自らおられる方
(出エジプト記3:13~14)
神は
永遠の前から自ら存在し、(出3:14)
永遠に生きる唯一なる方でおられる
造物主でおられる神は
その御言葉によって
すべての被造物の存在をつかみ、
統治し、助けられる (ヘブル1:3)
しかし、人類は神を離れ、
自分の思い通りに生きようとする大きな罪を犯したし、
そののちにも神なしに自ら生きようとする
頑固な習性をもっているために
常に罪のくつわから脱け出すことができない
神の御言葉が肉体となって
この地に来られたキリストは(ヨハネ1:14)
自ら生きようとした私たちの重い罪を
赦されただけではなく、(エペソ1:7)
これからはそのような罪の力に勝利することができるように
その方のふところに私たちを置いて、
御言葉によって導かれる(ヨハネ16:13~14)
私たちはこの世の霊魂を
神の恵みの中に導くという本分をもった、
栄光ある主の体である(マタイ28:19~20)
十分の一を通して
私たちの信仰の最初のボタンを
正しくかけよう
考えと行動が
神の恵みと愛を頼る信仰によって
ひとつとなるようにしよう
愛と関心をもって聖徒を顧みて、
偉大な力をもつ教会となるように力を尽くそう
イエス・キリストに
私たちの生涯の
焦点を合わせよう
自らおられる方 (出エジプト記3:13~14)
神は自らおられる方
キリスト者はこの世の人々から社会の少数派として扱われたりもします。また、積極的に信仰生活をするキリスト者は社会から疎外された者として扱われたりもします。しかし、キリスト者は本当に疎外された者でしょうか? 実際にはその反対です。キリスト者はこの世の中心であり、全宇宙の中心です。神がどのような方であるのか、また、その方がどのような働きをなさったのかを知るのであれば、この事実を理解することができます。
神は自分を「自らある者」と紹介されました(出3:14、訳者注: 韓国語聖書では「『私はある。』という者」が「自らある者」となっている)。これは神が誰かによって創造された方ではなく、永遠の前から永遠におられる方であるという意味です。神はモーセに自分を紹介したときに、「私は『私はある。』という者である。」といってそれ以上、何の説明もされませんでしたが、それは自らある者がただ神だけであるためでした。
「自らある者」というのはこの世に何も存在していなかったときからその方がひとりおられたという意味でもあります。創造の前には何の空間も存在していませんでした。神はそのときにも存在しておられました。それゆえ、すべての被造物は神の中で存在しているということができます。神と比べるほどの大きな存在は何もありません。
また、「自らある者」というのはその方が造物主であるという意味です。万物は神によって創造された神の所有であり、神のために存在します。もう一度言うと、神は万物の主人です。ネヘミヤ書9章6節は「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」といいました。神は万物を造っただけでなく、それらを顧みて運営されます。
自らおられる方から離れた生涯
聖書が証しする核心的な内容は「神は自らおられる方である。」という事実であり、「そのような神の導きを受ける者は生きるし、神なしに生きる者は滅びる。」ということです。被造物である人間にとって正常な生涯とは神の導きを受ける生涯をいいます。イスラエルは戦争で多くの人を殺しましたが、彼らの行為が犯罪として扱われなかったのは彼らが自らおられる方の御言葉に従う者であったためです。個人であれ、民族であれ、神が求めるのは「その行為が正しいのか。」ということではなく、「神に属しているのか。」ということです。
この世は神なしに自ら生きています。聖書の中で、神なしに生きたのちに滅ぼされた者の代表的な例がソドムとゴモラの人々でした。ソドムとゴモラには人間が当然にもつべき正常な姿がなく、結局、それによって都市全体が滅びました。問題は人類の運命自体がソドムとゴモラの人々のそれと大きく異ならないという点です。
