霊魂を主に委ねなさい
(使徒の働き 7:54~60)
神は
人間に霊魂を造って肉体を与えられた
人間の肉体は時限的な存在であり、
死んだのちには土に帰る(創3:19)
しかし、人間の霊魂は肉体が死んだとしても
決して消滅しない
それゆえ、
私たちは肉体が死んだのちにも続く生涯に対して、
最高の慎重さと決断をもって
対処せざるを得ない(ヘブル9:27~28)
救いを受けた人間の霊魂は
肉体が死んだのちにパラダイスにとどまり、
主イエスが再臨されるときに永遠な肉体をもって復活し、(Ⅰコリント15:51~52)
天国に行くようになる
しかし、不信者の霊魂には
永遠に続く恐ろしい刑罰を受けるための
順序だけが待っている(Ⅱテサロニケ1:8~9)
それゆえ、
私たちは肉体が生きている間に私たちの霊魂を
イエス・キリストに委ね、(使7:59)
その方の御言葉によって導かれるようにしなければならない
主イエスの働きと御言葉は
天国と永遠のいのちに向けられた唯一の道であり、力である(ヨハネ6:68)
◎主が預けられた職分と本分を
担うために肉体を投資しよう(Ⅰコリント15:58)
◎私たちを復活させる
主の霊に慣れる生涯を送ろう
◎霊魂の救いは霊魂を
主に委ねた者の特権である
伝道の心霊を訓練しよう
※私たちの教会に与えられる
主の御言葉に
敏感に反応する教会となろう
霊魂を主に委ねなさい (使徒の働き 7:54~60)
永遠に生きるようになる霊魂を誰に委ねるのか
神は人間の霊魂を造り、また、人間に肉体を与えられました。人間という存在にとって霊魂と肉体は互いに分離することができません。しかし、霊魂の道と肉体の道ははっきりと異なります。この世の人々は肉体の道を歩んでいます。実際にこの世は肉体の道を歩むのに最適な環境であるために、この世で霊魂の有益を図るためには肉体がさまざまな不便さに耐えなければなりません。それゆえ、聖徒の生涯には常に霊魂と肉体の間に葛藤が生じざるを得ません。
それにもかかわらず、人間にはこの世に存在する間に行わなければならない課題があります。その課題をどのように処理したのかによって人間は将来、天国にも行きますし、地獄にも行きます。もう一度言うと、人間はこの世でどのような葛藤を経験したとしても、イエス・キリストを受け入れることによって死から脱け出さなければなりません。滅びに向かって走っているこの世を捨てて、天国に方向を変えなければなりません。この人生の機会を逃してはいけません。しかし、不信者は霊魂の存在自体も認めません。霊魂が主人とならなければなりませんが、残念なことに肉体が主人の役割をしています。
肉体の寿命はとても短いですが、肉体がもっている欲求はとても強いです。肉体は感覚に縛られていて、感情に敏感に反応します。また、肉体はとても利己的であるために、要求事項が多いですが、他の人に施すことはとても惜しみます。肉体はあらゆる情欲によって霊魂が歩まなければならない道を妨害し、ある期限が過ぎると、霊魂に何の責任も負わないで突然、離れてしまいます。その反面、霊魂は消滅しないで、次の世界の門を開いてその中に入って行かなければなりません。顧みなければならないのは霊魂です。肉体は一度、土に帰ると、それ以上、顧みる必要はありませんが、霊魂はそうではありません。
果たして霊魂を誰に委ねなければならないのでしょうか? 私たちは霊魂をイエスに委ねた者です。イエスに委ねられた霊魂は肉体を失ったのちにパラダイスで休み、イエスが再臨される日に復活し、結局、天国に入って行きます。その反面、不信者の霊魂は肉体が死んだのちによみで恐れに震え、裁きの日に復活し、地獄に投げ入れられます。このように天国に入って行くにしても、地獄に投げ入れられるにしても、人間は誰でも復活して永遠に朽ちない体をもつようになります。
聖徒の復活はキリストの御言葉によって霊的な肉体を着るもの
イエスはよみがえられました。その方と結びついた私たちも復活します。しかし、私たちが経験するようになる復活はイエスの復活と性質が異なります。今、私たちがもっている体の根源は土です。しかし、イエスの体の根源は神の御言葉です。よみがえったイエスの体はその方が死ぬ前に使っておられた体です。その方は槍で刺され、むちで打たれたその体をもってよみがえられました。その反面、私たちの復活は土に帰った体を再び得るのではありません。私たちの復活は神の御言葉によって霊が体に変わるものです。それゆえ、私たちはこの地で使っていた体にこだわる必要がありません。
