主の血と肉
(ヨハネの福音書 6:52~59)
神は
私たちに御言葉を祝福として与え、
幸いを得させようとされる
イエス・キリストは自分の肉と血を与えて
私たちを死と絶望から生かし、
その中で抱かれる(ヨハネ6:54~56)
聖霊は
私たちそれぞれの中にとどまって
キリストの肉と血の力を証しし、(ヨハネ15:26)
その方の主権を主張し、(Ⅰコリント6:19)
この世に勝利させる
これはキリストの教会となった私たちが
ひとつの体となって憐れみ深い
神の義を成就し、そののちに
栄光の天の御国に至るように
導くためである(Ⅰぺテロ3:18)
私たちは
神の御言葉を
心と考えと生活の中に盛り込む者であるし、
ひとつの体としては偉大な
イエスの体であり、聖なる神の神殿である(Ⅰコリント3:16)
私たちは隣人を罪と死と滅びから救い出し、
天の御国に導く
聖なる神の器官である(エペソ4:15~16)
○私たちに盛り込まれた御言葉を
貴く考えて仕えよう
○礼拝での御言葉が
神の御言葉となるようにしよう
○私たちの中にある
主の血の力を尊重して主張しよう
※神の御言葉が
私たちのすべての勝利の権勢であるということを忘れないで、
ともに喜んで感謝しよう
主の血と肉 (ヨハネの福音書 6:52~59)
主の肉を食べ、血を飲みなさい
主は「私の肉を食べ、私の血を飲みなさい。そうすれば、あなたがたは生きます。」といわれました。これは神の真理を最も深く表現した御言葉であると見ることができます。将来、私たちが迎えるようになる神の世界はすべてこの御言葉に含まれています。
神は人類に自分の肉と血を与えようとされました。実際にイエスはこの地に来て「私の肉を食べ、私の血を飲みなさい。」といい、人々に自分の肉と血を分け与えられました。そして、それによって私たちは神の肉を食べ、血を飲みさえすればいいという大きな恵みを受けるようになりました。
「食べる」というときに、ほとんどの人は食べ物をまず先に思い浮かべるでしょう。これはあまりにも当然な反応ですが、肉体をもっている人間の限界を端的に見せる反応でもあります。人はどんなに良い食べ物を食べたとしてもいつかは死にます。しかし、さらに大きな問題は霊魂も死ぬということです。霊魂が生きるためには食べ物ではない、他の何かがなければなりませんが、それはイエス・キリストです。人間はイエス・キリストの肉を食べ、血を飲んでこそ生きることができます。
私たちが考えなければならない問題があります。神は私たちの信仰に関連して、どうして「食べる」という言葉を用いられたのでしょうか? 実際に「食べる」という言葉はそれ自体が霊的な用語です。人間にとっては「イエスの肉を食べ、血を飲む」という言葉がたとえとして聞こえますが、神にとってはそれ自体が実状です。「食べる」という概念のこのような意味はすでに聖書のところどころで用いられています。エゼキエル書3章3節は「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」といいましたし、マタイの福音書4章4節は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」といいました。
イエスが弟子たちと最後の晩餐をする場面は「食べる」という言葉の意味をはっきりと見せています。イエスは弟子たちに「取って食べなさい。これは私の体です。この杯から飲みなさい。これは私の契約の血です。」といわれました。この「私の血を飲みなさい。」という言葉には「私はあなたがたのために死ぬ。」という意味がありましたし、「私の肉を食べなさい。」という言葉には「私はあなたがたのためによみがえります。」という意味がありました。もう一度言うと、これは「神があなたがたを愛されました。」という言葉と同じです。今日、私たちの中にいのちがあるのはイエスが私たちのために死んでくださったためですし、私たちの中に永遠のいのちがあるのはイエスが死んだ者の中からよみがえられたためです。イエスは私たちを愛してくださった神の御心通りに私たちにまことの食物と飲み物を与えるために、死と復活という苦しい過程を味わわれました。
その事実を覚えさせるのが聖餐です。聖餐をすることによって教会の器官は互いに主の死と復活を確認します。バプテスマもイエスの肉を食べ、血を飲むことと深い関係があります。バプテスマを受けるときに水の中に入って行くというのはイエスの死と結びつくということですが、これはイエスの血を飲むことと関係があります。また、水から出て来るというのは主の復活にあずかるということであり、そのときから私たちは復活の日を準備しはじめますが、これは主の肉を食べるということと密接な関係があります。
