聖日を知ろう
(マルコの福音書 2:23~28)
神は
ひとりでおられる
その方が
御子のためにこの世を創造し、(ヘブル1:2)
年と日と時を定められたが、
神を求めさせるためであった(使17:26~27)
神は創造するときに、
第七日目を安息日と定められたが、(創2:1~3)
神が創造の働きを終えて休まれたためである
人間が生きていく方法は
神に命じられた通りにその方とともにすることである(創2:17)
しかし、主日は休む日ではない
安息日を肉体の日というのであれば、
主日は霊的な日ということができる(黙1:10)
肉体の労働を休み、その代わりに霊的に
勤勉に霊的な生活をする日である
神を信じて従うのであれば、
神はその人をまことに愛される
イエスは安息日の主人であり、
主日の主人である(マルコ2:28)
私たちは霊的な体として生まれ変わったので、
主イエスとともにするのがいのちと祝福である
◎聖霊の人は
聖霊によって生活しよう
◎安息日は肉体の規定であり、
主日は霊的な規定であるが、
毎週の主日が五旬節のようでなければならない
◎神の国を慕い求める者は
主日を聖く守る(ヘブル10:25)
肉体は聖められ、霊的には満たされよう
※主日は善悪を知る木の実の戒めのようなものである
無視しないで従い、
イエス・キリストとともに歩もう
聖日を知ろう (マルコの福音書 2:23~28)
唯一なる神と安息日の戒め
神はひとりでおられます。十戒の第一戒から第四戒までは神との関係に直接、関連するものですが、その土台は神の唯一性にあります。十戒の第一戒は神のほかに他の神々があってはいけないというものです。これは神が他の神々とは異なる唯一なる方でおられるということを強調するものです。第二戒は偶像に仕えてはいけないというものです。自分のかたちをもつ霊は神のほかにはいません。誰かが神々にかたちを付与するのであれば、それが偶像です。第三戒は神の御名をみだりに唱えてはいけないというものです。神は目で見ることも、手で触ることもできません。私たちがその方に仕える方法はその方の御名にひざまずくことです。
また、十戒の第四戒は安息日を聖く守らなければならないというものです。これは神との関係に直接、関連する戒めの結論であり、第一戒から第三戒までの戒めをよく守ってこそ従うことができる戒めです。安息日は七日目であり、今の土曜日に該当します。神は6日間、天地万物を創造して、七日目に休まれました。安息日を守るというのは神の安息にともにして、何の働きもしないということです。
自分の霊魂のために守らなければならない聖日
イスラエルに呪いが続いたときに、学者たちはその原因を調べました。彼らが見つけ出した呪いの原因は彼らの祖先が長い間、安息日を無視してきたという点でした。彼らは悔い改め運動を起こし、そのときから安息日を徹底的に守るために努力しました。
イエスの弟子たちが安息日に麦畑の中を通って麦の穂を摘んで食べたのは安息日を守るためのそのような努力が最高潮に達していた時期のことでした。パリサイ人たちは「あなたの弟子たちが安息日を犯しました!」とイエスを攻撃しました。彼らは「麦の穂を摘んだのは刈り取ったことと同じであるし、麦の穂を手で揉んだのは麦を打ったことと同じである。」と主張しました。そのとき、イエスは「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」といわれました。
人々が聖日についてもっている誤解のひとつは人が聖日のために存在するというものです。主日を犯した者が「先生、先週の主日に礼拝に来ることができませんでした。申し訳ありません。」というのは自分が聖日のために存在しなければならないという考えが前提となっているためです。しかし、実状は私たちが聖日のために存在するのではなく、聖日が私たちのために存在するのです。私たちが聖日を守るのは他のもののためではなく、自分の霊魂のためです。
ある人は律法の下にある者が考えたように、聖日に何もしないことが聖日を守る方法であると考えます。私たちが知らなければならないのは律法が肉体の規定であり、のちにあることに対する鏡のようなものであるという点です。安息日を守る行為もそうです。主日は八日目であり、安息日を完成した日ですが、その日を守るのはたとえではなく、実状です。レビ記23章36節は「七日間、あなたがたは火によるささげ物を主にささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。」といいました。これは八日目が聖日になるという預言です。キリスト者の聖日は主日です。主日は安息日のような休日ではありません。安息日は神が休まれた日ですが、主日は神が働かれた日です。主日に私たちは自分の霊魂のために働かなければなりません。
平安と賜物が臨む聖日
イエスは安息日が終わった週の初めの日、すなわち主日によみがえられました。弟子たちは戸を閉めたまま集まっていましたが、イエスは突然、彼らの中に現れました。弟子たちは目の前に立っておられるイエスを幽霊と考えました。すると、イエスは弟子たちに自分の体を触らせ、食べ物を求められました。もしその方が霊であったのならば、弟子たちはその方に触ることもできませんでしたし、その方は食べ物を食べることもできませんでした。よみがえったイエスが弟子たちに初めて語られたのは「あなたがたに平安があるように!」ということでした。安息日が終わった週の初めの日、主が弟子たちの前に現れて平安を宣言されたのが聖日の核心です。聖日は神が私たちに平安を与えてくださる日です。
