神の子のための証し
(ヨハネの手紙第一 5:1~12)
神は
滅びる人類を救うために
御子をこの世に遣わされた(Ⅰヨハネ4:14)
イエスは私たちを自分の中に抱くことによって
私たちにいのちを与え、
神の子とし、
永遠のいのちの道を行かせる(ヨハネ5:24)
私たちの信仰の当為性を証しするのは
その方がこの地に水と血によって来られたという歴史的な事実自体である
最も強力な証しは
これを教会を通して立証する
聖霊の証しである(Ⅰヨハネ5:5~8)
滅びる人間の証し、
すなわちまだ罪から脱け出していない者が現す証しは
他の人に対する悪い行いである(エペソ4:31~32)
主イエスは
神の子に
愛の実践を戒めとして与えながら、彼らが
神に属した者であるという事実が
心の中での聖霊の証しだけではなく、
行動によっても現れるように、外的なしるしをもちなさいと命じられた
新しい戒めは
聖霊によって導きを受ける教会が従わなければならない
最も重要な戒めである(Ⅰヨハネ3:23~24)
◎教会員を愛する姿勢と心を
常に訓練しよう
◎心と考えが試みにあわないように
教会に対する愛に心と考えをともにしよう
◎私たちの教会のために
絶えず祈ろう
※神に教会を愛する
信仰生活をささげ、
私たちが神の子であるという神の証しを受けよう
神の子のための証し (ヨハネの手紙第一 5:1~12)
聖霊の証し
私たちはナザレ人イエスが神に遣わされたキリストでおられることを信じます。また、その方が神の御子でおられることを信じます。私たちはこの事実を信じて伝える、福音の証人です。しかし、この世にはこの真理を否認する者がいます。新約聖書が記録された当時にもそのような者がいました。ヨハネの手紙第一5章1~12節にはそのような者の主張に反駁する御言葉が記録されています。
異端性をもっていた彼らの主張はこのようなものでした。「イエスはただの人間に過ぎない。たとえその方がキリストという職分を受けて働いたとしても、その方を神と見ることはできない。その方が十字架で流された血は神の血ではない。それゆえ、その方の血が人類に実質的な変化をもたらすわけではない。」
このような主張に対してヨハネの手紙第一5章5~6節は「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。」といいました。ここで言及された「水」の意味を理解するためにはイエスが受けられたバプテスマを考えればいいです。当時、異端的な主張をする者もイエスが水によって来られたという事実は認めました。もう一度言うと、バプテスマを含め、その方がなされた働きをすべて神の働きと認めました。しかし、彼らはイエスが神でおられるという事実を否認しました。もし彼らの主張が正しいのであれば、イエスの血は神の血ではありませんし、それゆえ、その血は人の罪を贖うことはできません。使徒ヨハネはこのような異端的な主張に反駁しながら、イエスがなされた働きが神の働きであり、また、その方が神の御子でおられることを証ししたのです。
ヨハネの手紙第一5章6~8節は「あかしをする方は御霊です。御霊は真理理だからです。あかしするものが三つあります。霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」といいました。イエスがバプテスマを受けられたことからその方が十字架につけられたのちによみがえって天に上られたことまで、すべてが歴史的な事件として実際に起こったことであり、それ自体が力強くイエス・キリストを証しします。これが水と血の証しです。これとともに証しする方が聖霊です。聖霊の証しは水と血の証しと一致します。それゆえ、水と血と聖霊がひとつです。
ヨハネの手紙第一5章9節は「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。」といいました。ある人はイエスの死と復活を直接、目撃しました。それも水と血についての重要な証しです。しかし、それよりも大きな証しは神の証し、すなわち聖霊の証しです。私たちはイエスが神の御子キリストでおられるという事実を聖霊の証しを通して知りました。
ヨハネの福音書1章12節は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」といいました。イエスを迎え入れるというのは「イエスが生ける神の御子キリストです。」と信じるということです。これは「イエスが水と血とによって来られた方です。」と信じるということです。また、これは聖霊の証しを受けるということです。このような聖霊の証しを受けた者が神の子です。それゆえ、「イエスは生ける神の御子キリストです。」と告白するというのは「私は神の子です。」と認めるということです。
聖霊の証しを受けた者
一般的に悪い行動をとった者を罪人といいます。聖書でも罪人について言及するときに、ほとんどがその人の悪い行いを描写しています。神がこの世を洪水によって滅ぼしたときにも、ソドムとゴモラを滅ぼしたときにも、その原因として人々の悪い行為が言及されました。人々が悪の行為を犯すのはその人が神を離れた罪人であるためです。神を離れた人ははばかることなく悪を行います。
いけにえをささげた時代から信じる者と信じない者はその行為によって区分されました。律法が基準となった時代にはその人が信じる者であるのかを評価するときにその人が律法を遵守するのかを見ました。新約時代の今も同じです。今は他の人のための配慮と愛の行為があるのかによって信じる者と信じない者を区分することができます。他の人にはばかることなく悪を行うのであれば、神がその人とともにおられるという事実を信じていないのです。悪行の反対側には愛があります。愛は神の属性です。愛の行為、すなわち他の人を尊重し、配慮し、その人に親切を施すのは神を信じる者の特徴です。
