イエスの教会
(マタイの福音書16:13~20)
神は
唯一なる父でおられる
その方が
御子のために天を造り、
御子を相続者として立てられたので、
御子は栄光の主となられる(ヘブル1:3)
神が御子をこの世に遣わされたが、
この世を愛されたのであり、(ヨハネ3:16)
この世にその方の教会を建てようとされたのである(マタイ16:18)
教会はこの世に現わされた
主イエスのかたちである(エペソ1:21~23)
教会は岩の上に建てられるが、
この岩は
イエス・キリストであり、生ける
神の御子である(マタイ16:17)
やみの権勢(ハデスの門)も打ち勝つことができない
教会は
神の国であり、権勢であり、力である
それゆえ、
天国のかぎを受けた唯一の被造物である(マタイ16:9)
聖霊がこれに印を押して証しされる(Ⅱコリント1:21~22)
○信仰があるのか、自ら試してみよう
イエスはキリストであり、生ける
神の御子でおられるということを確信しているであろうか?
○自分の信仰が岩の上に建てられているであろうか?
自分を試して調べ、
この世に勝利する信仰をもたなければならない
○私たちの信仰と力が
悪魔の力よりも大きいのか、弱いのか
祈って、さらに祈らなければならない
※この地で開くときに、天でも開かれているであろうか
この地で閉めるときに、天でも閉められているであろうか
イエスの御心通りに成功しなければならない
【牧師コーナー(松竹岩)】 2017. 1. 15.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
良い木は根が太くて深い。根はその木の根源である。木は根によって太く育ち、枝を伸ばす。その枝は繰り返し葉をつけて実を結ぶ。その実は木の本体のかたちをもっているために、その実を植えるのであれば、必ずその木と同じ木が育ちはじめる。1000個であれ、1万個であれ、その実が落ちたところでは同じ木が育つようになる。
イエスも良い木や悪い木について語られたし、ぶどう木についても語られた。木の枝が折れるのであれば、再び他の枝が出て来て育つようになるし、毎年、枝についた実は農夫を喜ばせる。これは神が願われる、神の教会である。
教会とはイエス・キリストの本体のかたちであり、イエス・キリストは神の本体のかたちである。それゆえ、教会は神を見せるし、また、イエスを見せる。教会の力と活動、教え、働きはすべてイエス・キリストに似なければならない。それゆえ、教会には伝統がなければならない。伝統が絶えてそのかたちが消えるのであれば、教会は堕落する。
聖楽教会はいつの間にか半世紀を迎えている。初代監督である元老監督がいるし、第二代監督が立てられている。教会は成長しようとしている。元老監督は教会を開拓した者である。開拓の概念はイエス・キリストの体を立てようとすることである。それゆえ、誰でも聖楽教会を見るのであれば、聖書を見るようでなければならない。聖書を見る者はイエスを見る者でなければならない。
どんなにこの世が変わっていったとしても教会は永遠に変わることがない。教会の伝統が消え、教会のロゴが消えるのであれは、その教会は伝説の教会に転落する。初めて教会を開拓したときに目的としていた正義は伝説としてだけ残るようになる。私は人の寿命としてはすでに終わった者であるが、「聖楽教会は視無言・金箕東牧師を伝説の人として覚えてはいけない。」と心配している。教会員が10人であれば、10人がすべて金箕東牧師のようでなければならないし、100人であれ、1000人であれ、1万人であれ、また、10年であれ、1000年であれ、金箕東牧師のような者によって常に満ちあふれていなければならないし、その伝統をつないでいかなければならない。
「過去にはそのような教会であったのに、今はそうではない。」という不幸で危険な言葉が聞こえてきてはいけない。金箕東牧師のような信仰と体験をもとうとする者が多くの妨害や迫害を切り抜けて、ここに集まっている。すべての聖徒が私のような霊感を得ることを願う。そのようにしないのであれば、聖書を伝説の本として作るだけである。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(へブル13:8)という御言葉を私たちすべてが永遠に信じて守らなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室