神の痛みと教会
(マタイ 26:36-46)
永遠な父である
神は
卑しく罪が多い被造物に過ぎない
私たちを生かすために
永遠にご自身と一つである御子を犠牲にされた(ヨハネ10:30)
神は御子を死なせなければならない
大きな痛みを経験しなければならず(創世記 3:15)
御子も私たちを生かそうとしてご自身の命を差し出され
十字架の道に行かなければならない
大きな痛みを持たれた(マタイ 26:38)
神が痛みにあうのは
私たちが
永遠に再び痛みがない
身分と未来を持つようにされた(ヨハネ 1:12)
イエス・キリストの教会である私たちは
主が痛みを受けなければならなかった
この地に泊まる間
すなわち、この危機の時代が全て過ぎ去る時まで
主に向けた敬いと感謝の心を
ひと時も捨ててはいけないだけではなく
私たちはその方の痛みが
私達の教会の偉大な救いと
永遠の命の力になるようにしなければならない(ヨハネ 3:16)
そうしようとしたら、私たちも一緒に十字架を負わなければならない(ルカ9:23)
○ 聖徒たちのための愛と犠牲は
私たちの本分だ
○ 物質の世を超越して
主の教会の成功のために
一つになろう
○ 私たちに来る困難を
充分に克服する信仰を持とう
※ 私達は一緒に主の痛みに
栄光と感謝をささげよう
神の痛みと教会 (マタイ 26:36-46)
憐れみを施された神の痛み
神は恵み深い方でおられます。神はその恵みを他の被造物に与えないで、ただ人間にだけ与えられました。神の恵みは他の言葉で説明すると、憐れみ、あるいは慈しみということができます。憐れみと慈しみはそれを施す者の犠牲を前提にします。私たちのために自分の最も貴いものを犠牲にされた神が私たちの父です。私たちがこの世で体験する父の姿は完全な父の姿とは距離があります。ただ神だけが永遠で完全な私たちの父でおられます。私たちはその方が施してくださった恵みによって神の子となりました。それゆえ、これからは神の子としてふさわしい姿を備えなければなりません。私たちに憐れみと慈しみを施してくださった父なる神の心を痛めつけてはいけません。
神の恵みを知るというのは神の痛みを知るという意味を含んでいます。神の痛みを知るというのは神の憐れみを知るということと同じです。神の恵みと神の痛みと神の憐れみ、これら3つの要素は同一線上にあります。それゆえ、これら3つの要素を同時に知ってこそ、神の恵みを知るということができます。また、これに追加しなければならない要素がありますが、それは持続性です。神の恵みは一時期だけ存在して消えるものではありません。神の恵みは永遠です。
神の恵みを語る前にまず神の痛みを知らなければなりません。神がイスラエルを自分の民とされた過去を振り返ってみましょう。神はイスラエルの民を愛されました。しかし、イスラエルの民は神を裏切って他の神々に仕え、それによって神の心を痛めつけました。義なる神にとって罪悪に対する怒りは職分、すなわち任務です。それゆえ、神がイスラエルの罪悪に怒るというのは自然なことでした。しかし、神は怒りと憐れみの間で悩んだのちに結局、憐れみによって自分の民を治められました。ここで注目しなければならない事実があります。それは「神にとって罪に対する怒りはその方の任務であるが、憐れみは神が自ら価を払わなければならない大変な犠牲である。」という点です。
イスラエルの民は絶えず神を裏切って離れ、それによって神を痛めつけましたが、神は怒りと憐れみの間で苦しまれました。これは旧約聖書を通してすぐに発見することができる事実です。感謝すべきことは「怒りと憐れみの間で葛藤が生じるたびに、神は常に憐れみを選ぶことによって民を回復させることを願われた。」という事実です。
このような神の心はホセア書11章を通して確認することができます。神はイスラエルに「私があなたがたを子としたが、あなたがたは私を痛めつけた。それゆえ、滅びがあなたがたに及んだ。」といわれましたが、突然、「エフライムよ。私はどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。あなたを見捨てることができようか。それはできない。私の心は私のうちで沸き返る。私は燃える怒りで罰しない。」と心を変えられました。ゼパニヤ書を通してもこのような神の姿を見ることができます。ゼパニヤ書1章から3章8節までは神を敬わない者をすべて滅ぼすと警告されましたが、3章9節からは突然、「イスラエルよ。喜び歌え。エルサレムよ。喜び叫べ。私はあなたを苦しめた者をすべて罰し、全地でその名をあげさせよう。」といわれました。神は罪から脱け出すことができない民を見て、このように心を痛めて耐えなければなりませんでした。
私たちのために自分を捨ててくださった御子の痛み
このような状況は国が滅び、バビロンに連れて行かれた民が再びエルサレムに帰って来たのちにも続きました。神の働きは旧約聖書の最後の書を記録した預言者マラキののちに見えなくなりました。それから400年後にイエス・キリストがこの地に現れました。その当時、ユダヤ人が待ち望んでいたメシヤはローマの圧政を受けていた国を回復させる政治的な人物でした。しかし、イエスはそのような方ではありませんでした。イエスは人間に向けられる憐れみをもって来られた方でした。イスラエルのためにだけではなく、全人類に憐れみを施すために来られた方でした。
