2017.01.22_牧師コーナー

【牧師コーナー(松竹岩(ソンチュグァム))】2017. 1. 22.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東(キムキドン)牧師
私が真理を悟ってイエスの証人となったときに、「主を全身全霊で愛します。私の霊魂を愛してください。」と祈った。「祝福してください。」、あるいは「祝福を与えてください。」という祈りよりも「私の霊魂を愛してください。」という祈りを多くしてきた。

「祝福してください。」というのは「一度に大きなものを与えてください。」ということである。しかし、「私の霊魂を愛してください。」というのは一度だけではなく、母性のように永遠なものである。私はその愛を受けたかった。「祝福がなかったとしても、また、貧しかったとしても、精神的に肉体的に苦痛であったとしても、昼夜を問わず、永遠に変わることなく神のまことの愛を受けるのであれば、すべての時間と日々はその愛の中でまことに幸せである。」と信じたためである。

信仰があるのかを知るというのはその方の愛を受けているのかを知るということである。その方の愛を受けているというのはその方をまことに愛しているということである。それを悟っていなければならない。

人々が見ているところでは真実なように見えたとしても見ていないところでは偽る者を多く見てきた。幼い頃、他の人の家で下僕として働いたときにも、また、他の家を助けるために共同して野良仕事をしたときにも、私は死ぬほどの力を尽くして、自分に任されたことを担った。他の人は適当に働いたが、幼い私は彼らのようにはしなかった。私が働いた畑は雑草の根まできれいに抜かれ、土は平らになった。

そのとき、他の家で下僕をしていた人が私に「そんなに働いたら、体をこわすぞ。主人が見ているときには熱心に働いたとしても、主人がいないときには適当に働きなさい。他の人のことも考えなさい。」と叱った。のちにその人が働く姿をのぞき見た。歌いながら適当に働いた跡が見えた。数日後、土の中に埋もれていた雑草が再び頭をもたげてこの世に出て来た。しかし、私が雑草を抜いた畑は依然として雑草が出て来なかった。

主の働き手となったのちにはどのような働き手になるのかと常に考えてきた。牧会をするときにも、人々に認めてもらうことを願わないで、ただ全身全霊で主を愛する牧会をしてきた。教会は主の体である。私の霊の眼の前には常に主の姿が見えた。それゆえ、主の体である教会を自分の体のように愛してきた。教会は主の体であるし、その器官は教会員である。

 

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室