
試みに勝利する信仰と忍耐
(ヤコブの手紙1:12~18)
神は
永遠に変わることがない方であり、(ヤコブ1:17)
真実な方でおられる
神の変わることがない真理である、
イエス・キリストは
私たちを天国に導く主でおられる
その方は人として来られ、忍耐によって試みに勝利され、(マタイ4:1~11)
神に従うことによって信仰を守られた(ローマ5:19)
そして、忍耐なしには試みに勝利することも、
信仰を守ることもできないという
信仰の実状を直接、見せられた(ヤコブ1:12)
神が
真理の御言葉をもって私たちをお生みになられたので、(ヤコブ1:18)
私たちはキリストの忍耐の品性を
当然、受け継がなければならない
忍耐は
私たちが神の導きを受けるために
絶対に備えなければならないものであり、
主が求められる人格的な徳目である
信仰は御言葉に従うことによってなされる
従順には忍耐が不可避である
◎主が
私たちに、忍耐の信仰の生涯を
求めておられるということを忘れてはいけない
◎肉体の欲を
忍耐によって克服し、
試みに勝利しよう
◎新しい戒めは
忍耐の徳が基礎となってこそ
従うことができるということを覚えよう
※私たちの信仰を
忍耐と望みという土台の上で成長させ、
すべての試みと挑みに勝利しよう
試みに勝利する信仰と忍耐 (ヤコブの手紙1:12~18)
信仰を守るためには努力が必要である
信仰生活をする中で「試みを受ける」という言葉をよく耳にします。試みを受けるというのは信仰に困難を与えることもある挑みを受けるという意味です。試みは特別な人だけが受けるものではありません。人であるのならば誰でも欲によって惑わしを受けることもありますし、突然の環境の変化によって不可避的に試練を受けることもあります。試みを受けるというのは思ったよりも私たちの近くにあることです。
試みを受けるときに、人々はよくその責任を他の人に転嫁しようとします。しかし、試みを受ける者がまず知らなければならないことがあります。それは「試みに耐えなければならない責任は他の誰かではなく、自分自身にある。」という事実です。信仰生活には喜ばしいことだけがあるわけではありません。救いはキリストの功労によって私たちに賜物として与えられましたが、救いを受けたのちの生涯には個人の努力が絶対に必要です。
神は永遠に変わることがない方です。その方が遣わされたイエス・キリストは真理です。その方の働きと御言葉もすべて真理です。真理の最も大きな特徴はどのような状況においても揺れ動くことも変わることもないということです。神がイエス・キリストを通して私たちに知らせてくださった、変わることがない真理があります。それを簡単にふたつに要約するのであれば、ひとつは「イエス・キリストを信じれば、罪の赦しを受ける。」ということですし、もうひとつは「神は罪の赦しを受けた者をその国に導かれる。」ということです。私たちはこのふたつの中のひとつをすでに体験しました。しかし、もうひとつはまだ成就されていません。すでに罪の赦しを受けた私たちには天国に入って行くことが残されています。
天国に入って行くことはまだ私たちに成就されていませんが、すでに確定された事実です。この真理はただ信仰によってだけ受けることができます。人間の常識によって受け入れることができないこと、まだ目に見えないことを信じるというのはこの世にとって受け入れにくいことです。真理は肉体の判断基準によってはまったく受け入れにくいものです。このようにこの世が受け入れない真理を信じて受け入れなければならないという点を考えるときに、信仰には必ず忍耐が伴わなければならないということを知ることができます。
信仰には忍耐が伴う
信仰の実体であるイエス・キリストをこの地に遣わす前まで、神は人類が信仰をもつことができるように人々を訓練されました。ノアは人々から後ろ指を指されながらも山の上で箱舟を造りました。それは神から命じられたことであったためです。彼にとって箱舟を造ることは楽しいことではなく、忍耐が要求される苦しいことでした。アブラハムは神の声を聞いて故郷を離れ、旅人として生活をしました。その当時、故郷を離れるというのは命をかけなければならない危険な行動でした。しかし、アブラハムは神が約束された祝福を自分のものとするために忍耐しました(へブル6:14~15)。モーセは聖書に出て来る人物の中で最もストレスを多く受けた者でした。彼はイスラエルをエジプトから救い出しましたが、この世を離れる日まで人々の反対と裏切りに苦しめられました。このように信仰の祖先から共通して発見することができるのは「忍耐こそ彼らの生涯を説明することができる最も核心的な概念である。」という事実です。
忍耐は信仰の祖先だけのものではありませんでした。神こそ誰よりも忍耐されました。ペテロの手紙第一3章20節は「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」といいました。ノアの洪水の事件は終わりのときに向かって疾走しているこの世についての型でした。ノアが箱舟を造っていた間にそのようになさったように、神は今も忍耐しておられます。
