愛する私たち、実を結ぶ教会
(ヨハネの福音書15:9~17)
神は
私たちを救う戒めを御子に与えられた
イエス・キリストは
私たちをその血によって買い取って救い、
その戒めに従う教会として立てられた(使徒20:28)
聖霊は
私たちが主イエスの戒めに従うように働き、
監督と主のしもべを通して私たちを養育される(使徒9:31)
イエスが神の愛を受けられた絶対的な理由は
その方が神の戒めに従われたためである(ヨハネ10:17~18)
その方に与えられた戒めの内容は
私たちに向けられた真実な愛である
私たちも
イエスが与えられる戒めに絶対的に従ってこそ
その方の愛を受けることができるし、(ヨハネ15:10)
そのときに初めて永遠な実を結ぶことができる(ヨハネ15:5)
イエスの戒めの内容は
「聖徒に向けられた真実な愛を土台とした
霊魂と信仰をもちなさい」というものである(Ⅰヨハネ3:23)
これは
主イエスの命令、すなわち永遠のいのちのための霊的な食物である
○教会の成長と幸せのために
自分を無にし、
愛し、忍耐する霊魂となって、ひとつになろう(ヘブル10:22~23)
○ベレヤ運動の成功のために
ひとつの心をもって団結し、
私たちの教会の力を育てよう
○牧会者に従い、
聖徒を励まして称賛しよう(ヘブル10:24~25)
彼らは心を尽くしてあなたを助けるであろう
※主イエスから
最も大きな愛を受ける
私たちの教会となろう
愛する私たち、実を結ぶ教会 (ヨハネの福音書15:9~17)
戒めを守ろう
神は誰かを愛さなければならないという当為性に抑圧されている方ではありません。もう一度言うと、神は誰かを愛さなければならない方ではありません。その反面、私たちは必ず愛を実践しなければならない存在です。それが難しいことであったとしても、あるいは、気が進まないことであったとしても、私たちは必ず愛を実践しなければなりません。
イエスは「私が父の戒めに常に従うために、父は私を愛される」といわれました。神がイエスを愛されるのはただイエスが神の御子でおられるためではなく、イエスが父の戒めに常に従われるためです。私たちも主の戒めに従ってこそ主の愛を受けることができます。
イエスが父から受けた戒めは「あなたはいけにえとなり、私の愛を人類に伝えなさい。」というものでした。殺されるというのは神の御子にとっても決してやさしいことではありませんでしたし、気が進むことではありませんでした。それにもかかわらず、イエスは父の戒めに従われました。それによってその方は父の愛を受けられましたし、人類の救い、悪魔の裁き、天の御座の相続という実を得られました。
私たちが主から受けた戒めは「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」というものです。ここでいう愛の対象は一般的な意味での隣人、すなわち隣に住んでいる人ではなく、キリストの中でひとつの体をなしている器官です。キリストの中でひとつの体となった者を愛さなければならないのは彼らが愛を受けるほどの品性を所有しているためではなく、それが主の戒めであるためです。イエスは戒めに従うために命までささげられました。ましてやただの被造物に過ぎない私たちはどのようにしなければならないでしょうか?
戒めはどうして重要でしょうか? 戒めを守る者と守らない者に現れる結果がまったく異なるためです。イスラエルの民が律法の下で訓練を受けたときに、神の戒めを守らなかった者は即座に罰を受けました。しかし、新約時代には神の戒めを犯す者がその場で罰を受けたり呪いを受けたりすることはありません。肉体によって罪の価を払わなければならなかった旧約時代とは異なり、新約時代は戒めを犯した罪の価を霊魂が払わなければならないためです。
神の戒めを犯して肉体の思い通りに生きる者が栄えるように見えることもあります。しかし、そのように神の戒めを犯した者はいつの間にか方向性もなく何かに引き回されて、神の敵となっている自分に気づくようになります。不従順に報いが伴うのは変わることがない神の原則です(申7:9~11)。ただ恵みの時代には報いがしばらくの間、保留されているだけです。それゆえ、即座に報いがないからと言って、罪がなくなったと錯覚してはいけません。神は私たちが戒めを犯したという事実をすべて覚え、最後の日にそれをすべて精算されます。
新しい戒めを守ろう
神の御言葉は一般的な戒めと新しい戒めに分けることができます。「私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らに教えなさい。」というイエスの命令通りに、一般的な戒めは主のしもべを通して公式的に宣布されなければなりません。牧師は聖徒に主の御言葉の範囲を定め、御言葉を守る方法を教えます。パンを裂くように、御言葉をひとつずつ裂いて与えるのです。一般的な戒めについてイエスは「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)といわれました。
イエスの御言葉の中で「互いに愛し合いなさい。」という御言葉は特別に新しい戒めとして区別されています(ヨハネ13:34~35)。使徒ヨハネもその手紙で新しい戒めについて何度も強調しました(Ⅰヨハネ2:7;4:21、Ⅱヨハネ1:5)。主が特別に区分して強調されただけに、新しい戒めは私たちが必ず守らなければならない基本事項です。新しい戒めは主の御言葉の中で最高の御言葉であり、祝福と呪いをその場で決める物差しです。
イエスが新しい戒めを与えられた目的は教会をひとつにするところにあります。父なる神が神の子がひとつになることを願われるのは当然なことです。イエスも父に「父よ。あなたと私がひとつであるように、彼らもひとつとしてください!」と祈られました。人間は本質的に互いに愛し合ってひとつとなることを嫌ったり、難しがったりします。これは人間が悪魔の子であったためです。しかし、これからは悪魔に属した考えをすべて捨てて、イエスが願われることをなさなければなりません。
主は「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:10)といわれました。主が父から受けた戒めは人類を愛するというものでしたし、私たちが主から受けた戒めは教会を愛するというものです。私たちが主の戒めを守るのであれば、主は私たちを愛してくださいますし、私たちは主の愛を受ける喜びに満たされます(ヨハネ15:11)。主の愛を受ける者に物足りなさや心配があるでしょうか?