主の肉を食べ、血を飲む方法
それでは、実際に私たちはどのようにしてイエスの肉を食べ、血を飲むことができるのでしょうか? 血は罪の贖いと関連があります。イエスについてまったく知らなかった私たちはイエスが血を流して死なれた功労に頼り、罪の赦しを受け、いのちを得ました。そののちには毎日、悔い改めることによって罪を遠ざけます。このように罪の赦しを受けて悔い改めるというのがイエスの血を飲む方法です。
また、イエスの肉を食べるというのは御言葉に従うということです。御言葉に従うというのは霊魂を救い、養育し、顧みるという行為すべてが含まれます。これをもう少し別の角度かる見ると、これらすべては教会がする働きであるために、教会の働きに従うということもイエスの肉を食べる方法であるということができます。主は永遠のいのちの御言葉を聖書に残して置かれました。聖霊はその御言葉を思い起こさせます。教会には教会員が御言葉に従うことができるように励まして導くという責任があります。
神は人間に神の血と肉を受けさせるという不可能な働きをなすために力を尽くされました。その過程で神が悩まれたのは「人間が果たして神の血と肉を担うことができるであろうか?」という問題でした。神がこれを試される過程で現れた者がアブラハムでした。
アブラハムがどのような者であったのかは聖書に記録されたいくつかの事件を通して知ることができます。神はアブラハムに「あなたはあなたの生まれ故郷、父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。そうすれば、私はあなたを祝福する。」という契約を与えられました(創12:1~3)。その当時、自分が生まれた故郷から離れるというのは非常に危険なことでした。しかし、アブラハムは神の御言葉を完全に信頼し、自分が生まれた故郷を離れました。
アブラハムが99歳になったときに、神は「妻サラを通して男の子を与える。」といわれました。サラには普通の女にあることがすでに止まっていたために、その御言葉がなされるというのは常識的に納得しがたいことでした。しかし、アブラハムは神の御言葉を信じて、結局、男の子を生みました。神の試みはこれで終わりませんでした。神はアブラハムに100歳で生んだ息子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいといわれました。アブラハムに与えられた契約が成就するためにはイサクが必ず生きていなければなりませんでした。そのようなイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいというのは納得しがたいことでした。しかし、アブラハムはその御言葉にさえも従いました。アブラハムのこのような信仰は子孫を通して受け継がれ、これによって神の血と肉を受ける信仰の道が備えられました。
サウル王はアブラハムと対照的な人物でした。サウルは神の御言葉に従いませんでした。神はサウルに、アマレクを打つときに人はもちろん家畜まですべてを殺すように命じられました。しかし、サウルは神の命令に逆らって、牛と羊の中で最も良いものを残しておきました。それらを神にいけにえとしてささげるのであれば、神が喜ばれると考えたのです。しかし、神の御言葉に逆らっては決して神を喜ばせることはできません。神がアブラハムを喜ばれたのは彼が人の常識ではなく、ただ神の考えによって従ったためでした。
信仰の祖先たちはあらゆる試練に勝利して御言葉に従い、それによって契約の成就を備えました。時になって、イエス・キリストはエルサレムの神殿を指して「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)といわれました。これは「私はあなたがたのために死ぬが、再び生き返る。」という意味でした。主はその御言葉をその通りに成就されました。今、主は私たちに語られます。「あなたがたは古い人を葬りなさい。これからあなたがたは御言葉を食べて生きる教会となる!」
主の肉を食べ、血を飲んだ者の任務
