天国のかぎをもつ教会
(マタイの福音書16:13~20)
神は
私たちを救って助ける主でおられる
教会は神の御子、イエス・キリストを信じる
信仰をもつ者の集まりであるが、
神は聖霊によって教会を集めて守られる(Ⅰコリント1:2)
悪魔は神の敵であり、私たちの敵である
悪魔はこの世を自分の支配下に置き、
人間をだまして滅びに導いていこうとする
悪魔をすでに裁かれた主は(ヨハネ16:11)
その教会である私たちに働きを与えられた
私たちは力を尽くしてその方の御心に仕える
主は私たちに天国のかぎを与え、(マタイ16:19)
権勢と力によって助け、
悪魔の勢力に勝利していくように助けてくださる
主の教会は
強力な組織力と愛と勇気の分かち合いを土台とする
信仰を通して(ローマ12:5~8)
この世の霊魂を救い、
病気を治し、貧しさと戦い、
苦難に勝利していかなければならない
○ 祈りによって力を合わせ、
主が教会に与えられた働きを
徹底的になしていこう(ローマ12:11~12)
○ 聖徒に
いつも愛と勇気を分け与え、
この世に勝利する力を得させよう
○ 私たちの信仰の生涯を助けてくださる
主をはっきりと信じよう
※天国のかぎが
私たちにあるので、
ともに力を尽くして戦おう
天国のかぎをもつ教会 (マタイの福音書16:13~20)
神の働きは教会を通してなされる
私たちにとって最も重要なものでありながらも近くにあるという理由によって疎かに扱われているものがあります。それは私たちが身を置いている教会です。教会はイエスが建てられたイエスの教会です。ペテロがイエスに「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白したときに、イエスは「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)といわれました。教会が建てられる基礎はイエスが生ける神の御子キリストであるということを認める信仰にあります。
教会がする働きは何でしょうか? この質問に対する答えは「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19)というイエスの御言葉から見つけることができます。この御言葉を今日の状況に適用するのであれば、イエスが天国のかぎを教会の指導者に与えられたと見ることができますし、さらに広い意味では教会に与えられたと理解することができます。
イエスは天国に関する問題、永遠のいのちに関する問題、救いに関する問題を教会に預けられました。そして、教会がそのような問題に関してこの地で決定することを積極的に支持すると約束されました。イエスが定められたこのような原則によると、教会の決定は天の決定であり、教会の判断は天の判断です。教会の役割はこのように神の働きにおいて絶対的です。神の働きは特定の個人の働きではありませんし、個人がひとりですることができる働きでもありません。救いはそれぞれが個別的に受けますが、神の働きは必ず教会という装置を通してなされます。
聖徒は教会という制度の中で働く
教会について多くの人が誤解していることがあります。教会に少なくない困難をもたらしている誤解とは「民主主義の理念に従って教会が運営されなければならない。」という考えです。人々がこのような誤解をもちやすいのは救いが個人の選択にかかっているためであり、天で受ける報いもそれぞれの行為にかかっているためです。しかし、教会生活においてまで個人の感情や考えが優先されなければならないと考えるのであれば、それは神の御心を誤って理解した結果であると見るしかありません。
私たちが救いを受けたというのは罪から解放されたという意味です。ある人は「私は罪から解放されて自由を得たので、これからは自分の思い通りに生きます。」といいます。しかし、私たちが知らなければならないのは「私たちは罪からは解放されたが、同時に義の奴隷となった。」という点です。「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」(ローマ6:19)という御言葉のように、私たちは自分の体を教会の働きにささげて聖さに至る機会を得た者です。
私たちが義の奴隷として担わなければならない神の働きは自分を満足させるものではありませんし、自分の思い通りにすることができるものでもありません。それにもかかわらず、神の働きには喜びによって自ら願って担うべき価値があります。その働きは本来、天国が担わなければならない天国の働きであるためです。天国から与えられた働きを担う者はどんなに聖くなるでしょうか? さらにその働きを通して得ることができる実はこの地に属したものではなく、天に属したものであり、その最後は永遠のいのちです(ローマ6:22~23)。