教会よ、ひとつになろう
教会を愛して仕えるためには人格が訓練されなければなりません。霊的にきよくなったとしても人格が訓練されていない者は主に用いられにくいです。教会に向かって、あるいは監督に向かって怒りを抱くことは避けなければなりません。人の怒りは神の義を実現するものではありません(ヤコブ1:20)。
イザヤ書66章4節は「わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」といいました。新約時代の状況と結びつけて考えると、この御言葉の「わたし」は教会と深いつながりがあります。教会は主の体です。人が教会を捨てるのであれば、主もその人を捨てられますし、人が教会を愛するのであれば、主もその人を愛して実を結ばせます。緊迫した状況で主の助けを願うのであれば、普段から教会を愛さなければなりません。子どもが神の助けを受けることを願うのであれば、普段から教会を助けなければなりません。教会を愛する者に対する報いは千代にまで至ります。
教会が大変なときに、教会が危機に瀕したときに、教会が悲しむときに、教会を愛さなければなりません。いつか教会を離れようという考えを抱いている者は将来、試みに陥る潜在性をもっているようなものです。私たちは主を代表する者です。新しい戒めに従って聖徒を愛し、それによって暖かい教会を作りましょう。神は慰めの神でおられます。その方は患難の中にいる私たちを慰め、私たちが神から受けた慰めによって他の人を慰めるようにされます(Ⅱコリント1:3~4)。私たちは慰めと励ましのしもべです。周りに試みに陥った聖徒がいるのならば、その人を慰めることによって、神にその人の心の門を叩かせましょう。子どもや妻、夫を慰めて励ましましょう。
教会は主が指定された献身の場ですし、監督は聖徒を祝福するために主に用いられたしもべです。私たちに教会を与えてくださった主に感謝し、教会が苦しいときに重荷をともに担う者となりましょう。また、監督が聖徒に神の祝福を伝える役割を果たすことができるように監督に力を与えましょう。神は教会がひとつとなるときに教会を通してその働きをなされます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 11. 20.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は人間として生まれ、現在も人間として生きている。人間は出生と死が定められているし、成長や活動をしながら子孫を残し、また、社会の発展に一役を買う。その一役には大きな働きもあるし、小さな働きもあるが、自分を使う分だけ結果を得ることができる。たとえ土によって造られた人間であっても土としてだけ生きるのではなく、神のように知恵や知識、万物を治める力をもって生きる。それゆえ、人間は他の動物とは異なる霊物である。
私は話すこともできるし、文章を書くこともできる。過去のことを追憶したり、未来のことを想像したりもする。喜怒哀楽がある普通な人間である。信仰的には霊的な敵となる情欲をもっている。肉体によって悩んだり、「霊的に生きよう。」と霊的に悩んだりする。それゆえ、失敗もあるし、この世のことに楽しみを覚えたりもする。
問題はこれからである。肉体として残っている期間はどれくらいになるのであろうか。どちらにしても肉体を離れて霊的な体として変わるときまで霊魂を守らなければならない。霊魂を守る方法は霊魂のために生きることしかない。しかし、私は人間である。肉体をもっている人間であるために、これを認めなければならない。私が神のようになることを期待する者もいるが、それは無理であるし、実際に不可能な要求である。ただ人間としてどのように人間らしく美しく生きるのかが重要である。
神になることができない人間が神になろうとするのは忌まわしい偽りである。ただ人間である私に神が要求されることがある。神の要求に従うのであれば、肉体は苦しくなるし、肉体の情欲に従うのであれば、神を拒むことになる。毎朝、目を覚ませば、肉体と神の御心が交互に霊魂を圧迫する。それゆえ、私は福音によって生きようとする。福音は肉体の弱さを認め、慈しみと憐れみによって抱く。福音は律法にないそのような恵みを伝えている。
福音は人間である私を認め、大きな慰めや力を与えた。もし律法の下にいたのであれば、人間として待遇を受けることができなかったであろう。肉体によっては弱さのためにすることができなかったが、恵みとして自由や信仰を与えてくださった。それゆえ、私はまことに自由を所有した者である。私の霊魂には自由があるし、人間としての生涯には大きな自由を受けた。私も望むことも、所有することも、愛することもできる普通の人間として待遇を受けたい。私は牧師である。しかし、牧師である前に人間である。それゆえ、牧師として待遇を受けるのも重要であるが、人間として待遇を受けたい。
主よ! 私は神の子であり、主のしもべです。しかし、この世に生きている人間です。それゆえ、常に主の恵みを受けています。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室