永遠のいのちの御言葉
(ヨハネの福音書6:60~71)
神は
永遠でおられる
その方が
自分のふところにある御言葉をこの世に遣わされたが、(ヨハネ1:18)
その方は肉体として来て血を流してよみがえられた
イエス・キリストである(ヨハネ11:25~26)
その方は神のふところから出て来て女の体から生まれた
神の御子、すなわち
神の本体のかたちでおられる(Ⅱコリント4:4)
それゆえ、
その方が語られるというのはその方の中で
神が語られるということである(ヨハネ12:47~50)
しかし、
その方が語られる御言葉を聞くときに
神の御言葉として聞くのではなく、
人の言葉として聞くのであれば、信仰を得ることができないし(ヨハネ6:63)
霊魂に益がない
永遠のいのちの御言葉だけを慕い求めて、その方の前に出て来るのであれば、
イエス・キリストのまことの弟子となる(ヨハネ6:68)
聖霊によって語られる永遠のいのちの御言葉を聞いて従おう
○人の言葉として聞くのであれば、霊魂に益がない
いのちを得ることができないし、心霊が
イエスから離れてさまようようになる
○教会は人を見るために出て来るところではない
ただ永遠の御言葉がおられるために、
その御言葉を聞くために出て来るところである
○信仰は肉にあるものではなく、
霊にあるものであり、霊の活動である
永遠のいのちの御言葉は教会にある
※教会を愛そう
人を見るために教会に出て来るのではなく、
永遠のいのちの御言葉を探すために出て来なさい
永遠のいのちの御言葉 (ヨハネの福音書6:60~71)
神の右の座におられる人の子を見なさい
神は永遠な方でおられます。その方が私たちに語られる御言葉は永遠ですし、私たちに与えてくださるいのちも永遠です。また、その方の御名も永遠ですし、その方の恵みも永遠です。神は恵みを与えたのちに奪い取られる方ではありません。その方が私たちに恵みを与えてくださるのであれば、その恵みは永遠に変わることもありませんし、消えてなくなることもありません。
ヨハネの福音書1章18節は「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」といいました。本来、神を見た者は誰もいません。神は目に見えない方でおられるためです。それゆえ、多くの人が神を抽象的な存在と考えます。ある人はそのような神を何とかして見ようとするあまりに、祈るときに無理やりに何かのかたちを思い浮かべたりもします。しかし、キリスト者の信仰はそのように漠然としたものではありません。
旧約聖書はイエスが来られる前の人々が見た神について記録しました。しかし、厳密に言うと、彼らが見たのは天使でした。使徒の働き7章35節は「『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現れた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。」といいました。モーセに現れた神は天使でした。ステパノはユダヤ人たちの前でその点を指摘しながら、神を見るためには神の右の座におられる人の子を見なければならないと強調しました。神は本来、誰も見ることができない方ですが、神の右の座におられる方が人の子として自分を人々の前に現されました。旧約時代の人々が見たのは神に用いられた天使でした。しかし、イエスがこの地に来られることによって人々は神の本体のかたちを見ることができるようになりました。
イエスは永遠の前から神とともにあった御言葉が肉体となって来られた方です。その方はナザレで時を待ったのちにガリラヤで伝道し、エルサレムで死に、よみがえって天に上られました。その方は今、神の右の座におられます。神は目に見えない方でおられますが、私たちはその方によって遣わされたイエス・キリストを頼ります。もちろん今はその方が天に行かれたために、その方を見ることができませんが、霊的な目によっては続けてその方を見ることができます。
神を見たいでしょうか? それならば、その方によって遣わされたイエス・キリストを見てください。今、肉眼によってはその方を見ることができませんが、天におられるその方を信仰の目によって見てください。祈るときにも漠然と抽象的な存在を思い浮かべるのではなく、天におられるイエス・キリストに向かってひれ伏してください。その方は歴史的にこの地に来て私たちの罪を贖われました。そして、多くの人が見守る中で天に上り、父に求めて聖霊を遣わされました。聖霊の感動を受けた者によって記録された聖書もイエス・キリストを証ししています。
人の子を見た者が悟る、永遠のいのちの御言葉
イエスが弟子たちに「私は天から下って来た生けるパンです。誰でもこのパンを食べるのであれば、永遠に生きます。」といわれたときに、多くの人が「どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるであろうか?」といってイエスを離れました(ヨハネ6:51~52)。イエスは残った弟子たちに「あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう?」と尋ねられました。これに対してペテロは「私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉をもっておられます。」と答えました(ヨハネ6:67~68)。
