イエスは神でおられるⅠ
(ヨハネの福音書12:44~50)
神は
永遠に生きておられる
その方は
自分が生きていることをこの世に現し、(ヨハネ1:18)
自分の働きについてはっきりと語られた(ヨハネ12:50)
私たちはその御言葉を聞き、
また、見た(ヨハネ1:14)
イエスは御言葉の名でおられる(ヨハネ1:12)
それゆえ、
御言葉を信じる者は
神を信じる者であるし、(ヨハネ12:44)
御言葉が肉体となってこの世に来られた方を見た者は
父なる神を見た者である(ヨハネ12:45)
御言葉は永遠不変の公義である
それゆえ、御言葉は裁く(ヨハネ12:48)
しかし、
御言葉が肉体となってこの世に来た
イエスは私たちを裁かないで
救うキリストでおられる
イエスはこの世を照らす光である
聖霊はこれを証しされる(ヨハネ15:26)
○ 御言葉を信じて従おう
これはイエスを信じて従うことであり、
父なる神に従うことである
○ 十字架は私たちが死ななければならない道であるし、
イエスは私たちが信じて永遠に生きる道である
私たちはその方の御心通りに死んでこそ、その方の御心通りに生きる
○ イエス・キリストは
神でおられる
神でおられる
※ 私たちの身分はどのようなものであろうか?
神の御言葉を信じる者であり、
信じて従って救いを得た者である
イエスは神でおられるⅠ (ヨハネの福音書12:44~50)
神は永遠に生きておられる方です。その方は永遠の前から永遠に自らおられます。どのような被造物も神を見ることができません。しかし、神は自分を私たちに現してくださいました。それゆえ、私たちはその方を知らなければなりません。その方を知って従うのが私たちの信仰です。
旧約聖書の記録によると、創世以来、多くの人が神を見ました。しかし、彼らが見たのは神の本体ではなく、神から遣わされた天使でした。人々が神を見ることができるようになったのは今から2000年前、イエス・キリストがこの世に現れたことによってでした。
私たちは自分がもつ信仰についてはっきりと知らなければなりません。多くの人が信仰生活をしながら一種の渇きを感じ、それを信仰の要素と考えます。しかし、神に会った者の霊魂に満ちるのは渇きではなく、満足や喜びでなければなりません。信仰生活をしながらも依然としてむなしさを感じるのは神を呼んだとしても応答がなく、手を伸ばしたとしてもつかむものがないためです。
宗教は一般的に倫理や道徳を強調します。それゆえ、宗教人は修養を重視します。問題は修養というものが最終的に心と肉体の安定を図るだけであって、その水準がどんなに優れていたとしても、肉体が消えるのと同時にその功労がすべて消えてしまうというところにあります。キリスト者の信仰は修養を積むものではありません。多くの人がキリスト者に向かって「教会に通う者がどうしてそのようにするのか?」といいますが、それはキリスト者に対する偏見や誤解が前提となっています。教会に通う者の特徴は他でもなく救いといのちを得たというところにあります。
キリスト者であるのならば、自分が救いといのちを得たという事実について体験がなければなりません。信仰生活をする者がこの世のあらゆる困難に勝利することができないで挫折するのは実際にその人に信仰がなかったという事実を物語っています。海で激しい突風が起こり、船が波をかぶって水でいっぱいになったとしても、主は船の後ろのほうで眠っておられました。恐れに陥った弟子たちが慌てるときに、主は起きて彼らに「信仰のない者よ。どうして恐れるのか?」といわれました。弟子たちは信念をもっていたのかもしれませんが、天から来た信仰をもっていませんでした。どのような患難に遭ったとしても揺るぐことがない信仰、そのような信仰こそが天から来た信仰です。
人ならば誰でも信念をもっています。信念は何かをすることにおいて成功をもたらすことはできたとしても、霊魂を救うことはできません。信念は個人の主観的な確信に過ぎませんが、信仰は神から下りて来た信仰です。教会生活をどんなに熱心にしたとしても神を知らないのであれば、それは信念による感情に過ぎません。それがさらに進めば、神秘主義になります。それは神と何の関係もありません。私たちに必要なのは神から与えられた信仰です。ただその信仰にだけ救いや力、復活、永遠のいのちがあります。私たちがその信仰を捨てるのであれば、神も私たちを捨てられます。神の関心は神から与えられた信仰に関心をもつ者にあります。