私たちはイエスの肉を食べ、血を飲んだイエスの体の器官、すなわち教会です。体の器官がひとつとなって動くように、教会のすべての構成員もひとつとなって動かなければなりません。エジプトから出て来る前の夜、イスラエルは羊を取って、家族全員でそれを骨まで食べました。これは神が命じられたことでしたが、決してやさしいことではありませんでした。そのようにまでしなければならないのかといって従わない者もいたでしょう。しかし、御言葉に従った者だけがエジプトから出て来ることができました。今も同じです。神はたとえそれが理解することができないことであったとしても御言葉に従う者を喜ばれます。私たちは教会が進めることに悩まないで従う信仰を備えなければなりません。イエスが弟子たちにパンを与えて食べなさいといわれたときに、弟子たちは悩みませんでした。これと同じように、聖徒は教会の働きに自分を動かすことができなければなりません。
新しい戒めはまるで主が分け与えられた最も大きな肉のようなものです。その御言葉に従うのは一日でなされることではありません。その御言葉を守るためには自分を厳しく治めて訓練しなければなりません。私たちが主の血を飲んだというのはすでに主から大きな愛を受けたということです。このように大きな愛を受けたのであれば、これからは互いに愛し合いなさいという戒めに従い、それによって教会を成功させなければなりません。病気に勝利しようとする者も、家庭が栄えることを願う者もまず教会が栄えるように力を尽くさなければなりません。主が私たちの中で勝利されるのであれば、その方が私たちの生涯を助けてくださるためです。
私たちは主の体です。それゆえ、主が私たちを思い通りに用いることができるようにしなければなりません。教会の働きのために自分をささげましょう。まず礼拝時間全体が神が私たちの中に臨んで働かれる時間となるようにしましょう。説教の時間は神が語られる時間とならなければなりません。これは牧師ひとりの努力によってなされることではありません。教会がひとつとなって神の血と肉を慕い求めるときにこれをなすことができます。私たちはともに主の肉を食べ、血を飲むことによって完全な主の体を作っていきましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 10. 16.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
80年、この世を生きてきて、多くのことを体験してきた。うれしいことも悲しいことも多く経験してきた。さらに貴いことに、多くの人に出会って、多くのことを学んできた。しかし、私の時間は長くない。そのときにはこの世のことはすべて忘れる。パラダイスに行ったとしてもこの世のことを追憶するのであれば、それはパラダイスではない。夢から覚めた現実のように、パラダイスで復活を待つときには時間が流れるのもわからない。
今がこの世のことを整理するときであると考え、過ぎ去った日々を顧みることが多くなった。肉体としては父にしっかりと仕えることができなかったという親不孝のために非常に心苦しい。行動においても「ゼロ」である。感情をコントロールすることができなかったし、怒りを抑えることができなかった。憎むことも、嫌がることも多かった。
この世を生きてくる間に大変であったことも多かったが、人々から多くの愛を受けてきた。その恩を忘れることができない。必ずその恩に報いようとして彼らのためにまことに祈ってきた。それゆえ、私に与えられる祝福が彼らにも与えられるということを確信する。
主イエスを知ったのちには一度も主を疑わなかった。主が私の杖であり、私の道であると考えてきた。私ほど主の愛を受けた者がいたであろうかと考える。主をまことに愛してきたために、私にはその方の愛を受けているという証しがある。主の友となったのちには迫害という特別な体験もしたが、迫害を受けるのを恥じたことは一度もなかった。今も誰かの詩にもあるように、天を仰いだとしても何の恥ずかしさもない。そのようなくびきを与えてくださった主に感謝するし、それが祝福であると信じる。
これまでの60年余り、一日も平安な日はなく、迫害や無視を受けてきたが、まことに感謝する。どのようにして耐えてきたのであろうか。人間としてはすでに死刑宣告を受けたようなものであるが、まだ息をしている。残された時間にすることができるのはさらに力を出して耐えることである。生涯、迫害を受けてきたが、さらに真理を慕い求め、神の御心を尊重してきた。一言であっても福音のために用いられるようにしてきた。主が私を愛してくださるのは主に向けられた真実と愛のためである。
貴かったこれまでの60年という歳月、罪の赦しと多くの愛を受け、それによって神がともにしてくださったので、幸せであった。主から100倍の祝福を受けてきた。100人が死ぬほど力を尽くしたとしてもできないことを、私はひとりでなしてきた。それが証しである。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室