人々がイエスを離れたのはそれまでイエスに従いながらもその方をただ偉大な人物として見ていたためです。イエスの十二弟子のひとりであるイスカリオテ・ユダもそうでした。 彼はイエスに罪がないという事実を知りながらも、イエスを大祭司に売りました。そのようにするのであれば、イエスの無罪がはっきりと証明されると考えました。しかし、イエスは死刑の宣告を受けましたし、その方を売ったユダは呪いを受けました。
イエスは「私は人の証しを受けません。私について証しする方がおられますが、それは神です。また、聖霊も私を証しされます。あなたがたも聖霊を受けるのであれば、私の証人となります。」といわれました。 聖霊が臨まれる前には誰もイエスを完全に知ることも証しすることもできませんでした。聖霊を受けた者だけがイエスがどのような方であるのかを知って証しすることができるためです。
イエスは「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。私があなたがたに語った言葉は霊であり、また、いのちです。」といわれました。聖霊の証しを受けた者、すなわちイエスが神の御子であるということを知る者だけがイエスの御言葉を理解することができますし、また、それを通していのちを得ることができます。イエスをただ人として見た者はイエスが「私の肉を食べなさい!」といわれたときに、「食人種でもないのに、どのようにして人の血を飲み、人の肉を食べることができようか?」と驚いたでしょう。しかし、イエスの御言葉は霊的に受け入れてこそ理解することができますし、また、そのとき、御言葉がその人にとっていのちとなります。信仰は肉にあるのではなく、霊にあります。信仰生活を霊的な生活という理由もここにあります。どんなに長い間、教会生活をしたとしても説教を人の言葉として聞くのであれば、何の変化もありませんし、霊魂が生きることもできません。神の御言葉は必ず霊感によって受けなければなりません。
永遠のいのちの御言葉がある教会
教会で監督を通して御言葉の証しを聞くときにも、それを霊感によって聞かなければなりません。たとえその御言葉が人の口を通して出て来て人の耳に入って来たとしても、その御言葉はこの世の常識や知識から出て来た言葉ではなく、神から出て来た霊的な御言葉です。霊的な御言葉だけが私たちの霊魂を生かすことができます。教会生活をしながらも霊的な御言葉を受けることができない者は健康な信仰を維持するのがむずかしいです。私たちが悔い改め、バプテスマを受け、イエス・キリストの人となったのは霊的な御言葉を受けたためです。また、聖霊を迎え入れ、賜物を受け、力を現し、しるしを体験するのも霊的な御言葉を受けたためです。私たちが主日に教会に集まって御言葉を聞くのもこれを通して永遠のいのちの御言葉を受けるためです。
教会の弱くて足りない点を見てつまずいて教会に来ない者もいます。しかし、教会が足りなかったとしても、聖徒は自分の霊魂のために教会に集まって、永遠のいのちの御言葉を聞かなければなりません。もちろん教会に集まってすることはさまざまです。しかし、永遠のいのちの御言葉を聞くのは教会生活の中で決して欠かすことができない必須の要素です。この世には教会よりも立派な建物が多いです。しかし、教会には永遠のいのちの御言葉があります。永遠のいのちの御言葉が人の理性を満足させることができないこともあります。しかし、私たちの霊魂のためにはその御言葉が必要です。
永遠のいのちの御言葉を聞くためには心に憎しみがあってはいけません。憎しみが満ちているところには神の御言葉が入って行きません。憎む者はみな人殺しであるといいました。カインの心の中に神の御言葉が入って行かなかったように、他の人を憎む者の心の中には神の御言葉が入って行きません。ある人は「牧師が憎いので、説教が聞こえてこない。」といいます。説教が聞こえてこないというのは永遠のいのちの御言葉が霊魂に供給されていないという意味です。これは非常に危険なことです。イエスが「誘惑に陥らないように目を覚まして、祈っていなさい。」といわれた理由もここにあります。これを他の人に向けられた警告とだけ考えてはいけません。誰も例外ではありません。私たちはすべて誘惑に陥らないように常に目を覚まして祈らなければなりません。
永遠のいのちの御言葉を聞くのは他の人のためではなく、自分自身のためです。神は永遠のいのちの御言葉を与えようとして私たちを教会に呼んでくださいました。教会にはさまざまな面で多様な人々が集まっているために、常に多様な葛藤が起こる可能性があります。それにもかかわらず、多くの人が集まってひとつとなることができるのは永遠のいのちの御言葉がその中で働くためです。私たちが教会のために献身し、奉仕し、忠誠を尽くすのも教会に永遠のいのちの御言葉があるためです。「主よ。私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉をもっておられます。」というペテロの告白が私たちすべての告白とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室