主が再臨される瞬間まで生きている聖徒の場合はどうでしょうか? 彼らは自分の体が一瞬にして霊的な体に変わるのを経験するようになります。これは聖くないものが聖いものに変わるという意味ではありません。ペテロの手紙第二3章10節は「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」といいました。土から出て来た体は主が再臨されるときに突然、消えてなくなり、それと同時に霊が体に変わります。それゆえ、人の立場からはそれが腐る体が腐らない体に変わると認識されます。
不信者も復活を経験するようになります。聖徒の第一の復活があってから1000年後になされる彼らの復活は刑罰を受けるために準備されたものです。肉体がない状態では霊魂が感覚をもたないために、刑罰というものに意味がありません。体があってこそ感覚をもつことができますし、感覚をもってこそ苦痛を感じることができます。そのようにしてこそ刑罰が意味をもつようになります。不信者は永遠に消えない体を受けたのちに初めて地獄に投げ込まれます。これが第二の死です。
主の御言葉に霊魂を委ねよう
今、この地には信仰と不信仰のふたつの世界が共存しています。不信者は信者が伝える救いの知らせを信じようとしませんし、聞きたがりもしません。ある人は死後の世界を認めようともしません。また、ある人は死後の自分を子孫に委ねます。彼らにとって子孫は自分の死後の責任を取る存在です。子孫がいない場合、人々は養子を迎えてでも自分の霊魂を委ねようとします。彼らと異なり、私たちは自分の霊魂をイエスに委ねた者です。
初代教会の按手執事のひとりであるステパノはキリストを証ししたのちにユダヤ人によって殺されました。死ぬ前に神の右の座に立っておられたイエスを見て、「主よ。私の霊をお受けください。」と叫びました。今はこの告白を当然なものと考えますが、生涯、ユダヤ教の中で生きてきたステパノがそのように語ったというのは驚くべきことでした。ステパノは怒った群衆が投げた石に打たれたにもかかわらず、むしろ「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と彼らのために祈りました。彼がそのようにすることができたのは自分が天の御国に行くという確信と主が自分の霊魂を預かってくださるという確信があったためです。
主は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)といわれました。この御言葉は聖書の中にだけ記録された御言葉ではなく、今日、私たちに与えられた主の約束です。また、主は「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2~3)と約束されました。この約束を信じることによって、私たちは人となってこの世に来た御言葉に自分の霊魂を委ねなければなりません。その方が将来、私たちの霊魂を父の家に連れて行ってくださるためです。
イエスの御言葉を実践するのが私たちの霊魂をその方に委ねる方法です。何よりも重要なのはその方が語られた通りに命を尽くして神の働きを担うことです。もう一度言うと、私たちは教会の働きを神によって与えられた栄光の相続と知り、命をささげて担わなければなりません。肉体の時間が尽きる日まで御言葉が人となられた方に霊魂を委ねる信仰の姿を守らなければなりません。
私たちはキリストの功労によって義とされましたが、それによって自動的に聖なる者となったのではありません。主は義とされた者に天の働きを担わせることによってその人を聖なる者とならせます。それゆえ、どんなに小さな働きであったとしても、それが主から与えられたもの、教会のためのものであるのならば、私たちはそれを感謝して担わなければなりません。そのようにしてこそ、主の再臨の日に私たちは霊的な体を受け、永遠の国に入って行くようになります。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室