この世がこのように病むようになったのはどうしてでしょうか? その根本的な原因はエデンの園で起こった犯罪と関連があります。自ら生きようとする人間の性質は悪魔の惑わしからはじまりました。神は人間に「善悪を知る木の実を食べてはいけない。」という戒めを与えられましたが、悪魔は「それを食べると、神のようになる。」といって人間を惑わしました。結局、その惑わしを受け入れた人間は神から離れて滅びの道を歩むようになりました。
最初の人アダムのそのような堕落によって人類は神から限りなく遠ざかりました。そして、神から離れた人類の生涯がいつからか正常な生涯として認識されるようになりました。人間の悪が限界まで至ったときに、神はこの世を洪水によって滅ぼしました。しかし、神なしに生きようとする人間の身もだえは依然として衰えませんでした。彼らが自分の名のためにバベルの塔を築いたときに、神は彼らの言語を混乱させ、それによって彼らを地の全面に散らされました。人々は神なしに生きようとする自分の理想と方法をこの世に広め、それによって別の性格をもつ滅びに向かっています。
自らおられる方を頼る生涯
聖書はこのように絶望的な状況に置かれた人間に望みの道を見せています。アブラハムは神によって備えられたその道の出発点にいる者です。アブラハムは多くの知恵をもち、豊かな者でしたが、高ぶらないで神を恐れました。祭司メルキゼデクに十分の一をささげたこと、神の命令に従ってひとり子をいけにえとしてささげたこと、神の使いを手厚くもてなしたことなどは絶対的に神に従う彼の忠実な姿を見せています。その当時、同じ文化圏に生きていた他の人々とは異なり、彼は神の御前で自分を徹底的に低めて神の御言葉に敏感に反応しました。
神はモーセに現れて「私は『私はある。』という者である。」と明らかにされましたし、それによって、エジプトで暮らしていたイスラエル民族は以前、彼らの祖先アブラハムとイサクとヤコブに現れた神が自らおられる方であるということを確認し、その方に従ってエジプトから出て来ることによってその方の導きを受ける民となりました。神は彼らに「心を尽くして神を恐れ、ただ神の法に従って生きなければならない。」といわれました(申10:12~15)。なぜならば、ただ神の導きを受ける生涯だけが彼らにまことの幸せをもたらすことができるためでした。
ある人は「神が生きておられるのであれば、どうして私を助けてくださらないのでしょうか? 神は正しい方ではないのでしょうか?」と尋ねます。そのような人は神を人道主義という枠組みに閉じ込められている方、あるいは社会の正義に屈服する方と誤解しているのです。神は理念に従って動く方ではありません。人々が「神に縛られて生きる必要があるのでしょうか? 私たちには理性に従って自分の道を選択する権利があります。」と主張するのは神が見るときに「私たちにも滅びる権利があります。」と主張することと同じです。また、「神よ。私には私だけの夢と生き方があります。」というのは神が見るときに「私の中にある癌細胞を苦しめないでください。癌細胞も自分の生涯を享受する権利があります。」ということと同じです。また、人々が「あまり教会のことだけに執着しないで、自分の幸せを探さなければなりません。」と主張するのは神が見るときに「どうして私たちから地獄に行く権利を奪おうとされるのですか?」ということと同じです。
人類は最初から誤った道に入って行きました。この世は悪魔が支配するところです。悪魔は人々を神と遠ざけるために休まないで働きます。神はこのような世に生きている人々に一定の生涯の枠組みを提供されました。それは律法です。神が人々に律法を与えられたことにははっきりとした御心があります。神が人々に願われるのは人々が神の導きを受けることです。心を尽くして律法を守った者の証しの中には自分の力によって生きないで神を頼って生きようとする姿がよく現れています(詩119:89~105)。
神は私たちを困難にさせたり私たちから何かを奪ったりする方ではなく、いのちを与える方です。今、この瞬間、私たちが息をするのも神が呼吸を与えてくださるために可能なことです。私たちは神が万物の主人でおられるということを常に覚え、神から万物を得る者とならなければなりません。自ら生きようとする頑なな心を捨てて、ただ神を頼って生きようと決心しなければなりません。
教会のかしらであるイエス・キリストの中でひとつになろう