神の働きを担うときに、私たちは自分の考えを押し立ててはいけません。神の働きは教会という制度と秩序の中で組織的に進められます。狭い意味ではそれぞれの教会の中で進められますし、広い意味では教会の連合によって形成されたさらに大きな組織の中で進められます。また、さらに大きな視点で見ると、この世に存在するすべての教会がキリストというひとつの傘の下で働いていると見ることもできます。
私たちが教会の構成員として主の働きを担うために何よりも注意しなければならないことがあります。それはそれぞれが自分を実際よりも高く見ないで、神から与えられた信仰の大きさに従って自分の位置を冷静に判断しなければならないということです。体には互いに異なった器官が多くありますが、それらが互いに争わないで調和をなしてこそ、体全体が本来の機能を発揮することができます。これと同じように、私たちはそれぞれ神から分け与えられた賜物をもって協力し、教会の働きを成功させなければなりません。このためにはまず他の人を愛して尊重する心をもたなければなりません(ローマ12:3~8)。
愛によって行おう
霊魂を救うこと、信仰を立てること、病気を癒すこと、悪霊を追い出すことなどはすべて天の働きです。主はそれらすべての天の働きを教会に預けれらました。それゆえ、教会の働きはそれ自体、私たちに霊的な実をもたらします。この事実をはっきりと知ったのであれば、これからは言葉だけでなく、すぐに行動しなければなりません。神が預けられた働きを遅滞することなく行い、それによって実を結ばなければなりません。
その実が皮だけの殻とならないためには必ず愛によって行わなければなりません。人々から立派な評価を受けるほどの姿やすぐれた霊的な力がなかったとしても、愛だけは欠いてはいけません。愛によって行うという言葉は犠牲的に施すという意味です。ある人は犠牲的な生涯に慣れていないこともあります。そうだからと言って、実のない信仰生活を正当化することはできません。私たちは愛によって行う法を無理やりに習ったとしても、神から預けられた働きをなさなければなりません。
聖楽教会は草創期に爆発的な教会成長をなしたことがあります。その成長の秘密は何だったのでしょうか?その当時の教会員は霊魂をひとりひとり訪ねて行って顧みることを自分の生活の一部と考えました。これは「従わなければ、あなたが損をするだけです。」といって、前だけを見て走っていく現代人の姿とはかなり対照的です。その当時の教会員はひとりの霊魂を救うためにその人が直面した生活の現場でともに笑って泣くことを拒みませんでした。そのような過程を通してひとりの霊魂が救いを受けたときには結局、その人の家族全体が教会に定着したりもしましたが、そのような過程で信者は想像することもできないほどのエネルギーを注がなければなりませんでした。
病気を癒すことも決してやさしいことではありませんでした。教会員はまず霊魂の訴えを聞き、彼らの心の中にあるしこりをもみほぐしました。この世で傷ついた霊魂は事情を聞いてともに泣いてくれる教会員を見ながら心を開き、結局、キリストに自分を委ねて霊魂と肉体に大きな変化を体験しました。これは教会員が霊魂と肉体において彼らの重荷をともに分担して負ったために可能なことでした。
教会の働きに献身する聖徒の家庭に神もともにされる
教会の働きにはどれひとつとして自然になされるものがありません。私たちが聖書を読みながらも見逃しやすい事件も同じです。たとえば、エジプトから出て来たイスラエルが紅海を渡った事件がそれです。イスラエルは夏休みを楽しむために紅海に出て来たわけではありません。彼らは慣れていた生活の基盤を離れ、きちんと食べることも眠ることもできないままに遠くまで歩いてきたために疲れ果てていました。後ろから追いかけて来るエジプトの軍隊と前を遮っている紅海の間で彼らは老若男女すべてが恐怖に震えなければなりませんでした。紅海が分けられるときまで彼らが味わった苦難は決して平凡なものではありませんでした。