聖霊が臨まれた日も主日でした。旧約時代の人々は肉体によって神に仕えましたが、新約時代の人々は聖霊によって神に仕えます。聖霊によって祈り、聖霊によって礼拝をささげ、聖霊によって賛美し、聖霊によって証しし、聖霊によって奉仕します。聖霊の感動なしにはキリスト者となることができません。イエスが弟子たちに「聖霊を受けなさい。」と命じられた理由がここにあります。イエスが天に上られたのちに、弟子たちに聖霊が臨まれましたし、それによって弟子たちから多くの力と賜物が現れました。このように主日は聖霊の賜物が豊かに臨む日です。
聖日を守り、イエスの中にとどまろう
聖日を聖く守るために欠かせないのは物質を準備することです。多くの人は物質をささげるのが教会のためであると考えますが、実際にはそれは自分のためです。パウロは「主日に集まるときには何ももたずに出て来てはいけない。必ず献金を準備しなければならない。」といい、「少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る。」といいました(Ⅰコリント16:1~2)。ギリシア語で「献金」という言葉には「祝福」という意味があります。それゆえ、惜しみながら献金をささげる者は自分が祝福をもっていない者であるということを証明しているのです。イエスは「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません。」(マタイ6:20)といわれました。私たちの中には無一文で天に上る者がいるかもしれません。主はそれぞれの行いに応じて報いを与える方でおられるためです。
教会はイエスの体です。私たちが教会に集まって聖日を守るというのはイエスの中に入って行くということを意味します。イエス・キリストは旧約時代に神に仕える者が入って行った幕屋の実状です。幕屋の中に入って行くと、最初に目に入って来るのが全焼のいけにえの祭壇です。全焼のいけにえの祭壇は祭司が羊をほふってその血を注ぎかけるところです。これは罪の赦しを意味します。全焼のいけにえの祭壇のうしろには幕屋で働く女性の鏡によって作られた洗盤があります。人が鏡を見て身なりを整えるように、祭司は洗盤に自分の姿を映しながら汚れた手足を洗います。新約聖書ではこれを「新生と更新との洗い」(テトス3:5)といいました。全焼のいけにえの祭壇で羊をほふって血を流したとしても洗盤で手足を洗わないのであれば、幕屋に入って行くことができません。全焼のいけにえの祭壇と洗盤を通り過ぎてこそ、燭台とパンの机と金の香壇がある聖所の中に入って行って神に仕えることができます。これと同じように、私たちがイエスの中に入って行かないのであれば、聖霊に満たされることも、神に献身することも、祈りを届けることもできません。イエスの血を頼って新しく生まれ変わった者は聖日を守り、それによってイエスの中で神に仕えなければなりません。幕屋の庭は常に開かれていますが、聖所は閉じられています。私たちは幕屋の庭でさまよわないで、聖所の中に入って行かなければなりません。
聖日は神が私たちに与えてくださった祝福です。その祝福を拒まないで、享受しましょう。預言者イザヤは聖日に自分の好むことを求めたり、争ったり、むだ口をきいたりしてはいけないといいました。それほど聖日を貴く考えて、徹底的に守らなければなりません。神は聖日を守る者に平安を豊かに注がれます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 10. 23.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
政界から露出される多くの話がこの世を混乱させている。国の指導者であるのならば、尊敬を受けることができなければならないが、韓国の指導者は指導者としての尊敬を失った。他の人の人格や恥部を攻撃することによって「当事者だけでなく、その人を指導者としている国民も結果的に恥ずかしい国民となっている。」ということをすっかりと忘れて生きている。
神はすでに「人間は不義である。」といわれた。罪がない者を罪人として罪に定めて死に追いやった十字架の事件は人類をそのまま見せた鏡である。もし私が今日の政界に入っったのであれば、すでに死んでいたであろう。私は義も誇るものもない空き缶であり、悲惨な人間である。随筆を通して自分の恥部をすべて取り出したが、まだ恥ずかしい部分が残っているということを告白する。主イエスの御前で義であると主張すべきものはひとつもない。それゆえ、自分を弁明して「私はただの罪人です。私は死ぬべき罪人です。」と告白するだけである。このような告白があるために平安を得るし、幸せになる。
その代わりに私が堂々としているのはイエス・キリストの功労だけに頼り、その方の義だけを証しとして伝えているためである。それゆえ、誰かが辱める前に先に誇るものがない人間であるということを告白し、生涯、謙遜に生きようとする。私の態度はこの世で損をするしかないが、損をしたとしても主の中で自由を享受したい。
私は欠点が多い人間である。しかし、主イエス・キリストの功労と復活の義によって誇りたい。それゆえ、イエスを知る働きに専門家となって、誰の前であっても、どんな環境であってもイエス・キリストだけを積極的に伝える。これが私の生きる方法であり、大きな働きである。
主の愛と祝福を受けたい。今は肉体が傷んで食欲を失った。何を食べたとしても食べたくて食べるのではなく、肉体が残りの歳月を耐えるために無理やりに食べるだけである。今になってようやく主のために生きる味を知った。「肉体は何でもないし、肉体が私を脅かすことができない。」ということを悟った。今日も説教しているが、まことに命を懸けて伝えている。主が天に上りながら語られた望みを霊魂に深く刻んで走っている。
私は肉体を愛する者ではなく、霊魂を愛する者である。それゆえ、主の御言葉と血、その方が与えてくださった聖霊によって霊魂を満たそうとする。主はその高い御座で手を広げておられる。私の霊魂を迎え入れるために・・・
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室