神がご覧になるときに、人間にはもう望みがありませんでした。律法によって訓練されたイスラエルとユダを見ただけでもそうでした。彼らは神の民という名札はつけていましたが、むしろ誰よりも罪悪によって神を痛めつけていました。イエスはそのような人間のために「彼らの罪を私が代わりに負おう。」といって、この地に来られました。誰でもその方を頼って罪の問題を解決し、この地での危険な時期を無事に通り過ぎるようにされたのです。それゆえ、今は誰でもイエスの中に入って来なければなりませんし、その方に仕えなければなりません。
神は私たちのために自分を犠牲にされました。神としての独立した道を犠牲にしてでも私たちと永遠にともにする道を選ばれました。イスラエルによって常に痛みつけられたにもかかわらず、人類を赦して神の子とするためにさらに大きな痛みをもとうとされました。しかし、神が払わなければならない価は非常に大きいものでした。神のふところにあった御言葉が人の子としてこの地に来て苦痛を受け、結局、十字架につけられて死ななければなりませんでした。その方が経験されたのは肉体の苦痛だけではありませんでした。その方は人々から憎しみと無視を受け、あらゆる心の傷を担わなければなりませんでした。
御子の死をご覧になる父の心情、また、御子の心情はどのようなものであったでしょうか? イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。今、私の心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時から私をお救いください。』」といい(ヨハネ12:23~27)、苦痛の中で悩む自分の心を吐露されました。しかし、その方は「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」(ヨハネ12:27~28)といわれました。父の御名に対する愛によってイエスは恐れと痛みに勝利することができました。
このようなイエスの祈りに天から「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(ヨハネ12:28)という応答がすぐに来ました。周りにいた人々が雷なのか、天使の声なのかと考えたときに、主は「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:30~32)といわれました。このとき、人々はモーセが青銅の蛇を旗ざおの上につけた場面を思い出したでしょう。イエスがこのように語られたのは自分がどのような死に方によって死ぬのかを見せるためでした(ヨハネ12:33)。
主はゲッセマネで祈ったときに、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(マタイ26:38)といわれました。その方は苦しんで、同じ内容をもって三回も祈られました。しかし、祈りを終えたのちには平安な姿で「時が来ました。さあ、行くのです。」といわれました。そののちに、イエスはピラトの法廷に立つようになりましたが、ピラトはその方からどのような罪も見つけることができませんでした。それにもかかわらず、群衆は囚人であるバラバを釈放し、イエスを殺すように叫びました。このように主は死の瞬間に向かって歩んで行かれました。イエスは人類を救い出すために言葉によっては表現することができない極端な痛みを経験されました。
神の痛みを知る者
人の子がこの地に来られたのは仕えるためでした。その方が仕えるために来られたというのは他でもなく多くの人に自分のいのちを贖いの代価として与えるために来られたということでした(マタイ20:28)。ある人は癒しの力を過度に強調し、イエスがこの地に癒しの力を伝えるために来られたといいます。しかし、ただ癒しの力のために来られたのであれば、イエスが殺される必要はありませんでした。神が御子を差し出すという大きな代価を払ってまで成就しようとされたのは罪によって死ぬしかなかった私たちを生かすことでした。
それゆえ、私たちは自分を義なる者と考えてはいけません。主は「義と認められたのは『私は取税人と異なり、義なる者です。』と祈ったパリサイ人ではなく、『私は罪人です。私をあわれんでください。』と祈った取税人である。」といわれました(ルカ18:9~14)。また、主は取税人や罪人と付き合うこと自体を不義と考えたパリサイ人に「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ 9:13)といわれました。イエスが私たちの代わりに死なれたのは私たちを憐れんでくださったためです(マタイ18:27)。
神の痛みは私たちが恵みを受けた瞬間になくなるわけではありません。神の痛みは終わりの日まで続きます。私たちが罪を犯したときに神は苦しまれますし、私たちが教会を愛さないときにも神は痛めつけられます。献金するときに誠意を尽くさないこと、十分の一を無視すること、教会よりも自分を大事にすること、これらによって神の心はさらに痛みます。キリストによって恵みを受けた私たちの本分はキリストの教会を愛することです。私たちは恵みに感謝する心をもってこの本分を守らなければなりません。神の恵みと愛、憐れみと慈しみを忘れないのがキリスト者としての正しい姿勢です。