また、私たちの主はどうだったでしょうか? その方は平安に暮らしたのちに事故によって突然、死なれた方ではありません。その方が公生涯をはじめられたときから、人々はその方を憎みはじめ、時間が経つに連れてその憎しみには殺気が加わりました。その方は常に殺害の脅威を感じ、さまざまな悔しさを味わわなければなりませんでした。ホサナと叫びながらその方を迎え入れた者さえものちには殺人者であり、強盗であったバラバを選んでその方を捨てました。その方は肉片が落ちるまでむち打たれなければなりませんでしたし、十字架を負ったままゴルゴタの丘を上らなければなりませんでしたし、体にある血と水をすべて流して死ななければなりませんでした。私たちはそのような主の犠牲によって信仰を得た者です。私たちにある信仰は私たち自身がこれから正しい生涯を送ると決心することによって自然に生じたものではなく、神から与えられたものであり、イエスの苦難と引き換えに与えられたものです。
イエスが「あなたがたは私を誰だと言いますか?」と尋ねられたときに、ペテロはイエスが受けられる苦難について知りませんでしたが、「あなたは生ける神の御子キリストです。」と答えました。私たちはその当時のペテロよりも立派な信仰をもっている者です。私たちは苦難を受けられたイエスを知る信仰をもっているためです。このような信仰をもっているために、教会は天国の一部となり、母の胎のように私たちに差し出された霊的な領域となりました。このように主の苦難によって私たちの重荷が解決されたために、これからはキリストの教会である私たちが多くの者の重荷を解決しなければなりません。この地にいる間、このために体が粉になるまで力を尽くし、これ以上、癒されないほどまでに心が傷つき、すべての苦痛を受けてこそ、初めて安心してこの世を離れることができるのではないでしょうか?
今日、マンションの扉は堅く閉められていますし、人々の利己心は膨張していっています。また、市民意識の水準が低く、人々はそれぞれ自分の基準をもって他の人を攻撃しています。このような状況の中で主が預けられた働きを行うことは言うまでもなく、信仰生活を維持することさえもむずかしくなっています。それゆえ、教会に要求される犠牲や努力は以前のどの時代よりも大きいです。
教会がひとつになってまずしなければならないことは祈りです。祈りの応答を受ける秘訣は何かの要領にあるわけではありません。祈りの応答を受ける家庭には共通点があります。それは教会と血の同盟を結んだかのように心を尽くして教会に仕えるということです。イエス・キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)といわれました。何を求めるにしても応答を受けようとするのであれば、自分に常に実があるようにしなければならないというのです。どのような実でしょうか?イエスが聖徒との愛を強調しながらこのようにいわれたということを考えるときに、それが他ならぬ愛の行いを指しているということを知ることができます。
もちろんまことに教会を愛して熱心に奉仕する家庭がなかなか祈りの応答を受けることができないで苦しむ場合もあります。しかし、人生の暗いトンネルを通り過ぎるときに決してあきらめないでください。むしろそのようなときこそ信仰によって待たなければなりません。神はさらに大きなものによって報いようと決めておられるかもしれません。祈ったことがなされなかったとしてもさらに信仰に頼り、それによって神が私たちが期待していた以上に大きく働かれるということを体験しなければなりません。
この世でも自分の責任を果たさないで他の人から受けようとだけする者は良い評価を得るのがむずかしいです。ましてや人の心を探られる神の働きにおいてはどうでしょうか?それゆえ、神から何かを受けようとだけしないで、聖なる行いをもたなければなりません。聖なる行いがある者の祈りには力があるために、豊かな応答をもたらしますし、また、隣りで祈る者の信仰さえも強くします。このような人が多いほど教会にはさらに大きな力が生まれますし、神が助けられる働きがさらに強く起こります。
主の教会は強力な組織力と愛と勇気を分かち合う信仰生活を通して霊魂を救い、病気を癒し、貧しさと戦って苦難に勝利しなければなりません。このために誰かが自ら自分を低めて弱い家庭に向かって走っていかなければなりません。人の心に感動を与えることができるほど心を込めて、彼らに仕えなければなりません。誰かが試みに遭ったり病気に悩まされたりするときに、悪霊を追い出して病気を癒すことが思い通りになされないこともあります。それならば、病院に行ってでも助けなければなりません。生活の現場で霊魂の苦難をともに担わなければなりません。私たちがそのようにするときに神も天で私たちを助けてくださいます。
すべての聖徒がひとつになろう
