2016.06.19_牧師コーナー

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】2016. 6. 19.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師

詩は文学の種であり、小説は文学の花であり、随筆は文学の実である。それゆえ、良い種があってこそ、美しい花を咲かせることができるし、そのようにしてこそ、良い実を結ぶことができる。私は生涯、このように信じて生きてきた。

私の肉体と感情と体験は私を文学の世界に導いた。しかし、私は文学の花といわれる小説を一回も書いたことがない。映画のシナリオとして小説を書いたことはあったが、それも当時の軍事クーデターによって水の泡となった。その後、私は新しい覚悟をもって詩をはじめた。詩は随筆を哲学的に扱ったものである。これを文学という。文学は哲学である。信仰ではない。多くの人がこれを混同するために、詩らしい詩が出て来ないで、信仰告白や教理を擁護する大衆的ではない文章が出て来る。これが現実である。

詩人になろうというのは紙に文章を書いていこうということではなく、人生のまことの種をまこうということである。たとえば、花の種はそれぞれ節度をもっている。赤い花の種が他の色の花の種とともにあったとしても、その色が永遠に変わることはない。もちろん人が人為的に接つ木をしてその色を改良し、遺伝子を変質させることはあるが、これは自然が毀損されたのである。

文学は良い種のようなものであって、太陽の下の真理ということができる。それゆえ、詩という種は赤い花の種であるのか、黄色い花の種であるのか、白い花の種であるのかという節操をもち、節度を守る花の種のようなものである。それゆえ、10回、植え替えたとしても、その花の色が変わることはない。

花は虚構である。長い間、咲いていることもできないし、台風や寒さに耐えることができない。しばらくの間、満開となったのちに散るだけである。小説は文学の花として美しいし、派手である。そのために文人は花を見ることを願う。私は花を知りながらも花を咲かせて見せることができないのが残念ではあるが、かといって、まったく花がないわけではない。いちじくの木には花がないように見えるが、その実の中に花がある。外見としては見ることができなかったとしても、その実の中には花が満ちあふれている。

聖書はまるでいちじくの木のようなものであり、外見は派手ではないが、その中に花が入っている。それゆえ、聖書文学はこの世の人々が見ることができない花を豊かにもっている。いちじくの木は種、すなわち根や実だけが見え、花を見ることができないために、人の心を引くことができない。聖書は虚構を見せない。聖書は心霊と霊魂の霊感であり、随筆である。それで、私は詩と随筆を書く。しかし、花がないのではなく、いちじくの木のように中に花が咲く。その実である随筆を書いている。

 

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室