イエスは弟子たちに愛の戒めを残して天に上られました。そののちに神の子となった者には自動的に愛の戒めが与えられます。愛の戒めは救いを受けた者が守らなければならない規律です。愛の戒めがもつ権威は律法の権威よりも大きいです。律法は外見によってだけ守ればいいのですが、新しい戒めを守るためには体と心を尽くさなければなりません。
新しい戒めを守ったからといって、それによって救いを受けることはできません。しかし、新しい戒めに従ったのかによって永遠な刑罰と報いが決められるということを知らなければなりません。新しい戒めを捨てるのであれば、栄光の冠は期待することができません。冠の基盤となるのが新しい戒めです。新しい戒めを守るためには利己心を捨てなければなりません。損をしてもかまわないという心の準備がなければ、新しい戒めを守ることができません。イエスが自分を犠牲にしてくださったために私たちは救いを受けました。そのように私たちが新しい戒めを守るのであれば、多くの人が救いを得るようになります。
新しい戒めに従って愛を実践するのは神の子となった者から現れる外的な証しです(Ⅰヨハネ3:23~24)。使徒ヨハネの手紙書はこれに焦点を当てて記録されました。愛の実践こそが神から出て来た者に現れる決定的な証しであり、神の子が神への愛を証明する方法です。使徒ヨハネは「聖徒を愛さない者は死にとどまる者である。」とまで強調しました(Ⅰヨハネ3:14)。
神の子となること、聖徒を愛すること、信仰、そして、聖霊との証しはすべてひとつにつながっています。愛する者が神の子であり、信仰がある者であり、聖霊の証しを受けた者です。
私たちが神の恵みを受けたのであれば、新しい戒めを守ります。また、それによって人々は私たちから神の属性を見るようになります。私たちから現れた神の属性はキリストが私たちの中におられるという事実についてのしるしとなります。もちろんこれは自動的になされることではありません。神の属性を現そうという私たちの意志と努力と訓練がとても重要です。
教会は愛を実践するところです。このために訓練も教会を通してなされます。教会に入って来た者は以前の姿を脱ぎ捨てて、新しくならなければなりません。教会で御言葉を聞くときに心の喜びだけを得ようとしないで、自分の過ちを発見し、悔い改め、それによって昔の人の姿を消していかなければなりません。自分の有益だけを求めていた以前の姿を脱ぎ捨てて、教会の成功のために自分をささげなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 09. 25.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は有名な者ではない。有名な者になろうという考えをもったこともないし、試みたこともない。真理を知ったのちにはさらにそうであった。ただ「小さなからし種となって、極めて小さな働きをしながら中身がある良い種となろう。」と考えただけであった。種をまいたところから芽が出て来て、続けて成長し、主人に用いられ、主人の喜びとなるのが私の望みである。
文章を書くことができる時間も多く残されていないし、力もとても足りない。数年前に脳震盪を起こした。そのとき、幸いにも隣りにいた人のおかげで頭が壊れることはなかったが、そののちに後遺症によって下半身の力がなくなり、続けて倒れそうになる。一日中、眠くて体が重い。まだしなければならないことが多く残っているために、力を得なければならないが、なかなか体が回復しない。人の肉体はこのように弱い存在であるが、まだ愚かにもそれを悟ることができていない。
神に召されるその瞬間まで私がしていることを完成させることを願う。立派なからし種となってその働きを完成させることを願う。肉体の要求を拒んで霊魂の願いだけを求める。神も主イエスも常に生きておられるために、聖霊によってその御心を行おうとする。
私の口から伝えられる御言葉に信仰があるのは常に生きておられる神の御言葉を語るためである。私は死んだ者の言葉を伝えないし、その教訓に陥らない。常に生きておられる方の御言葉を代わりに伝える。本当に感謝する。その御言葉が語られてから数千年が過ぎたとしても、今、私はその御言葉を伝える。今、聖霊によって生きておられる方の御言葉を伝える。
聖霊によって語らないのであれば、結局、常に生きておられる方の御言葉を伝えることができない。たとえ数千年前に御言葉が語られたとしても、今、聖霊が私の唇にその御言葉を与えて語らせる。それゆえ、聖霊によって常に生きておられる方の御言葉を証言する。今、イエス・キリストが神の右の御座で語られる、生きている御言葉を唇に受けて証言する。神が生きて語られるために、聖霊が御言葉を私に教えてくださるし、私はその御言葉を語る。すなわち、常に生きておられる方の御言葉を伝えるのである。
それゆえ、聖霊によって語らない言葉はそれがどんなに知恵ある言葉であったとしても、死んだ言葉である。聖なる者が語った言葉であったとしても、その人はすでに死んだために、私がその言葉を伝えるのであれば、私の言葉も死んだのである。今、私はただ常に生きておられる方の聖霊に頼って証言する。それゆえ、私が伝える御言葉を常に生きている御言葉である。まことにそれに感謝する。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室