私たちが神から与えられた信仰を所有することができるようになったのは永遠の前から神とともにあった御言葉が今から2000年前に肉体となってこの世に来られたことによってでした。もちろん21世紀に生きている私たちはその方を直接、目で見ることができません。しかし、2000年前にこの地に来られたその方を見た者の言葉を信じるというのはその方を見たということと同じです。イエスもこれを念頭に置いて「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:20)といわれました。また、ヘブル人への手紙 11章1節は「信仰は望んでいる事がらを保証し、 目に見えないものを確信させるものです。」といいました。
神の御言葉が2000年前にこの地に来られたときにその方を目で見て、手で触って、その方を通して特別な慰めを受けた者の証しを記録したのが新約聖書です。私たちは聖書を指して普通、「神の御言葉の本」といいます。しかし、具体的に言うと、聖書には悪魔の言葉や惑わしの霊の言葉、悪霊の言葉、人の言葉もあります。しかし、悪魔の言葉や悪霊の言葉が人を救うことができるでしょうか? 私たちを救うことができるのはただ神の御言葉だけです。その御言葉が肉体となって来られたために、私たちはその方を信じるのです。
イエスがこの地に来られたのはローマ帝国が戸籍制度を施行したのちのことでした。この事実がとても重要なのはそれが「イエスは人々が想像力を動員して作り上げた人物ではなく、歴史的な存在である。」ということを証明しているためです。創世以来、数え切れないほどの多くの人がこの世にとどまって去って行きましたが、その中で誰も神ではありませんでした。ただベツレヘムで生まれ、エルサレムで十字架につけられて死なれたその方だけが神でおられました。これは神が証しし、聖霊が証しし、これまで多くの者が命を差し出して証ししてきた事実です。
この世の人々は「人の体から生まれた者をどのようにして神ということができようか?その方が子どものときから育ってきた姿を見てきたのに、どのようにしてその方を神ということができようか?」と反問し、私たちを非難します。しかし、私たちはそれを確信することができなければなりません。それを無理に信じなさいというのではなく、この地に来られた神をはっきりと知って、信じて、体験しなければならないのです。
御言葉が肉体となってこの地に来られたのは人生を経験するためでした。その方は母の胎に宿ってその中で10ヶ月間、成長し、生まれたのちには病気、貧困、飢え、渇き、圧迫など人々が苦しむあらゆる苦痛を経験し、最後には十字架で死なれました。その方は創造主でおられますが、人間が経験するすべての弱さを知る方でおられます。
神の御言葉は人々のコミュニケーションのために使われる言葉や文とはまったく異なります。ヨハネの福音書1章14節は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」といいました。私たちは今、その御言葉を見ることができなければなりません。
イエスはこの地にいる間に多くのことを教えられましたが、多くのたとえをもって教えられました。弟子たちがその理由を尋ねると、イエスは「あなたがたには、神の国の奧義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため 』です。」(マルコ4:11~12)といわれました。モーセの律法と預言者が伝えた内容はすべてたとえでした。たとえが人々に罪の赦しを与えることができないとイエスがいわれたように、律法と預言者は人を救うことができませんでした。
それゆえ、私たちは真理を知らなければなりません。真理とは何でしょうか? イエスは「私が真理です!」といわれました。救いを受けるためにはイエスを知らなければなりません。イエスを知る者だけが救いを受けた者であり、永遠のいのちを得た者です。イエスは「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)といわれました。それゆえ、イエスを知る者は自由を得た者です。律法からの自由、罪からの自由、地獄の刑罰からの自由を得た者です。
聖霊は私たちが真理を知るように助けてくださいます。イエスは「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:12~13)といわれました。多くの人が真理を知るといいながらも、福音を伝えるときに「イエスを信じれば、商売がうまくいく!」というようにいいます。しかし、私たちは神がイエスを指して「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ!」といわれたその意味をはっきりと知って、その方を証ししなければなりません。