祈りによって力を合わせ、主が教会に預けられた働きを徹底的になさなければなりません。以前は自分と家庭のためにだけ祈ったのであれば、これからはまず教会のために祈ってください。教会を困難にさせる要素が倒れるように祈り、また、神が預けられた教会を養育して導く監督のために祈ってください。祈る時間が足りないで自分と家庭のために祈ることができなかったとしても、教会と監督のための祈りは止めないでください。神はそのようにする霊魂を必ず探されますし、時が至ると、高められます。
聖徒に常に愛と勇気を分け与えてこの世に勝利する力を得させなければなりません。聖徒が互いに愛するときに、この世の人々は神が御子を愛したように御子の中にいる者も愛されるということを知るようになりますし、自分もその愛の中にとどまるようになります。それゆえ、教会のすべての聖徒はひとつにならなければなりません(ヨハネ17:22~23)。
このためには訓練が必要です。教会で聖徒と会話を交わすときにも自制しなければなりません。会話を交わすときに自分を高めようとする、この世での習慣を下ろして、自分を低めながら他の人に平安を与える会話を練習しなければなりません。塩辛い食べ物に慣れた者が塩を少なめにした料理に適応するまでには一定の期間、練習が必要です。自分を低める会話も同じです。自分を低める会話を練習する最適の場所は家庭です。まず家庭で妻や夫、両親や子どもを無視してはいけません。妻や子どもが祝福を与えるために神から選ばれた器であるかもしれないということを知って、貴く考えなければなりません。
私たちの信仰と生活を助けてくださる主を信じましょう。私たちは教会です。天から与えられた任務を受けた者です。私たちには天国のかぎがあります。すべての聖徒がともに力を尽くして戦いましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 08. 07.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は生涯、この世を離れるときにこの世に置いていくことをしようとしてきた。私に与えられた知恵は私のものではないために、それをこの世に置いていこうとするし、私がもっている知識は私のものではないために、それをこの世に置いていこうとする。樵が木を切るにしてもその実によって別の木が育つようにしなければならない。そのように私に与えられたものを私のものと誤解するのであれば、この世を生きる者すべてにとって無用なものとなってしまう。
良いアイデアは人類に大きな貢献をもたらすし、資産となる。それで、私は私が信じる道理を本として書く。時間が足りなくてすべてを話すことができないために、それを本として書こうとする。私の肉体は老いて、この世から消える日だけが残されているが、私が力を尽くして努力したことをむなしく捨ててはいけないと切に考える。
ある僧侶はこの世を離れながら「財産は無所有とし、自分が書いた本はすべて廃棄して、それ以上、出版してはいけない。」という遺言を残したが、私の思想はその僧侶の思想とは異なる。私のものはないが、私にあるものは人類の財産であると考える。その僧侶は自分が頼る宗教の哲学に従って自我滅相主義や虚無主義に支配されていたが、私はただ神の意図に従って生きようとする。神は私が無所有者となることを願いながらも、私がこの世に有益な者となることを願われる。それゆえ、この世で弟子を作り、教え、この世に置いていくようにされた。私はその御心に従おうとする。
どちらにせよ、私がこの世を離れるときには無所有である。しかし、私が豊かな知恵と経験をこの世に置いていくことによって多くの弟子がその基礎の上にさらに立派な信仰を築き上げていくということを疑わない。それらがすべて完成するのは私が定めることではなく、神が定められることである。それゆえ、私は神に賛美をささげるだけである。
財産がこの世にありながらも財産の作品がないというのは自虐である。麦の粒が落ちれば、死んで腐ってなくなる。しかし、それが芽を出し、大きな木となり、別の麦の粒を作らなければならない。私は自分が良い種となって死んだとしても、そこから出て来る芽が大きな木となることを願う。それゆえ、日々、私は良い種となることを願い求める。鳥が奪っていってしまう種とならないで、大きな木となって神殿の柱として生まれることを願い求める。
私は主の約束を固く信じているために、命を主の約束に預けた。思いを尽くし、品性を尽くし、力を尽くして生きたい。私は私のものではなく、主のものである。それゆえ、主が願われるのであれば、何でもその方の御心通りにすることができる。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室