キリスト者の姿をもつためには訓練が必要です。エペソ人への手紙4章29~32節の御言葉のように、悪い言葉を口から出してはいけませんし、ただ人の徳を養うために役立つ言葉を話して人々に恵みを与えなければなりません。聖霊によって印を押されたので、救いの日まで聖霊を悲しませてはいけません。将来の救いの日まで私たちは無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意を捨てて、憐れみをもって互いに親切にしなければなりません。神がキリストの中で私たちを赦してくださったように、私たちもキリストの中で互いに赦し合わなければなりません。
神の御子は私たちを救うために直接、痛みを受けられました。また、父なる神は私たちのために十字架で死んでいく御子を黙って見守りながら痛みを受けられました。神の恵みを言及するときに、私たちは必ず神の痛みを覚えなければなりません。そして、二度と神を痛めつけないと決心しなければなりません。私たちが教会であるのならば、当然にそのようにしなければなりません。救いの日まで神に感謝する者、忠実に神を喜ばせる者、神を愛する者とならなければなりません。神の恵みを受けた者としての礼を尽くさなければなりません。
救いがすでに完全になされたと考えるのは誤解です。パウロはテモテに書いた手紙で「父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。」(Ⅰテモテ1:2)といいました。キリスト者であるのならば、当然にこれらを維持しなければなりません。自分がこれらから離れないように常に恐れをもたなければなりません。聖書は私たちに「永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」(ユダ21)といいましたし、「終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」(Ⅰペテロ1:5)といいました。また、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」(Ⅰペテロ1:17)といいましたし、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2:12)といいました。それゆえ、私たちは神に向けられた感謝と謙遜と忠誠を止めないで、主の教会によく仕えなければなりません。この世が与える痛みを受けるときに、私たちのために痛まれた神の御前で堕落した姿を見せてはいけません。
キリスト者は神の恵みを伝える者です。神の恵みを伝えるというのは概念を伝えるということではなく、神の痛みを伝えるということです。神の憐れみに隠された神の痛みを知らないまま、神の恵みを語るのは不可能なことです。神の恵みを知る者、すなわち神の憐れみと痛みを知る者となりましょう。生涯、神の痛みを伝える者となりましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 08. 21.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
枯れてしまった木の根や草の根を切り取って器に入れて煮込むのであれば、その中にあるさまざまな成分によって漢方薬となる。これを飲むのであれば、虚弱な体質が改善されるし、病気の体が力を受けて起き上がる。
聖書には枯れてしまった木の根のような話も多くあるし、草の根のような事件も多くある。また、木の根や草の根のような人名や地名も多くある。そのようなものにはすべて御心や啓示のメッセージが含まれている。説教者は聖書のさまざまな事件を器に盛って火で煮込み、漢方薬を飲ませるようにすべての人に飲ませる。
それゆえ、イエスの証人となる者は聖書を多く読まなければならない。漢方薬を煮込むように火で煮込むのであれば、これが霊感となる。神の御言葉が霊感によって煮込まれるときまで多く祈り、聖霊の助けと感動を受けなければならないし、そのようにしてこそ説教をすることができる。霊感がない説教はただ生薬屋にぶらさがっている薬の材料のようなものである。人に飲ませることもできないし、効果を現すこともできない。
私たちはイエスの証人である。行いだけではなく、言葉によって証しする職分をもっている。ある人は私に「先生には霊感がある。」、あるいは「霊的である。」というが、陳列台に飾られている薬の材料に何の効能があるだろうか? 器に盛って煮込むように、私の霊魂が器となって煮込まなければならない。
私は常に煮込んでいる器のように熱い。それで、私の心霊に入って来た聖書のさまざまな人名や地名、事件がこの器の中で煮込まれるのであれば、漢方薬のように効能が現れる。それゆえ、私は常に漢方医のようにすべての御言葉や人名、地名、聖書の事件から霊感を引き出す。また、教会員もその熱い御言葉を受けて飲んでこそこの効能が現れる。薬が冷めてしまうのであれば、その分だけ効能が弱くなる。そのように教会員も霊感によってだけその効能を受けることができる。
イエスを信じる前には霊感がなかった。それゆえ、霊感によってだけ受けることができる御言葉を聞くことができなかった。しかし、今は聖霊を受け、聖霊によって神の御言葉を受けることができる霊感をもっている。このために礼拝の中でまず悔い改めて霊魂をきよくし、切に求め、賛美をし、それによって心霊を熱くする。私たちすべての心霊が煮込んでいる器となってこそ、神の御言葉が入って来るし、そのときに御言葉の権威と霊感が現れる。私たちすべてが霊感をもってこそ信仰生活に勝利することができる。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室