たちに聖霊が来なければならないということを知っておられた
神は御子に行わなければならないことを命じられたし、(ヨハネ10:17~18)
イエスは神の御心を行われた(ヨハネ6:38~40)
イエスは聖霊によって
神の御心通りに
聖徒を助けられる(ローマ8:27)
神の御心通りになされたイエスの働きは
聖霊によって聖徒の心に証しされ、(Ⅱペテロ1:19~21)
ついに、
聖徒の行いを通して
福音の実を結ばせる
◎聖徒は
聖霊の感動に積極的に順応し、
尊い血の力の偉大さを証ししなければならない
◎聖徒は
聖霊が主イエスの導きによって預けられた
福音伝道の使命を担う、主の体である
◎新しい戒めとは
聖徒を導かれる
主の働きに絶対に必要な環境である
※私たちに
聖霊の感動がなければ、信仰もない
聖霊の感動を受けて信仰を完全なものとしよう
信仰を完全なものとされる聖霊 (使徒の働き 19:1~7)
神の同労者となるためには信仰が完全でなければならない
神は働く方でおられます。神々に対する人々の一般的なイメージは何もしないでただ椅子にじっと座っているというものですが、神の性格はそれと大きく異なります。神は人類が存在する前、この世が存在する前から続けて働いておられます。聖書はこの世を造った方が神でおられると証しします。聖書の最初のページは神がこの世を創造されたという内容によってはじまりますし、最後のページは神が自分の御心をすべて成就したのちにすべてを整理されるという内容によって終わります。
もし私たちが神をじっとしておられる方と誤解するのであれば、また、神が自分とともに働かれなかったとしても心配にならないであれば、それは大きな問題です。私たちは神から生まれた神の子ですし、神とともに働かなければならない同労者です。どのようにすれば、神と関係を結んでともに働くことができるでしょうか? それを可能にするのは信仰です。信仰は目に見えない神と私たちの間をしっかりとした、永遠な関係として結びます。私たちは自分の中に信仰がしっかりと定着するように努力しなければなりません。
私たちの信仰は自分で考えるよりもはるかに低い水準であることもあります。私たちに必要なものは完全な信仰です。完全な信仰とは自ら満足する信仰ではなく、神に認められる信仰です。完全な信仰をもつというのは自分の努力だけによっては不可能なことです。神が私たちの信仰を完全にしてくださらなければなりません。
神を知るというのは体験するということである
信仰を完全にする方法とは何でしょうか? 何よりも重要なのは神を知ることです。神は自ら働かない方でおられます。冒頭に言及したように神は多く働く方でおられますが、自ら働かないで、御子を通して働かれます。もう一度言うと、神は御子を超越して働かれません。
神は御子を相続者とし、御子を通してこの世を造られました(へブル1:2、ヨハネ1:3)。神は天地を創造するときに直接、行わないで、御子に行わせました。しかし、そのすべては神がなさったのです。実際に建物を建てるのは施工者ですが、施工者は設計者が描いた設計図に従って建物を建てます。このとき、人々はその建物を施工者が建てたといわないで、設計者が建てたといいます。これと同じように、神は御心を立てられますし、御子はその御心を行って成就されます。
イエスは「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」(ヨハネ12:49)といわれました。神の御子を見るというのは神を見るということですし、神の御子を知るというのは神を知るということです。神とその方が遣わされたイエス・キリストを知る者は永遠のいのちを得ます(ヨハネ17:3)。
「知る」というのはどのような意味でしょうか? 単純に脳に何かの情報が入力されたという意味でしょうか? 永遠のいのちは頭に何かの情報が入力されることによって得るものではなく、体験することによって得るものです。神は私たちに永遠のいのちを得させるために真理を知らせました。私たちは真理を知るというのがどのようなことであるのかをはっきりと理解しなければなりません。知るというのは体験するということです。
聖霊は真理を体験させる
神と御子の働きは人間に永遠のいのちを得させることに集中しています。聖書は神の立場からは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)といい、御子の立場からは「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:13)といいました。また、御子は「わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:14~15)といわれました。父は自分のものをすべて御子に与えられましたし、御子はそれを聖霊を通して私たちに与えてくださるのです。
聖霊が働かないのであれば、誰もイエスに来ることができません。肉体が教会の建物の中に入って来たからといって、その人がイエスに来たと見ることはできません。イエスに来るためには必ず聖霊による体験がなければなりません。主が「真理の御霊が来れば、あなたがたを真理に導き入れる。」といわれたのは「聖霊がひっそりと来て働かれるのであれば、私たちは自然に真理の中に入って行くようになる。」という意味ではありません。真理を知るというのは偉大ではっきりとした体験です。
律法や預言者の預言は真理ではありません。イエスは自分を真理といわれました(ヨハネ14:6)。それゆえ、聖霊が私を真理に導き入れるというのはイエスに導くという意味です。イエスは天に上られましたが、私たちがどのようにしてその方に導かれるのでしょうか?イエスが真理でおられるというのはその方が流された血が真理であるという意味です。また、その方が裂かれた体が真理であるという意味です。真理とはイエス・キリスト自体です。主がなさった働きを伝える福音も真理です。結局、イエス・キリストが十字架で死んでよみがえられたすべての功労が私たちにとって真理です。