イエス・キリストはどのような方でしょうか? その方は私たちが自らおられる方に頼って生きることができるように助けてくださる方です。このためにその方はこの地に来て罪人の足を洗い、自分をいけにえとしてささげて罪の価を払い、天に上ったのちには休まないで私たちのために祈ってくださいます。また、その方は私たちをこの地で孤児のように捨てないで、聖霊を遣わして私たちを助けてくださいます。神は今、この瞬間にも私たちとともにおられ、主のしもべを通して自分の肉と血を供給しておられます。
イエス・キリストは神よりも低い方ではありません(ヘブル1:2~3)。その方は万物の上におられ、とこしえにほめたたえられるべき方です(ローマ9:5)。その大いなる方がこの地に来て私たちを助けてくださいました。その方は私たちの弱点を補い、自ら生きていた私たちの罪を洗い、全身全霊を尽くして神だけを頼るようにされました。その方の恵みによって私たちは自発的に神に頼る者となりました。
教会はイエス・キリストの中で神と結びついた者によって構成されています。神は万物をキリストの御前に服従させ、キリストを万物の上にかしらとして立てられました。教会は万物の上にあり、キリストは教会の上におられます。教会は主の体です。教会は万物を万物によって満たす方の満ちておられるところです。イエス・キリストは万物よりも先におられ、万物とともにおられます。それゆえ、イエス・キリストの中で天と地とその中にあるすべてのものがひとつになるのです。
父なる神は万物をキリストに服従させましたが、キリストは万物を父に服従させます(Ⅰコリント15:28)。その日が来れば、その方に属した者は復活し、キリストはこの世のすべての権勢を滅ぼして国を父にささげられます(Ⅰコリント15:24)。私たちは御子が父に国をささげるのを助けるしもべです。それゆえ、私たちは自負心をもたなければなりません。どのような逆境や挫折に遭ったとしても落胆してはいけません。偉大な神に仕える私たちには失敗があり得ないためです。
自らおられる方の恵みによって生きるために訓練しよう
自らおられる神の御心通りに生きるためには恵みによって生きる方法を学び、また、それを訓練しなければなりません。これを通して私たちの信仰は天と地のどのような存在よりも美しく整えられます。主は自ら生きようとする私たちの罪過が悪魔からはじまったものであるということを明らかにし、悪魔を罪に定めました。それゆえ、私たちの生涯は過去と同じであってはいけません。自らおられる方の恵みによって生きるためには次の7つの事項を実践しなければなりません。
第一に、十分の一と献金を徹底的にささげることによってこの世を超越する信仰を構築しなければなりません。十分の一と献金は今、神の愛を受け入れはじめた者であっても必ず守らなければなりません。十分の一と献金を徹底的にしないのであれば、それによって信仰が弱まる可能性があり、それ自体が永遠に拭えない霊魂の弱点となることもあります。神に向けられた信仰が肉体の行為を通して現れなければなりません。そのようなときにこの世を超越する信仰を構築することができます。
第二に、礼拝に成功しなければなりません。礼拝は私たちを生きた供え物として神にささげるものです。それゆえ、祈るにしても賛美をするにしてもすべての聖徒が心を合わせて大きな声でしなければなりません。祈りと賛美は心が動くときにだけするものではありません。祈りと賛美は神に向けられた聖徒の大切な義務であるだけでなく、神が施された福音を盛んにする教会の働きでもあります。説教を聞くときにも心を尽くさなければなりません。たとえ人の口を通して説教が伝えられたとしても、それを人の言葉として聞かないで、神の御言葉として聞かなければなりません。
第三に、教会から預けられた奉仕の働きと職分を徹底的に担わなければなりません。この世で肉体のためにすることがどんなに忙しくて重要であったとしても、神の国の働きを成功させるために力を尽くさなければなりません。このために一週間、続けて悩んで研究して準備しなければなりません。これは神の聖なる働きであるために、一生、変わらずにそのようにしなければなりません。たとえ明日、この世を去ったとしても、今日、そのようにしなければなりません。
