2016.05.29_牧師コーナー

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】2016. 5. 29.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師
 
過ぎ去った歳月を顧みると、聖書の御言葉が思い浮かんでくる。「空の空。すべては空。」。この教訓は真理である。しかし、たとえ肉体はこの世で過ごしてきたとしても、私の霊魂は神の恵みによって神の愛の中で働いてきた。私の霊魂は恵みを受けたが、私の肉体はとても疲れている。しかし、神から与えられた愛ほど肉体がついていくことができるのはひとつの特別な理由からである。それはただ忍耐である。これは誰が何回、尋ねたとしても、変わることがない答えである。

主の働きをするというのは忍耐なしには不可能なことである。一日に何回も揺れるときがあったが、忍耐によって耐えてきた。他の人の家で生活しながら心理的な苦痛が肉体の苦痛を凌駕したこともあったが、忍耐して、また、忍耐した。死にたいと考えるときも多かったが、そのたびに耐える力を発揮した。空腹でそれ以上耐えることができなかったときにも、さらに耐えることによってその危機を乗り越えることができた。

伝道や牧会がどんなに苦しいのかを数十年間、経験してきたといってもいい。50年前の文化生活と現在の文化生活は異なるために、精神だけをもってすることができなかったが、私は危機が訪れるたびに息をするように忍耐することを忘れなかった。

この世を生きる人々が苦しいのは忍耐力が足りないためであると考える。多くの牧会者を見ても、特別に足りないところがないように見えるが、少し会話をすれば、その人に忍耐力がどれほど足りないのかを知るようになる。他に説明するこができない。事業をする者であれ、職場に通う者であれ、限界を感じるというのは忍耐という大きな力を捨てたためであると考える。どんなに頭が良かったとしても、忍耐する力がないのであれば、花を咲かせることができない。

私が生きてきた道はただ忍耐する道であった。主が私を愛してくださるのは私がよく忍耐するためである。しかし、そのように耐えて、また、耐えたとしても、まだ忍耐力が足りないと感じる。耐えることができないで後悔することもあった。私は本来、忍耐力がない少年であった。しかし、私が大きな目的を立てたのちにはその目的のために走るのをやめることができないという信念があったために、耐えて、また、耐えることができた。聖霊を受けたのちには聖霊の実として忍耐を得た。今は聖霊がさらに働いてくださることによって忍耐を大きな賜物と考える。

私は今も耐える。また、耐える。しかし、それにも限界があるようで、少し心配になるが、やはり忍耐が最後に勝利するということを疑わない。主が私に与えてくださったこの忍耐力は普通の人がついてくることができなさそうである。

 

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室