
罪がないイエス、罪人である私たち
(マタイの福音書3:1~17)
神は
ひとりお生まれになった方をこの世に遣わすことによって
自分の義をこの世に現し、
その方を通して
この世の罪をなくそうとされた(マタイ20:28)
しかし、この世は人として現れた
その方を知ることができなかった
バプテスマのヨハネは天国が近づいたと叫んで、(マタイ3:2)
人々に悔い改めのバプテスマを授けた(マタイ3:11)
バプテスマのヨハネの働きの目的は
罪のない
神の御子、イエス・キリストを
この世に紹介するところにあったし、(ヨハネ1:29)
それと同時に、すべての人類が罪人であるという事実を
確認するところにあった
私たちは
イエス・キリストの尊い血の功労によって
すべての罪を贖われたが、
神の御前では罪人の根本を隠すことができない
悔い改めは初めて信じたときにだけではなく、(使3:19)
私たちの生涯が終わる日まで続けられなければならない(Ⅰペテロ1:13~15)
私たちは自分が枯れることがない
主の尊い血を絶えず頼らなければならない者であるということを
覚えなければならない
◎毎日、悔い改めて
霊魂をきよくしよう
◎常に互いに愛し合うことによって
恵みを受けたという事実を証ししよう
◎深い悔い改めと自白の祈りを通して
悔い改めを完全になそう
※ 悔い改めによって生きる教会、
主の尊い血の力が
力強く働く教会となろう
罪がないイエス、罪人である私たち (マタイの福音書3:1~17)
イエス・キリストは罪がない唯一なる方でおられる
私たちは神の恵みによって義人となりました。私たちの信仰において自分が義人であると認識するのは非常に重要です。しかし、そのような認識が偏ったり盲目的な次元にとどまったりするのであれば、それによって生じる否定的な影響は非常に大きいですし、ひどい場合には生涯、築き上げてきた信仰を滅ぼすこともあります。
人類の中で最も重要な働きをした者を挙げるのであれば、バプテスマのヨハネを言及せざるを得ません。彼は2つの重要な働きをしました。それは第一に、罪がない唯一なる人、すなわち神の御子を初めて発見してこの世に紹介したということですし、第二に、すべての人が罪人であるという事実を確認したということです。
神がひとり子をこの世に遣わされたために、神のふところにあった義がこの世に現れました。罪のない者が初めてこの世に現れたのです。しかし、イエス・キリストがこの地に来られたときに、その方が神の御子であるという事実を誰も発見することができませんでした。その方には見とれるような姿もなかったために、人々から蔑まれました。さらにナザレの出身というレッテルはその方から離れませんでした。バプテスマのヨハネはそのような状況でイエスをこの世に現したのです。
マルコの福音書はバプテスマのヨハネについての紹介からはじまります。イエスよりも6ヶ月前に生まれたヨハネは祭司の子であったために、幼い時から人々の注目を受けて成長しました。彼は主を迎えるために備えられた者でした。ヘロデのように社会的な地位が高い者も彼を恐れました。らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べながら過ごした彼は、時が至って人々にバプテスマを授けはじめました。約6ヶ月間、ユダヤの全土、エルサレムの人々がヨハネのところに出て来て罪を告白してバプテスマを受けましたが、彼が授けるバプテスマは悔い改めのバプテスマ、すなわち人々に「私は罪人です。」と告白させるバプテスマでした。
その当時、神のひとり子イエスはすでにユダヤの地におられましたが、その方を認める者は誰もいませんでした。誰かがイエスに関心をもったとしてもその方を神の御子として認めるというのはむずかしいことでしたし、イエスが自ら「私はキリストです!」と告白したとしても人々がその言葉を信じることはありませんでした。このような状況でその当時のユダヤの指導者として最高の権威をもっていたヨハネが誰かを取り上げるのであれば、ユダヤ社会はその人に関心をもったでしょう。それゆえ、ヨハネは罪のない者が現れるときまで続けてバプテスマを授けたのです。
バプテスマのヨハネは人々を厳しく叱りつけて、悔い改めを促しました。その権威がどんなにすごかったのか、人々は彼がキリストであるのかもしれないと考えました。ヨハネはバプテスマを授けるときにすべての人が罪人であるという事実を確認したために、社会的な地位が高い者に会ったとしても大したこととは考えませんでした。そのようなヨハネが「私のあとから来られる方は私とは水準が異なります。私よりもはるかに力がある方です。私は水のバプテスマを授けますが、その方はあなたがたに聖霊と火のバプテスマを授けられます。」といったときに、人々は驚かざるを得ませんでした。
