
鶏が鳴くときに悔い改めよう
(マタイの福音書26:69~75)
神は
愛でおられる
それゆえ、
人類を自分のひとり子のように愛されたが、(ヨハネ3:16)
人間はその方の愛から顔を背けている(Ⅰヨハネ4:19)
罪とは
神を忘れることである
今は信仰生活をするのが大変であったとしても
私たちには大きな報いがあるということを知らなければならない(ヨハネ11:25)
イエスは父によって遣わされて来て、
まるで自分の罪によって死ぬように
悲しみもだえられたが、(マタイ26:37)
人間はその方の愛を知らないで恵みを拒む
偽りを誓ってどんなにあざむくであろうか
「主のために生きます。」といったり、(ヨハネ13:37~38)
「主のために死にます。」と繰り返したりするが、
口だけであって、心は離れている
時間をよく守って鳴く鶏の前で泣かなければならないのは
人間である
聖霊が私たちの心を永遠に覚えられる(ヨハネ14:16)
悔い改めなければならない
○ 迫害を受ける主とともにいるのが
恥ずかしいのか? 恐ろしいのか?
その方を知らないといっていないであろうか?
○ ナザレ・イエスの弟子となったことが恥ずかしいのか?
その方から与えられた真理が恥ずかしいのか?
あなたは主を捨てていないであろうか?
○ イエスの人とあざ笑われるのが
そんなにも恥ずかしいのか?
イエスを呪っていないであろうか?
※新年は丁酉年、すなわち鶏の年である
新しい年に鶏が鳴く声を聞いて悔い改めよう
遠く離れた心を改めて泣こう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2017. 1. 1.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
1963年の春から10年余りの間、天幕伝道集会をしたが、その間、苦しくない日はなかった。それでも、救霊の使命だけをもってどんな労苦も避けることはなかったし、全国どこでも訪ねて行って福音を伝えた。そのとき、それに必要な力が常に満ちていなければならなかったために、昼夜を問わずに祈りながら、ただ主の心霊をもって救霊に力を尽くした。それでも、うれしかったし、幸せであった。
牧会をするために開拓をしたときに、その基本は祈りであった。それ以外には何も考えることができなかった。「主よ。10人を与えてください。」と叫びながら、ひとりひとり霊魂を訪ねて行くために祈った。道を歩くときも、座っているときもそのようにした。
それゆえ、ひとりひとり霊魂が訪ねて来たときにはその霊魂をまことに愛した。それ以上もそれ以下もなかった。自分の霊魂のようにまことに愛した。それゆえ、お金がない者も、病気にかかった者も、知識がない者も差別しないで、ただ霊魂を愛する牧会をしてきた。自分が出産した子どもは息子であれ、娘であれ、良い子であれ、悪い子であれ、区別することはないし、母性はひとつであるが、そのように牧会してきた。教会がすぐにリバイバルしなかったとしても、少数の聖徒を無視しないで、すべてが私の貴い労苦の実であることに感謝した。
生涯、その心が変わることはなかったし、今もそうである。私は裁き主ではないために、ひとりも心の中で裁くことはなかった。ただ救霊の使命を受けたために、熱心に霊魂を愛してきた。この世で私のように霊魂を愛する者がいるであろうかと考えるほど、まことに愛してきた。教会員を待つ心は飢え渇くようであった。ひとりひとりが私の心霊によって生んだ霊魂である。主イエスからこの心を受けたために、私は息を引き取る日までそのようにする。
しかし、「教会員がまことに私の心を理解してくれるであろうか? 労苦を認めてくれるであろうか?」という極めて小さな望みがよぎる。彼らがどこにいたとしても、私が植えつけた真理が彼らの中で育って、また実を結ぶ。異端であると中傷し、謀略を巡らすが、これまでの60年間、私から学んだ者の中からひとりでも異端が出て来たであろうか? イエス・キリストを裏切った者が出て来たであろうか? 真理には偽りがないために、神の栄光がある。
愛する聖徒よ。死ぬほどの力を尽くして、主を愛してください。そして、自分の霊魂を愛してください。また、教会を愛してください。教会は自分の霊魂の切り株となります。ああ! これまでのことが絵のように美しい。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室