罪から救いを受けなさい
(ヨハネの福音書 16:1~19)
神は
聖なる方でおられる
その方が
私たちを聖くし、(使10:15)
義とするために大きな恵みを施されたが、(エペソ2:8)
神のふところにおられる愛する御子を
この世に遣わされたのである(ヨハネ1:18)
その方はこの世に来るときに人の子として来られたので、
呪いを受けた罪人のように見えたが、(ピリピ2:6~8)
それは私たちの咎を負われたのである(ヨハネ1:36)
それゆえ、
その方の功労を認め、
「その方の苦難は私の罪によるものであった。」と認め、
「私には頼るものがなく、その方だけが主人である。」と認めるのであれば、
聖くなる(ヘブル10:19~25)
罪についてとは
私たちがその方を信じないことである(ヨハネ16:9)
聖霊の働きはただその方、
イエスを信じさせるためのものである(Ⅱコリント1:20~21)
イエスをまことに信じる者がその方の愛を受けるのであれば、
神の愛を受けるようになる(ヨハネ15:10)
◎イエスをまことに愛そう
そうすれば、
イエスの愛を受けるようになる
◎イエスのまことの愛を受けるのであれば、
神の愛を受けるようになり、
神の子となる
◎神の愛を受けない者は
神の子となることができない
聖霊がそれを認められない
※神の愛を受けよう
聖霊に満たされよう
イエスを信じることによって、信じることによって
罪から救いを受けなさい (ヨハネの福音書 16:1~19)
聖なる神に属した者
神は聖なる方でおられます。この世には多くの神々がいます。神はそのような神々とは区別される唯一なる神です。神はイエス・キリストの父であり、イエス・キリストと結びついた者すべての父です。誰でも神を父と呼びさえすれば、無条件に神の子となるわけではありません。イエス・キリストの肉を食べ、血を飲んだ者だけが神の子です。イエスは「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)といわれました。永遠のいのちを得るためにはイエス・キリストを遣わされた神を知らなければなりません。
人は誰でも宗教心をもっているために、自分なりの方式によって神々を探して仕えます。キリスト者の信仰はそのような宗教心とは異なります。神はその方のふところにおられた御子を遣わされましたし、私たちはその御子を通して神を知るようになりました。神を知ったというのは神に属した者になったという意味でもあります。神に属した者とならないのであれば、依然として悪魔の支配の下にいる者として残るしかありません(エペソ2:2)。そのような人はたとえ教会生活をしていたとしても、いつかは脱落します。それゆえ、私たちは自分が神に属した者であるのかをはっきりと知らなければなりません。
キリストの功労による救い
イエスを信じるのはどうしてでしょうか? キリスト者であるのならば、この質問に答える準備をしていなければなりません。キリスト者はイエスの名を信じる者です。「イエス」という名には神が自分の民を救われるという意味があります(マタイ1:21)。私たちの信仰は自分が罪から救いを受けたという事実をはっきりと知るところから出発します。この信仰がしっかりとしていない者は教会生活をしていたとしても目の前の利益を得るためにイエスの名を捨てたりもします。
一般的に罪は良心の問題として扱われます。律法も信仰良心を基準として罪を扱いました。それで、人々は心にひっかかることがなければ、罪がないと考えます。しかし、人はすべて罪人です。罪人は本来、奴隷と同一視されます。奴隷は主人の所有です。過去には奴隷の体に火の印を押して、その人が誰の所有であるのかを現したりもしました。罪を犯した人間は悪魔の奴隷となり、それによって罪の跡をもつようになりました。一度、奴隷の火印が押されると、死ぬときまで奴隷の身分から脱け出すことができません。そのように罪の跡をもった人間は罪人という身分から脱け出すことができませんでした。
しかし、罪の跡がない人がひとりこの世に現れました。神の御子であるイエスがキリストという職分をもってこの地に来られたのです。イエスの裁判を執り行ったピラトはイエスから罪を見つけ出すことができませんでした。しかし、彼はイエスを殺そうとしたユダヤ人の強固な主張を拒むことができないで、イエスに死刑を宣告してしまいました。イエスがむちに打たれたときに、その方の体には鮮明な傷が残りました。驚くべきことはその方の傷によって私たちにあった罪の跡がきれいに消えたという事実です(Ⅰペテロ2:24)。
本来、私たちは罪によって滅びるしかありませんでした。しかし、キリストの功労によって生きる道が開かれました。この事実を認めるのが私たちの信仰です。私たちはこの信仰を最後まで守らなければなりません。私たちはキリストの功労によって、自分が義とされたという証しを受けるようになりました。それを知ることができないのであれば、私たちは救いを確信することができません。
聖霊によって担わなければならない職分
神は罪から救いを受けた者に聖霊によって印を押されます(Ⅱコリント1:21~22)。それゆえ、罪から救いを受けたという信仰がはっきりとしたときに、聖霊に満たされることができます。どんなに徹夜祈りや断食を多くしたとしても、その信仰がないのであれば、聖霊に満たされることができません。助け主の聖霊が私たちの中に臨まれることによって私たちは聖徒となりました。聖徒となったというのは神の働きに従わなければならない職分を受けたという意味です。