ある日、イエスが罪人の列の中から現れました。バプテスマのヨハネはその方が罪のない方であるということを知り、人類を代表として神の御子を迎えました。ヨハネが「私がどのようにしてあなたにバプテスマを授けることができるでしょうか?」といったときに、イエスは「許可するので、進めなさい。このようにすることによって罪のない者がこの世に来たという事実が証しされなければならない。」といわれました。イエスはそのようにバプテスマを受けられましたが、ヨハネはその方が水から上がられたときに聖霊が臨まれるのを見て、その方の身分に対して確信をもつようになりました。
バプテスマのヨハネはその日から「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」とイエスを証ししはじめました。ヨハネは「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:33~34)」といい、自分も啓示を通してイエスについて知ったと告白しました。このようにイエスが神の御子でおられるということを初めて明らかにして証しした者がバプテスマのヨハネでした。
罪人であった私たちは生涯、罪と戦わなければならない
悔い改める必要がない唯一なる人がこの世に来られました。その方は神の御子イエス・キリストでした。その方は罪がない方でおられます。その方は聖霊によって胎に宿られました。それゆえ、その方は人間の血統とは何の関係もありません。
神の御言葉は霊です。御言葉が肉体となってこの世に来られました。その方を指して罪がない人ともいい、生かす霊ともいい、またキリストの霊ともいいます。コリント人への手紙第一15章45節は「『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」といいました。最初のアダムと最後のアダム、ふたりのアダムがいます。私たちは最初のアダムの中ですべて罪人となったために滅びるしかありませんでしたが、最後のアダムでおられるイエス・キリストが私たちの罪の価を払って私たちを救い出してくださいました。その方は私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるためによみがえられました(ローマ 4:25)。
イエスは自分の血によって私たちを買い取られました。それゆえ、これから私たちはイエスの所有物です。私たちはイエスの御前で「私には罪がありません。」ということができません。もちろん私たちは神の恵みによってすでに罪の赦しを受けました。しかし、まことに恵みを知る者であるのならば、自分が罪人であったという事実を忘れてはいけません。天の法廷で私たちは義人です。この世に対しても義人です。しかし、神の御前では罪人です。
それだけではありません。私たちの原罪、すなわち遺伝する罪はきれいに洗われたとしても、本罪は依然として私たちの中に残っています。本罪とは肉体の考えの中に入り込む罪です。その罪は常に私たちの中に潜んでいます。これについて創世記4章7節は「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」といいました。イエスも人の心で犯す罪の深刻さについて語られました。罪は私たちから遠く離れていません。さらに私たちは教会に来たとしても罪を犯します。聖霊に従わない瞬間、私たちは罪の前で無力になるという特性をもっています。それゆえ、最後まで罪と戦わなければなりません。特に教会の中で互いに愛し合わないのであれば、私たちは罪を犯す者となってしまいます。それゆえ、主の赦しと弁護に頼って、生涯、罪と戦わなければなりません。
悔い改めにふさわしい実を結ぼう
新しい戒めは悔い改める者に与えられる戒めです。「互いに愛し合いなさい。」というのは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」ということです。兄弟を愛するというのは悔い改めているという事実に対する証しです。愛さない者は悔い改めていない者です。このような人は正常な信仰生活をすることができません。
病気の癒しを受けるためには悔い改めなければなりません。そのようにしてこそ尊い血の力が働くことができます。私たちの体と精神を抑圧して、家庭と職場での生活を滅ぼそうとする悪霊を追い出すためには悔い改めの証しとして新しい戒めを行わなければなりません。悪霊は主の御言葉を実現する聖徒の生涯を恐れます。
新しい戒めを実践しない者に主の関心があるわけがありませんし、悔い改めを実践しない教会が神に用いられるわけがありません。キリスト者は悔い改めの証しとして新しい戒めを着実に守らなければなりません。他の人を教えようとする者であるのならば、自分が恵みを受けた者であるという事実を証明しなければなりません。すぐに争ったり、むやみに他の人を非難したり、傲慢な態度を前面に出したり、自己中心的に生きたりする者とならないで、悔い改めの実を結ばなければなりません。