ある人は「どうして神の約束がすぐになされないで、遅れるのか?」と考えます。これについてペテロの手紙第二3章9節は「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」といいましたし、15節は「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」といいました。神が忍耐しておられるのはさらに多くの人に救いを得させるためです。
イエスはこの地に来て神を見せたのちに「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)といわれました。これは忍耐しない者は主に従う資格がないという意味です。キリストの忍耐によって神の愛を受けた私たちはキリストの忍耐を学ばなければなりません(Ⅱテサロニケ3:5)。イエスがパウロに忍耐されたのは彼を他の人の模範とするためでした(Ⅰテモテ1:16)。忍耐は神の品性です(Ⅱペテロ1:4)。聖霊の実の中にも忍耐があります(ガラテヤ5:22)。イエスは「神は良い地のような霊魂を探されるが、良い地とは神の御言葉を聞いて守り、よく耐えて実を結ばせる者である。」といわれました(ルカ8:15)。
苦難の中で何の目的もなく、忍耐することができる者はほとんどいません。学生があらゆる誘惑を振り切って忍耐しながら勉強するのは大学に入るという望みがあるためですし、軍人が苦しい軍隊生活に耐えるのは兵役を終えて除隊する日を待ち望むためです。これと同じように、キリスト者が忍耐することができるのは将来、復活して天国に入って行くという望みがあるためです。
忍耐は最後の日を待つキリスト者の基本的な品性です。ヨハネの黙示録に出て来る、聖霊が教会に送る手紙の内容を見ると、忍耐が聖徒の生涯においてどんなに核心的な徳目であるのかを知ることができます(黙2:2)。また、ヨハネの黙示録はこの世で信仰を守っていかなければならない人類にとって忍耐がどんなに重要であるのかを強調しています(黙13:10)。イエスが裁かれるときに、それぞれがどれくらい忍耐したのかによってすべてが決められるのです。神は私たちを天の御国にふさわしい者とするためにこの地で苦難を受けさせます(Ⅱテサロニケ1:5)。私たちに忍耐が必要な理由がここにあります。忍耐した者は公義の裁きで神の国にふさわしい者とされます。
忍耐力を養うために訓練しよう
イエスが忍耐によって試みに勝利されたように、私たちも試みを受けたときに忍耐によって勝利することができるように訓練しなければなりません。欲は試みを呼び込みますし、試みは信仰の価値を軽視させます。イエスは40日間の断食を終え、体と心が極度に弱まっている状態においても悪魔の試みに勝利されました。私たちも教会に不満をもったり、信仰生活に無力を感じたりするなど、悪魔の試みを受けるときに忍耐することができなければなりません。
忍耐の訓練とは信仰の訓練です。患難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性は望みを生み出します(ローマ5:3~4)。忍耐を軽視してはいけません。イエスが見せた最も強力な力は忍耐でした。今も神は私たちのために忍耐しておられます。イエスも私たちに神の忍耐を赤裸々に見せてくださいました。その忍耐の恵みを受けた私たちに必要なのが忍耐です。ヨブは忍耐によって苦難を克服し、それによって大きな祝福を受けました。神が私たちに忍耐させるのは結局、私たちをうまくいかせるためです。
互いに愛し合いなさいという新しい戒めを実践することにおいても、忍耐は非常に重要です(Ⅰコリント13:4)。愛を受けることとは異なり、愛を実践することは常に気分が良いわけではありません。誰かに微笑みながら挨拶をしたとしても、その人が挨拶を受けないときもあります。そのような気分が悪い状況が訪れたとしても、忍耐しなければなりません。自分がストレスを受けているのであれば、他の人のせいにする前にまず自分が試みを受けているのではないのかと顧みなければなりません。忍耐心が強い者は多くの困難を経験しながらも黙々と自分の役割を担います。
すべての聖徒が忍耐する者となるのであれば、教会はどこに出したとしても遜色がない、立派な教会となるのです。私たちはイエスに似て、イエスの香りを放つ者とならなければなりません。忍耐することによって最後の日に喜びをもって主に会うことができる者とならなければなりません。変わることがない真理によって生まれ変わった子であるために、自ら忍耐する者とならなければなりません。忍耐しておられる神の品性によって信仰を守り、天に望みを置くキリスト者とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室