イエスに従っていた者の中にも、イエスが「私の肉を食べ、私の血を飲みなさい!」といわれたときに驚いて離れて行った者がいました。彼らはイエスが語られた御言葉に納得することができませんでした。イエスを知る者はその方の血を飲み、その方の肉を食べるのが当然であると考えますが、その方を知ることができない者にとっては奇怪な言葉に聞こえるのです。それゆえ、私たちはイエスを知らなければなりません。御言葉を知らなければなりません。真理を知らなければなりません。
ヨハネの福音書12章44節は「また、イエスは大声で言われた。『わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。」といいました。イエスは肉体となった御言葉であり、真理であるために、この御言葉を別の角度から見ると、御言葉を信じる者は神を信じる者ですし、真理を信じる者は神を信じる者です。ここで信じるというのは単に聞いて認めるという意味ではなく、従うという意味です。私たちが神の御言葉を信じる、真理を信じるというときに重要なのはそれに従うことです。
ヨハネの福音書 12章45節は「また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」といいました。イエスは神の本体のかたちです。この地に歴史的な存在として来られたその方を見たというのは神を見たということです。2000年という時間が流れましたが、その当時、その方を見た者の言葉を信じるというのもその方を信じるということです。私たちはニュースを通して何かの事件に触れると、自分がその現場を直接、目撃しなかったとしても、ニュースの内容をそのまま信じます。ましてやイエスを見た者が命をかけて証しした言葉をどうして信じることができないのでしょうか? イエスを見た者が語ったことを聞いて信じるというのはイエスを見たということと同じですし、神を見たということと同じです。
イエスという名はどのような名でしょうか? マタイの福音書1章21節は「マリヤは 男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から 救ってくださる方です。」といいました。イエスの名を所有した者は「私は救いを受けた」と告白することができる者です。その人はそれ以上、罪によって地獄に行くことを心配しなくてもいいです。イエス・キリストがこの地に来られたのは罪人を裁くためではなく、罪人を救うためでした。
それにもかかわらず、続けて多くの人が主を恐れます。そのような人は子どもが怪我でもしたのであれば、自分が何が過ちを犯したために主が罰を与えられたのではないのかと考えます。私たちが覚えなければならないのはイエス・キリストは私たちに罰をもたらすために来られた方ではなく、救うために来られた方であるという点です。これについてイエスも「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。 」(ヨハネ12:47)といわれました。
イエス・キリストに対する誤解は人の霊魂を破壊します。その方は近づくほど私たちにとって益となり、いのちとなり、慰めとなるのであって、恐れとなるのではありません。神が天使を通してエホバという名で働かれたときに、罪人は神を恐れるしかありませんでした。罪を犯したところにすぐに報いが下されたためです。しかし、イエス・キリストの関心は罪人を救うところにあります。それゆえ、どのような罪を犯した者であっても恐れないで、その方に近づかなければなりません。
ヨハネの福音書12章48節は「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」といいました。裁きは御言葉がします。もう一度言うと、霊魂に真理がない者はすでに裁きを受けた者です。真理がない者は神の義がない者ですし、神の義がない者は不義な者としてすでに裁きを受けたのです。それゆえ、私たちはイエスに近づかなければなりません。
イエスは神でおられます。全知全能なる方でないのならば、神ではありません。すべてのことを完成する方でないのならば、神ではありません。自ら生きる方でないのならば、神ではありません。イエスは神でおられます。イエスは真理でおられます。イエスは御言葉でおられます。その方は私たちを救うために来られた方ですし、私たちを助けてくださる方ですし、私たちを完全にしてくださる方です。それゆえ、その方を恐れないで、力を尽くして頼らなければなりません。そのようにするときに真理の聖霊が私たちを助けてくださいますし、イエス・キリストの功労が私たちから豊かに現れるようになります。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室