私たちが受けた神の意図を人々に知らせようとするのであれば、まず自分が完全なキリスト者の姿を備えなければなりません。私たちが受けた御言葉にふさわしい立派な信仰人の姿を通して人々の心に感動を与えなければなりません。私たちから恵みを受けた者としての謙遜な姿が消え、知的な優越感からはじまった傲慢な姿だけが現れるのであれば、人々は私たちに近づこうともしないでしょう。
教会を愛するときに、教会の親とならなければなりません。どんなに子どもが悪かったとしても親は子どもを捨てません。教会のすべての聖徒はひとつの家族です。聖霊が監督を立てられるときに神に感謝と栄光をささげた人々は監督がすることが自分の考えと異なったからといって、むやみに教会を離れてはいけません。教会のすることが気に入らなかったとしても、私たちは子どもを心配する親のように忍耐して注意を払わなければなりません。自分が属した教会のためにその程度のことも担うことができない者がどのようにして厳しい苦難を担わなければならない信仰改革運動を担うことができるでしょうか?
私たちは古い人を捨てて聖霊の導きを受けなければなりません。聖霊によって立てられた監督が聖徒によって萎縮したり制限されたりしないようにしなければなりませんし、むしろ監督が人を恐れないで神を恐れるように祈らなければなりません。日々、自分の罪過を見つけて悔い改め、それによって霊魂をきれいにしなければなりません。聖徒の間で互いに愛し合うことによって、私たちが恵みを受けた者であるという事実を証ししなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 10. 30.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は日々、悔い改めるが、どうしてそのように多くの罪を犯すのであろうか。それでも、私は悔い改める。肉体が老いて病弱なことを悔い改める。病弱だからといって、一度も病床に伏せたことはなかった。これは無理にでも病床から立ち上がろうとしたベテスダの池の病人の信仰のように、従うためである(ヨハネ5:2~9)。肉体が死なないように身もだえするのではなく、死ぬときまで死ぬほどの力を尽くそうとするのである。肉体の死が惜しいのではなく、死ぬ日を待つのが惜しいのである。
主イエスは死を味わうために人の子となって、死ぬまで自分の役割を果たされた。それゆえ、父の愛を受けられた。私の肉体も死ぬために生まれたので、死なないように身もだえするのはむしろ死ぬことである。それゆえ、死は冠であり、義の道で得ることができる栄光である。
私が病弱なことを恥じるのは偽りである。たとえ病弱であったとしても、勝利するのは信仰である。病弱なことに勝利するのは医者や薬、食べ物によるのではない。ただ信仰と悟りによるし、節制と死を恐れないことによる。
すべきことはまだ多いが、時間が非常に足りない。人々の慰めや心配する声に誘惑される。世界は私たちの牧羊の場であるために、顧みなければならない。そこから牛乳が出て来るし、牛乳からバターが出て来る。死ぬべきことをして死ぬよりも生きるべきことをして死ぬのが当然である。それゆえ、生きるのもキリストのためであるし、死の望みもキリストだけである。
食べ物によって生きるのであれば、聖書にそのように書いてあるはずだが、聖書は「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。私があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)といった。病弱であるために誘惑も罪も多い。今まで病弱なことを悔い改めないで、勝利しようとしてきた。これからは病弱なことを悔い改めて、赦しを受けようとする。悔い改めないことよりも愚かな罪があるだろうか。
主が中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」といわれたときに、中風の人はすぐに立ち上がった。私の悔い改めはむなしいものであった。寝床を取り上げて歩くほどの悔い改めもないままに、主の働きだけを願った。しかし、今からは徹底的に病弱なことを悔い改めて、主から赦しを受けようとする。主を知って生きてきた歳月だけを誇り、病弱なことは悔い改めてこなかった。しかし、これからは悔い改めようとする。
わが霊魂よ、悔い改めよう。たとえ腐っていく肉体であったとしても、病弱なことを悔い改めて、赦しを受けよう。これが私がしなければならない根本的な悔い改めである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室