父の御心通りにする聖徒
(マタイの福音書 12:46~50)
神は
その御心に従って御子をこの世に遣わして、
すべての人間のために大きな憐れみを施された(Ⅰヨハネ4:14)
その方は
悔い改めようとする罪人を探される(ルカ5:32)
神の御心とは
悔い改める心をもち、謙遜に教会に仕え、それによって
主に従う者を
永遠に愛するというものである(ヘブル5:9)
神は
悔い改めと従順の生涯をささげる者を
愛して助けられる
聖霊は
神の御心を日々、成就していく教会を
導くために来られた(Ⅰコリント12:11)
神はその御心を教会に与えられるし、
教会はその方の御心を成就していく
それゆえ、
教会は神の御心を受け入れなければならない、
神の宮のようなところである(Ⅰテモテ3:15)
新しい戒めは神の御心を成就していくという、
私たちの信仰の土台である(Ⅰヨハネ3:23)
◎教会を信頼しよう
さらに信頼することができる会衆となろう
◎神の御心に
絶対に従う生涯を
築き上げていこう
◎私たちはすべて
教会の兄弟となり、姉妹となり、
母となろう
※この世の終わり日まで
罪人であったということを忘れないで、
ともに神の御心を豊かに成就しよう
父の御心通りにする聖徒 (マタイの福音書 12:46~50)
「永遠に主とともにする家族」と考えられる者
イエスが御言葉を伝えているときに、その方の母と兄弟たちが訪ねて来ました。ある人がイエスに「あなたのお母さんと兄弟たちが外に立っています。」というと、イエスは「私の母とは誰ですか? また、私の兄弟たちとは誰ですか?」といわれました。そして、手を弟子たちのほうに差し伸べながら「見なさい。私の母、私の兄弟たちです。天におられる私の父の御心を行う者は誰でも私の兄弟、姉妹、また、母なのです。」といわれました(マタイ12:46~50)。
その当時の状況を考慮するときに、イエスの言葉はとても衝撃的なものでした。今日とは異なり、その当時の社会は家族すべてが協力しなければ、生計を維持していくことさえ困難な家族中心社会であったためです。それゆえ、血肉を超えて弟子たちを家族として紹介するというのは納得しにくいことでした。しかし、そのときにイエスが語られた御言葉を通して私たちは新しい望みや期待をもつようになります。イエスは将来、天に上ることを念頭に置き、そののちに起こることを望みながらその御言葉を語られましたが、イエスの心には天に対する望みが満ちていましたし、実の家族よりも熱く愛し、貴く考えた人々とともにそこで永遠に生きるという期待が満ちていました。
イエスははっきりと「私が永遠な家族と考える者は神の御心通りに行う者である。」といわれました。神の御心通りに行うということがどんなに重要であるのか、イエスは「私に向かって『主よ、主よ。』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者が入るのです。」といわれました。人々がどんなに「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によってしるしを多く行ったではありませんか?」といったとしても、主は「私はあなたがたを全然、知らない。不法をなす者ども。私から離れて行け。」といわれると断言されました。そして、「私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者はみな砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかも、それはひどい倒れ方でした。」といわれました(マタイ7:21~27)。
悪霊を追い出して力を行ったとしても、それによって神の御心を無視する生涯を正当化することはできません。神の愛を受ける者は誰でも神の御心を行わなければなりません。力が足りなくて神の御心を行うことができないこともあります。それについては悔い改め、それを改善するために努力しなければなりません。神の御心通りに行わないことについては終わりの日に必ず裁きがあります。その日に神の御子とともに永遠に栄光を享受する偉大な聖徒として認められるためにはこの地にいる間に力を尽くして神の御心を行わなければなりません。
父の御心を行うための4つの実践事項
神の御心を行うために優先的に実践しなければならない4つの事項があります。第一に、十分の一と奉納物です。今日、奉納物に該当するものとしては感謝献金、月定献金、節期献金、建築献金、特別献金などがあります。自分が神の人であるという確信をもたないのであれば、神に十分の一と奉納物をささげることができませんし、仮にささげたとしてもそれを続けることができません。十分の一と奉納物についての戒めに喜んで従わないのであれば、神に何かを求めたとしてもそれを受けることができるという確信をもちにくいです。そのような意味で、十分の一と奉納物は祈りの応答を受ける最小限の資格と見ることができます。
第二に、奉仕と伝道です。聖徒は誰でも奉仕を実践しなければなりません。自分がもっている特技や力をこの世ですべて消耗させないで、教会のために用いなければなりません。奉仕する条件が足りなかったとしても、礼拝堂で紙くずを拾ったりトイレを掃除したりすることはできます。そのような小さな奉仕も教会に益をもたらす貴重な奉仕です。伝道は聖徒が生涯、とどまることなく行わなければならない基本的な働きです。伝道について考えない日があってはいけません。常に誰かを伝道する準備をしていなければなりません。