使徒の働き10章38節は「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、」といいました。「良いわざ」とは倫理的、道徳的に正しい働きをいうのではなく、父なる神の御心をなす働きをいいます。その働きをなす前にイエスも聖霊を受けられました。聖霊によらなければ、その働きをなすことができないためです。イエスは弟子にも「エルサレムを離れる前に必ず聖霊を受けなさい。」といわれました。霊魂を救う働きは聖霊の働きなしには不可能であるためです。神の愛を伝える働きには必ず聖霊がともにされなければなりません。
神が私たちに命じられた働きを拒むのであれば、聖霊の感動は消えることもあります。私たちの中で神の働きが進められていないのであれば、それは私たちが聖霊に満たされていないという証拠です。イエスは「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34)といわれました。私たちの霊魂の食物も神から命じられた働きをなすことです。私たちは神から働きを受けました。それは隣人を愛し、兄弟を愛することです。
まことの言葉を伝える聖霊の人
将来、イエス・キリストとともに天で栄光を享受する者は聖霊によって印を押された者です。彼らは小羊が導かれるままにどこにでもついて行く者であり、何よりもその口に偽りがない者です(黙14:1~5)。その反面、偽る者は火と硫黄によって燃える池の中に投げ込まれます(黙21:8)。このように神は偽りがない者と偽る者をはっきりと区別されます。
教会生活をする者の中にも偽るのが習慣となってしまった者がいます。ヨハネの福音書7章38~39節は「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」といいました。聖霊に満たされた者であるのならば、その口から真理だけが出て来なければなりません。信仰について聖霊の証しを受けた者は偽ってはいけません。信仰がないのに信仰があるふりをするのも偽ることと異なりません。他の人に教えるときにも自分が信じるものを教えなければなりません。家族の間でも、教会員の間でも、まことな言葉を語らなければなりません。100回、だまされたとしても自分は他の人をだまさないと決心しなければなりません。
私たちはイエスを信じる者です。私たちがイエス・キリストの功労を受け入れたときに、私たちの罪の跡はきれいになくなりました。神はそのような私たちに聖霊を遣わしてくださいました。私たちに聖霊によって考えさせ、聖霊によって語らせ、聖霊によって働かせたのです。小さなことから大きなことまですべてを聖霊によってしなければなりません。生涯、聖霊によって考え、聖霊によって語り、聖霊によって働く、聖霊の人とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 10. 02.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は若いときから続けて迫害や無視を受けてきた。それでも、私が戦いながらこの道を頑固に守ってきたのは一日を生きるにしても卑怯にならないためであった。今は私が哀れに見えるが、のちには必ずその実が結ばれるということを疑わない。志がある者にとってこの世を生きていくというのは非常に孤独で大変なことであるが、私は必ずしなければならない働きを私に預けてくださった神の御心に従ってきた。
60年余り、変わることなく主の福音の力を証してきた。この世では愚かなことであったとしても、神が喜ばれる働きであったということを少しも疑わなかった。この世は旅人の道であるということを知っている。この世で生きてきたのは主の御国の働きをするためであったと信じたい。この世のことをひとつも成功することができなかったのもそのためであった。苦しみを受けたとしても、真理のために生きるというのは幸せなことである。
時間は急速に過ぎ去っていくし、そののちには主に召されることが待っているが、この2つが私に近づいてきていると感じる。卑怯にならないし、悪口を言われたり迫害を受けたりしたとしても恐れない。ただ真理だけを探していかなければならないし、神はこの道で私に力と祝福を与えてくださった。私の祈りは常に主イエスに届き、また、応答を受けてきた。肉体のために祈ったこともなかったし、この世を喜んだこともなかった。ただ険しいこの世に勝利しながら、主の働きだけを成功させることを切に願った。
長かったとしてもこれから10年以内という短い余生をどのように送ろうか。名誉をすべて捨てて、自分のものを所有しないで、主の御国のために働くしかない。説教するたびにこれが最後の説教であると考える。私たちの教会は今日までこのように築かれてきたので、これからも絶対にこの道を離れない。これはこの世の人を喜ばせる教会ではなく、主を喜ばせる教会として立つためである。
私はまことの言葉だけを語ることを願う。それ以上はどのような理由であっても語りたくない。信じるものだけを証ししようとしてきたし、信じないものは教えもしなかった。将来、神の御前に出て行ったときに、視無言にだまされたと告白する霊魂がひとりもいないことを願う。
感謝する。主の御言葉を伝えることができること、主の御国のために働くことができること、神を愛する心と献身しようとする愛が満ちあふれることが幸せである。主からだまされたという事実がないために、そのまま伝える。それが私の大胆さである。私は息をする間、休まないでペンを握るであろう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室