聖霊の助けを受けよう
(使徒の働き 9:26~31)
神は
休まない方でおられる
その方が
この世を創造し、それを治め、
御言葉をこの世に遣わして成就するために
祝福を命じられたので、拒むことはできない(民23:20)
イエスの血によって救いを受けた者を守り、(使20:28)
永遠に保つために
助け主の聖霊を遣わされた(Ⅱコリント1:21~22)
それゆえ、
個人や家庭や教会は
聖霊の助けを受けてこそしっかりと立つようになる(使9:31)
聖霊は永遠に離れない(ヨハネ14:16)
聖霊は真理の御霊でおられる(ヨハネ16:13)
人ではなく、霊でおられる
死ぬことも変わることもない
イエス・キリストの教会は
聖霊によってはじまる(使1:8)
聖霊は
神の大きな賜物でおられる(使2:38)
聖霊の助けを受けなければならない
◎神の大きな賜物は
イエス・キリストであり、
私たちの救い主でおられる
◎イエスの大きな賜物は
聖霊であり、
私たちを慰める助け主でおられる
◎霊的な力は大きな賜物であるが、
聖霊は私たちの心に各種の賜物を与えられる
力は天の霊である
※神の愛を受ける者は
その方の賜物を受ける
教会と家庭がリバイバルしなければならない
聖霊の助けを受けよう (使徒の働き 9:26~31)
神の御言葉は私たちの永遠のいのち
神は永遠に休まないで働かれる方です。私たちは神の御前でほこりのような存在です。このような私たちが神に仕えるというのは神を働かせるということを意味します(イザヤ62:6~7)。私たちが神を頼りさえするのであれば、神は私たちを神の働きに参加させます。これはどんなに大きな恵みでしょうか? それにもかかわらず、神の働きを無視することによって神を働かせないのであれば、そのような者に何の望みがあるでしょうか? また、神がそのような生涯からどのような価値を見つけ出されるでしょうか?
神が「光があれ。」といわれたときに、光が創造されましたし、「大空があれ。」といわれたときに、大空が創造されました。神が語られた御言葉はその通りになされます。今、この瞬間にもその御言葉は続けてなされています。天地は変わったとしても神の御言葉は一点一画も変わることなく、すべてなされます。その反面、この世は続けて変わっていきます。時代に従って言語、文化、知識、生活方式などがすべて変わっていき、その変化の速度は次第に速まっています。このような状況で正常な生涯を維持するためにはその変化に速度を合わせなければなりませんが、私たちが忘れてはいけないのはそれらは私たちに永遠のいのちを与えることができないという事実です。この世は空中の権勢をもつ悪魔が働くところであるために、この世に属したものはすべて私たちを永遠のいのちに至らせることができません(エペソ2:1~3)。
イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6:54)といわれたときに、その方に従っていた多くの者がその御言葉を悟ることができないで離れて行きました。しかし、ペテロは「主よ。私たちが誰のところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ6:68)と告白しました。信仰は永遠に変わることがない神の御言葉に従っていくものです。私たちに永遠のいのちを与えるのはその御言葉です。
永遠のいのちの道はイエス・キリスト
神の御言葉が私たちに知らせてくれるのは何でしょうか? 言語は語る者の考えや感情、知識、知恵をそのまま見せます。イエス・キリストはこの地に肉体として現れた神の御言葉です。もう一度言うと、イエス・キリストは神のすべてをそのまま見せる神のかたちでおられます。その方は自分の公生涯を通して神の御心を現し、それによって人間を神に会わせました。
イエス・キリストは神の御子であり、また、人の子でおられます。その方は人としてこの地に来られました。もしその方が人としてこの地に来られたことがなく、ただ霊として自分をしばらくの間、この世に現されたのであれば、私たちが神に会うことはできなかったでしょう。ヨハネの手紙第―4章2~3節は「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。(中略)イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。」といいました。イエスは人の体を通して人として生まれ、人として成長されました。その方が人間と異なる点はその方には罪がないという事実です。
イエスが人の子でおられるという事実は私たちに望みを与えます。イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)といわれました。イエスが罪のない人として死に勝利してよみがえられたために、誰でもイエスを信じるのであれば、罪の贖いを受け、永遠に生きることができるようになりました。イエスが父の御言葉に従って栄光の御座に着かれたように、私たちもイエスの尊い血によって罪の赦しを受け、神の御言葉に従うのであれば、イエスとともに栄光の御座の前に上ることができます。
イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」(ヨハネ14:12)といわれました。これは私たちと同じ人となられた方、また、私たちの事情を最もよく知っておられる方が語った御言葉です。私たちはこの御言葉を信じなければなりません。私たちのモデルはイエス・キリストでおられます。私たちは情欲のために従うことができなかったことを悔い改め、イエスに従い、神の御言葉に従わなければなりません。神はこのように神のかたちでおられるイエスを信じて従う者をイエスのように天に上げられます。
聖霊によってイエスに従おう
イエスは天に上ったのちに聖霊を私たちに遣わしてくださいました。ヨハネの福音書16章13~14節は「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」といいました。イエスは天に上られましたが、その方によって遣わされた聖霊が来て、イエスが語られた御言葉と働きを私たちにそのまま現してくださいます。聖霊はイエス・キリストと関係なく、自分の働きをされるのではなく、私たちの霊魂に神のかたちを投影されます。それゆえ、聖霊を迎え入れた者には常にイエスが現れなければなりません。
聖霊が教えられるイエス、聖霊が語られるイエス、聖霊が見せられるイエスを信じるのが私たちの信仰です。イエスのように生きる方法は聖霊によって生きることです(ヨハネ14:16~20)。聖霊によって信仰生活をする者はこの世の環境や条件によって揺れ動くことがありません。イエスは私たちに咎が多いということをよく知っておられます。それゆえ、私たちに聖霊を遣わして助けてくださいます。聖霊は私たちの中にイエスがおられるということを確証してくださいます(Ⅰヨハネ3:4)。聖霊によってイエスがよみがえられたように、聖霊によって生きる者は復活を経験するようになります。
イエスが弟子たちに「聖霊を受けなさい。」と命じられた通りに、弟子たちはマルコの家の大広間に集まって祈り、結局、聖霊を受けました。これによって教会がこの地に建てられました。イエスが教会に要求されるのは聖霊に従うことです。教会は聖霊を頼り、聖霊に従い、聖霊によって働かなければなりません。そのようにしてこそ教会はイエス・キリストが残された働きを担うことができます
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 10. 09.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は80年近く生きてきたし、55年間、主の働きをしてきた。これまで多くの人に出会った。彼らはすべて最初と最後が異なり、私に大きな傷だけを与えた。彼らは同じように私をだまし、大きな失望を与えた。私はその中のひとりも疑わないで、すべて信頼した。しかし、それは私にとって大きな病弊となった。
人々は「先生は純粋なので、すべての人を信じます。」と不平を言った。私は特殊な職分をもった者である。この名誉は私ひとりによって守られるものではないし、全世界の多くの信仰人に及ぶものである。それゆえ、私は悩んできた。今日、この世を離れるのか、明日、この世を離れるのかもわからない状況の中で、最後に整理しなければならないことがあるが、それはただ主の御前で完全になることである。
今まで愚かで無知な者として生きてきた。物質をもっていたとしても何の意味があるだろうか。欲張ったとしても何の益があるだろうか。欲張るというのはこの世を離れたのちであっても、自分がしていたこと、自分がはじめたことを続けて維持しようとするということである。しかし、私の前にいる者が欲張って自分のことだけを考えるのが見えるので、まことに残念である。
私は死ぬほど主の働きをしてきたし、最後もそのように殉教したい。私たちは必ず主の御前に立つが、そのとき、主がだました者とだまされた者を区分されるということを確信する。私は多くだまされてきたが、他の人をだまさなかった。本当に感謝する。誰かをだましたのであれば、すでにこの世に存在しなかったであろう。
人々は私が誰かをだましたと考えるかもしれないが、何をだましたのであろうか? 誰をだましたのであろうか? 教えてくれるのであれば、すぐに悔い改めてその人と和解する。生涯、すべてだまされてきたわけではない。私を助けてともに歩んでくれる者もいた。しかし、だまされたことがさらに多かったために大きな傷を負った。私が行く道は長くない。目の前にちらつくその日のために最高の信仰を準備したい。物質が与えられるのであれば、また礼拝党を建てたい。これは私が神を信じ、天に対する望みにあふれているためである。
私はぜひ頼みたい。「愛する友よ、神を信じてください。まことに信じてください。パラダイスが私たちの目の前にありますし、神の家が見えます。私たちはともにそこで喜びながら永遠に生きましょう。私はイエス・キリストを信じます。それゆえ、科学よりも、どのような知識よりもその方の御言葉を信じます。アーメン。」
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室