主は私たちの中でイエス・キリストの功労が聖霊によって確証されることを願われます。私たちは「イエスが十字架につけられて死なれた。その方は私たちのために血を流して体を裂かれた。」という事実を知っています。しかし、頭の中に入れられた情報は奪われることもあるために安心することはできません。私たちが天に入って行くときまで真理を奪われないためには聖霊によってイエス・キリストの功労についての確証を受けなければなりません。神の立場からはそれは私たちの信仰に印を押して確証するということですし、私たちの立場からは真理に対する確信を得るということです。
聖霊は私たちを神の御心に導かれます。私たちは先入観や固定観念によって聖霊の感動をふさがないで、聖霊が思い通りに私たちを導かれるようにしなければなりません。神は自分の御心を御子に与えられましたし、御子は父の御心をその通りに施行して完成されました。また、聖霊は御子を通してなされた神の御心に聖徒を導き、ひとりも失うことなく、すべてを永遠のいのちに至らせます(ヨハネ6:38~39)。聖霊は私たちに真理を体験させ、それによって私たちの信仰をしっかりとしたものにしてくださいます。
聖霊によって変えられて、主が残された福音伝道の働きを担おう
聖霊の働きによって私たちの信仰は完全になります。そのときから聖霊は第二の職務を行われます。それは聖徒の頑固さや先入観、過去にもっていたこの世のくずを取り除き、品性を変えることです。これは主の残された働きを担うことができるようにするためです。主は私たちも主のように労苦を払って忍耐しながら働くことを願われます(マタイ16:24)。主が私たちに残された働きは主が血を流してなされた恵みを多くの人に分け与えることです。その働きを担うためには心に苦難を受けなければなりませんし、肉体に疲れを負わなければなりませんし、死の脅威を受けなければなりません。それゆえ、聖霊によらなければ、誰もイエスの証人となることはできません。
私たちは福音を伝えながら、新しい戒めにも従わなければなりません。もう一度言うと、霊魂を救うことと仕えることを同時にしなければなりません。新しい戒めを守るというのは私たちがイエスの血によって恵みを受けた者であると互いに証しするということです。また、私たちが集まるたびに聖餐をするというのは互いに尊い血の恵みを受けた者であると確認するということです。私たちがそのようにしてこそ、この世の人々に私たちが神の人であるということを認めさせることができますし、それを通して彼らに神に栄光をささげさせることができます(ヨハネ13:35)。
聖霊は私たちの心や品性までも変えられます。そのようにしてこそ教会が主の残された働きをよくすることができるためです。私たちは他の人が失敗し、自分ひとりが成功することを喜ばないで、他の人よりも忍耐して苦痛を受けることを喜ばなければなりません。教会と常にともにしようという信義と忠誠を互いに見せなければなりません。私たちは教会を通して神の残された御心が美しくなされるようにともに力を尽くさなければなりません。このために聖霊は私たちの信仰を完全にしてくださいます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 05. 08.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
神が直接、作られた主のしもべがいるし、人によって人工的に作られた主のしもべもいる。人によって作られた主のしもべは力をもたないし、ただ敬虔な司祭のような宗教人となった。また、神が作られた主のしもべは信仰と従順によって謙遜に、そして、熱心に自分に預けられた働きをした。神はその人を良しとされた。
私は神が作られた主のしもべである。学んだものも誇るものもなかったが、神から与えられた聖霊に従ってきた結果、主の働きをするようになった。私の体には力が現れたし、私の霊魂には主の御国を愛する心が満ちあふれた。食べていく問題よりも「どのようにすれば、さらに主を愛することができるのであろうか?」という心だけが満ちあふれた。平信徒のときにも常に「どのようにしてお金を稼ぎ、教会を建てることができるのであろうか?」という心をもって生きてきた。
神はそのようにしてきた私の霊魂を祝福によって満たして自分の働きをさせた。日々、伝道の働きと教会での奉仕の働きをさせた。私は神が与えてくださった霊感をもって生きてきたし、働いてきた。その霊感に頼って祈ってきた。私が主を知っているというのが大きな祝福である。そのために、私は大胆になった。
年を取って老いたために、体には力がないし、怠けたいという思いが出て来る。私は主に召される日まで働かなければならない。伝道すること、病気を癒すこと、文章を書くことを休まない。私は月山文学を通してまことに私を顧みて、これからの働きを考えてみる。どれくらい生きることができるのであろうか、どれくらい働くことができるのであろうかと考えたりもするが、主が召される日までは続けて働かなければならない。
桜は咲いたとしても数日後にすべて散ってしまう。あと何回、このように咲いて散るのを見ることができるのであろうか。老いるのがもどかしいわけではない。老いたという言い訳によって働くことができないのではないかと心配する。私は働かなければならない。これが私の使命であるためである。
今年6月の月山文学祭を心待ちにしている。まるで子どもになったかのように、はやる心をもって待っている。文学とは何であるのかと尋ねる者もいるであろうが、人間は理性をもっているために、動物とは異なる特別な存在である。それゆえ、哲学がある。私は生涯、ただ主の手につかまれて生きてきたといっても過言ではない。それゆえ、私の人間としての領域は狭められてきた。私は人間であるために理性を顧みたいし、哲学世界にも行ってみたい。このようにして霊と肉の間で神が与えてくださった働きをすべてしたい。霊によって語って聞くことと肉体によって感じることがあるが、どのようにして調和をなしているのであろうか? 私の霊魂も主を喜ばせたいし、私の肉体も主を喜ばせたい。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室