2016.05.08_牧師コーナー

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】2016. 5. 8.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師

神が直接、作られた主のしもべがいるし、人によって人工的に作られた主のしもべもいる。人によって作られた主のしもべは力をもたないし、ただ敬虔な司祭のような宗教人となった。また、神が作られた主のしもべは信仰と従順によって謙遜に、そして、熱心に自分に預けられた働きをした。神はその人を良しとされた。
私は神が作られた主のしもべである。学んだものも誇るものもなかったが、神から与えられた聖霊に従ってきた結果、主の働きをするようになった。私の体には力が現れたし、私の霊魂には主の御国を愛する心が満ちあふれた。食べていく問題よりも「どのようにすれば、さらに主を愛することができるのであろうか?」という心だけが満ちあふれた。平信徒のときにも常に「どのようにしてお金を稼ぎ、教会を建てることができるのであろうか?」という心をもって生きてきた。
神はそのようにしてきた私の霊魂を祝福によって満たして自分の働きをさせた。日々、伝道の働きと教会での奉仕の働きをさせた。私は神が与えてくださった霊感をもって生きてきたし、働いてきた。その霊感に頼って祈ってきた。私が主を知っているというのが大きな祝福である。そのために、私は大胆になった。
年を取って老いたために、体には力がないし、怠けたいという思いが出て来る。私は主に召される日まで働かなければならない。伝道すること、病気を癒すこと、文章を書くことを休まない。私は月山(ウォルサン)文学を通してまことに私を顧みて、これからの働きを考えてみる。どれくらい生きることができるのであろうか、どれくらい働くことができるのであろうかと考えたりもするが、主が召される日までは続けて働かなければならない。
桜は咲いたとしても数日後にすべて散ってしまう。あと何回、このように咲いて散るのを見ることができるのであろうか。老いるのがもどかしいわけではない。老いたという言い訳によって働くことができないのではないかと心配する。私は働かなければならない。これが私の使命であるためである。
今年6月の月山(ウォルサン)文学祭を心待ちにしている。まるで子どもになったかのように、はやる心をもって待っている。文学とは何であるのかと尋ねる者もいるであろうが、人間は理性をもっているために、動物とは異なる特別な存在である。それゆえ、哲学がある。私は生涯、ただ主の手につかまれて生きてきたといっても過言ではない。それゆえ、私の人間としての領域は狭められてきた。私は人間であるために理性を顧みたいし、哲学世界にも行ってみたい。このようにして霊と肉の間で神が与えてくださった働きをすべてしたい。霊によって語って聞くことと肉体によって感じることがあるが、どのようにして調和をなしているのであろうか? 私の霊魂も主を喜ばせたいし、私の肉体も主を喜ばせたい。

 

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室