第三に、休むことのない祈りとさまざまな集まりです。朝、目を開ける瞬間から夜、寝床に入る瞬間まで休むことなく祈らなければなりません。一日をはじめるときにはその日にしなければならないことについて祈り、一日を終えるときには感謝の祈りをささげなければなりません。それは常に神に心を開いておかなければならないという意味です。教会のさまざまな集まりには積極的に出席しなければなりません。ある人は集まりが自分に大きな助けとならないために集まりに出席しないといいます。実際に集まりがその人に大きな助けとならないこともあります。しかし、私たちが集まりをもつ最も重要な理由はそれを通して助けを得るためではありません。神は私たちに集まりを通して他の人とともに神と交わることを願われます。私たちが神に大きな助けとならなかったとしても神が私たちを捨てられないように、集まりが私たちに大きな助けとならなかったとしても集まることをやめてはいけません。
第四に、教会に対する愛です。教会に対する愛とは新しい戒めと同じ言葉です。教会に対する愛とは私たちの考えや生活習慣、生活哲学と関連した問題です。神の御心を行うためにはまず新しい戒めを実践しなければなりません。私たちが救いを受けたときからこの世を離れるときまでの時間は神が私たちに与えてくださった機会です。私たちには永遠な実のためにこの短い期間に担わなければならない職分があり、本分があり、性格があります。何の功労もなしに神のいのちを所有した私たちは神に大きな負債を負った者です。神がパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(Ⅱコリント12:9)といわれたように、私たちが受けた恵みは感謝しても余るくらいに十分です。それゆえ、神から続けて何かを受けようとばかりしないで、新しい戒めに従って教会を愛さなければなりません。
新約聖書の3人の記録者が語る神の御心
神の御心を大きな絵として考えると、その御心をさらに具体的に実践することができます。旧約聖書の成就を扱った新約聖書は2つ、すなわち福音書と手紙書に分けられます。福音書は神の御子がこの地に来て成就された贖罪の働きを見せています。福音書に現れた神の御心は御子を信じる者が永遠のいのちを得るというものですが、その御心はイエス・キリストの生涯を通して成就されました。それでは、神の御心を成就するために私たちがしなければならないことは何でしょうか? 私たちが神の御心を行うことができるようにイエスが備えてくださったものがありますが、それは教会です。教会がしなければならないことは福音伝道と教会運営です。新約聖書の手紙書はこれと関連して、教会の組織、職分、活動などを定めています。手紙書には使徒がイエスの教えを現場に適用した内容が記録されています。
手紙書の3人の記録者が明らかにしている神の御心があります。第一に、ヘブル人への手紙の記録者は「イエス・キリストの体が一度、ささげられたことによって、私たちは聖所に入ることができる。」と強調しました(ヘブル10:9~22)。その記録者はまず神の御心を成就するためにイエスが行われたことについて言及し、そののちに信じる者がしなければならないことについて語りました。これについてヘブル人への手紙10章23~25節は「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」といいました。
第二に、ペテロは神の御心について「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」(Ⅰペテロ4:1~2)といいました。そして、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Ⅰペテロ4:8~10)と強調しました。
第三に、パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)といい、続けてキリストの体の器官として愛の原則に従って行わなければならないと教えました。それは「それぞれが賜物によって互いに奉仕し、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣き、互いに高ぶった思いをもたず、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図り、すべての人と平和を保ちなさい。」ということでした。そして、パウロは「隣人を愛する者は律法を完全に守っている。律法のすべての戒めが『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という言葉の中に要約されているためである。愛は隣人に対して害を与えない。それゆえ、愛は律法を全うする。」といいました(ローマ13:8~10)。
新約聖書の3人の記録者を通して私たちが知ることができるのは神の御心がイエスの新しい戒めと同じ脈絡にあるという事実です。イエスの新しい戒めを守る者が神の御心を行う者ですし、教会を愛する者がイエスの新しい戒めを守る者です。
神の御心通りに教会を愛そう
神は私たちを通してその御心を成就するためにまず私たちに新しい生涯を与えてくださいました。神は私たちに施された愛と憐れみが消滅することなく、他の人に伝えられることを願われます。それゆえ、私たちは神の愛を受けた者として熱い心を失ってはいけません。私たちのために血を流してくださった主を目撃した者として感激をもって神の御心を行わなければなりません。主の教会に愛を施すことによって神に少しでも恵みを返すという努力をしなければなりません。
まず教会を信頼しなければなりません。そのように努力するのであれば、神も助けてくださいます。神の御心に従う生涯を建設するためにすべての聖徒が力を合わせなければなりません。すべての聖徒が教会の兄弟となり、姉妹となり、母とならなければなりません。私たちは神の御前で義人としての身分をもっていますが、本来は永遠に滅びる罪人であったということを忘れないで、負債を負った者としての心をもたなければなりません。感謝する心をもって変わることなく、教会に仕える聖徒とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室