ともに父に帰ろう
(ルカの福音書15:11~32)
神は
豊かな母性をもつ、
永遠のまことの父でおられる
その方は
私たちを造られただけではなく、(創2:7)
生んで子とされた(詩2:7)
神が
イエス・キリストをこの世に遣わされたのは
私たちを救い、自分の子とし、
永遠に愛するためであった(ローマ5:8)
聖霊も
神の子という私たちの身分を証しし、(ローマ8:16)
本分を守るように助けられる
私たちは知らないうちに
放蕩息子のような考えと行いをもって生きることがある(ガラテヤ5:17~21)
この世の生涯は私たちに
霊的な身分を忘れさせたり、
神から離れさせたりするが、
これらはすべて
神の働きを妨げる
神は私たちを待っておられるし、
私たちが悔い改めて神に帰ることを願われる(ルカ15:32)
主の教会はひとりの父を迎え入れた、ひとつの家族である(ガラテヤ4:6)
主イエスの勧めに従って、ともに父に帰ろう
○自分でも知らないうちに
放蕩息子となった自分の姿をはっきりと発見して、
悔い改めよう
○私たちの足りない霊的な信仰を悟り、
変えられた姿をもって教会に仕えよう
○家庭訪問を休んではいけない
教会のための祈りを休んではいけない
※ 今いるところで悔い改めて、
父に帰ろう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 12. 04.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
人は生まれてからそれぞれ夢をもつ。男の子は父をモデルとして夢をもつし、女の子は母をモデルとして夢をもつ。また、成長しながら善良な者をモデルとし、消防官になる夢をもったり、看護師になる夢をもったり、学校の先生や科学者になる夢をもったりする。
しかし、この世をさらに深く知っていきながら、その夢はお金を稼がなければならないという考えに変わっていく。すると、むやみにお金を使ったり、この世で自分の姿を小さく感じたりするようになる。このように最初にもった夢は次第に小さくなって消えてしまう。失望し、さらに絶望するようになる。自分がこの世に存在する理由について懐疑的になり、すべての人が自分の敵のように見えてくる。そのようにしてこの世ですべてを失うと、自分自身を虐待する性格になり、自ら苦しんで悩むようになる。
厳しいこの世を過ごすときに、主イエスが召してくださった鐘の音が聞こえてくる。生涯、「怠けないようにしよう」という強い信念をもって生きてきた。それゆえ、思春期や青年期にすべての人が経験する浪漫をもつことはなかった。非常に努力してきたが、結局は多く後悔している。肉体の情欲のために自分の中で多くの戦いをしてきたために、これまでの日々が惜しく、後悔を感じる。
私は神のしもべであり、ひとりの人間である。これら2つの生涯を送るために信仰と文学をともにもちたい。そのようにしながらも、教会の前に常に立たなければならない者であるために、教会員の顔色をうかがわなければならないという不便さに満ちている。
日々、慕い求める神の国と愛が隠れて、ともに存在する。愛には理性を超越した愛もあるし、理性を愛する愛もある。複雑ではあるが、理性を超越した愛には多く失望してきたために、むしろ敵を目の前にしているようである。「敵を愛しなさい」という主イエスの御言葉がこれである。
のぞき眼鏡によってこの世をのぞき見るように、さまざまな混乱を見ているので、私がこの世の生涯を終えなければならないその日が近づいているようである。このような汚い話を文章として吐き出すことによって病んだ心を慰めたい。文学はこの世を体験した道で見たものである。
私は日々、悔い改める。何の罪をこのように多く犯してきたのであろうか。しかし、私は悔い改める。肉体が老いて病弱なことを悔い改める。しかし、病弱だからといって、ただ一度も床に伏せたことはなかった。これは無理やりにでも床を取り上げようとしたベテスダ池の老いた患者の信仰のように、従おうとするためであった(ヨハネ5:2~9)。肉体が死なないように身もだえするのではなく、死ぬときまで死力を尽くそうとするのである。肉体の死が惜しいのではなく、死ぬ日を待つのが惜しいのである。
主イエスは死を味わうために人の子となり、死ぬまで自分の働きを完成された。それゆえ、父の愛を受けられた。私の肉体も死ぬために生まれたので、死なないように身もだえするのはむしろ死ぬことである。それゆえ、死は冠であり、義の道で得ることができる栄光である。
私が病弱なことを恥じるのは偽りである。たとえ病弱であったとしても、勝利するのは信仰である。病弱なことに勝利するのは医者や薬によるのではないし、また、食べ物によるのでもない。ただ信仰と悟りによるし、自制と死を恐れないことによる。
まだすべきことは山のようにあるが、時間が足りない。人々の慰めや心配は惑わしとなる。世界が私たちの牧羊の場であるために、顧みなければならない。そこから牛乳が出て来るし、牛乳からバターが出て来る。死ぬことをして死ぬよりも生きることをして死ぬべきである。それゆえ、生きることもキリストのためであり、死ぬこともキリストのためである。
食べ物が生かすのであれば、聖書にそのように書いてあるはずであるが、聖書は「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)といった。病弱であるために惑わしも罪も多い。これまで私は病弱なことを悔い改めないで、ただ病弱なことに勝利しようとしてきた。これからは病弱なことを徹底的に悔い改め、赦しを受け、尊い血の恵みを受けようとする。病弱なことを悔い改めて、赦しを受けようとする。これよりも愚かな罪があるだろうか?
主が中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」といわれたときに、中風の人はすぐに立ち上がった。私の悔い改めはむなしかったし、床を取り上げて出て行くほどの悔い改めもなしに主の働きだけを願った。しかし、これからは徹底的に病弱なことを悔い改め、主から赦しを受けようとする。主を知って生きてきた歳月だけを誇り、病弱なことを悔い改めてこなかったが、これからは悔い改めようとする。
わが霊魂よ、悔い改めよう。たとえ腐る肉体であっても病弱なことを悔い改めて、赦しを受けよう。これが私がしなければならない根本的な悔い改めである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室