第四に、新しい戒めを守らなければなりません。これは神の恵みを受けた者がこの世を離れる日まで変わらずに守らなければならない義務です。新しい戒めを他の言葉で表現するのであれば、「聖徒を顧みること」です。教会の中には試みにあった者もいますし、心に傷を受けた者もいます。恵みを受けた者であるのならば、自分の霊魂だけを考えないで、弱い聖徒を訪ねて行って慰めなければなりませんし、試みにあった者を助けて回復させなければなりません。
第五に、教会が進む方向と自分の意志を統一させなければなりません。すべての教会が声をひとつにしなければなりません。神が監督者を通して進めることが自分の考えと異なっていたとしても喜びによって教会と心を合わせることができなければなりません。
第六に、常に祈らなければなりません。私たちは祈らなければ、生きることができません。敵が常に私たちを攻撃しようとしていたとしてもそれが遮断されるためには、また、私たちが進む道を神が守ってくださるのを体験するためには常に祈らなければなりません。自分を神とともに歩ませるのは祈りの力です。
第七に、教会が伝道するエリート教会となるように準備しなければなりません。伝道する教会となるために必要な力量をもって準備し、それを強化しなければなりません。教会のすべて器官がともに努力、協力してこそエリート教会となることができます。教会を成功させるためにすべての聖徒が同じ夢をもって、ともに祈らなければなりません。自らおられる神の御言葉を頼りましょう。神の恵みによって生きましょう。私たちには神の助けを受ける権利があります。私たちは永遠に神に仕える神のしもべですし、永遠に神が喜ばれる神の子です。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 09. 04.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私の霊魂にはイエス・キリストの血とその方が与えてくださった聖霊の力だけがある。そして、私の理性には「戦争と貧しさと家族」という3つの流れが合わさった川があり、月山文学をなしている。
月山文学をまず理解して近づくのであれば、すべての人が同じ心をもつようになる。私は父なる神と御子と聖霊の愛と恵み、力によって霊的に堅固であるが、月山文学を通して人類すべてに主の声を聞かせるために最後に働きたい。
暗い夜のようなこの世を生きない者はいない。すべての人が実際に前途がまったく見えない、光もない苦しい人生の道を歩んでいる旅人である。この世の人々は病気によって暗く、貧しさによって暗く、知識の欠如によって暗い道をさまよっている。しかし、漆黒の空に月が昇るのであれば、その月を眺めない者はいない。太陽は目を開けて見ることができなかったとしても、月は見ることができる。その月が照らすおぼろげな道を踏み外さないで自分の道を急ぐ旅人のように、私たちはすべて月色の下で慌しい道を歩んでいく。山がない苦行はない。苦行には山があるが、その山の上に月が昇るのを見ない者はいない。それゆえ、自分の故郷のまことの物語がない者はいない。
貧しさや病気、無知によって故郷に望みがなかったとしても、そこから勝利しようという夢を抱かなかったであろうか。私たちが悔い改めて無価値な存在であるということを悟ってこそまことの信仰人となるように、苦行がない者はいない。故郷に春が来るのであれば、カエル、鳥、犬、草の虫の鳴き声が聞こえてくるし、さまざまな花や野花が咲く。故郷には先祖や情がある隣人がいるし、幼少時代の友人がいる。雨が降り、水が流れ、風が吹き、緑にあふれる。それらすべてが故郷を再び思い起こさせる素材である。
故郷がある者は偽らない。高ぶらないで、必ず故郷に恩を返そうとする。ならず者がたむろする政治の場を見なさい。偽って自分の人格を破綻させる。選挙になれば、どんなに卑怯になるのか。彼らは歴史が何であるのかを本当に知らないようである。彼らは故郷を忘れて生きる者である。
自分の人生を文章として書き、詩として歌うことができるのであれば、その人は正直である。私たちは正直な生涯を送るために故郷文学を書かなければならない。私は故郷文学である月山文学のために渾身の力を尽くそうする。すべての人が自分の子孫に与える文章を書くことを願う。自分はこの世を離れたとしても、文章は長い間、残って教訓を与える。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室