イエスが与えられた信仰
(ヨハネの福音書20:11~23)
神は
唯一なる方でおられる
その方が
この世に自分を知らせたが、これが私たちの信仰となった(ヨハネ1:14)
父、子、聖霊が三位一体でおられるということを(マタイ28:19~20)
知って信じて体験するのが私たちの信仰である
この世は
神も神の国も知らない
しかし、
信じる者はこれを知って信じて体験する(ヨハネ17:3)
これが信仰の基本である(ヨハネ17:11~12)
イエス・キリストがよみがえられたのちに、
イエスの人はこの信仰によって生きる
イエスはよみがえったのちに
第一に、「平安があるように」といわれたが、平安は
イエスが与えられた信仰である(ヨハネ20:21)
第二に、「聖霊を受けなさい」といわれたが、
聖霊は私たちに与えられた体験の信仰である(ヨハネ20:22)
第三に、「あなたがたが誰かの罪を
そのまま残すのであれば、そのまま残る」といわれたが、これは
イエス・キリストの権勢が私たちにあるという信仰である(ヨハネ20:23)
○それゆえ、
イエスが与えられた信仰である平安があるだろうか?
これはこの世に勝利する信仰である
○イエスが与えられた
聖霊とその賜物があるだろうか?
これは信仰を体験するものである
○イエスが与えられた
罪を赦す権勢があるだろうか?
これは聖徒の信仰であり、大きな力である
※私たちは生きておられる方を信じて
その方とともにする者であり、
その方を現す証人である
イエスが与えられた信仰 (ヨハネの福音書20:11~23)
神は唯一なる方でおられます。唯一なる神を知ることは私たちの信仰において絶対的です。イエスは「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)といわれました。幼児も1、2ヶ月が過ぎると、母親を見分けます。ましてや神に仕えるという者が神を知らないというのは話になりません。この世の人々は木を削って作った偶像や哲学的な思考を通して作り上げた抽象的な概念を神として扱いますが、キリスト者は神を知らなければなりません。神は永遠に生きておられる創造者です。神は誰かによって創造された方ではなく、永遠の前から永遠に自らおられる方です。
人間が神を知ることができるようになったのは神が人間に神を知る力を与えられたためです。その力を信仰といいます。人は誰でも自分の確信をもっていますが、これを信念といいます。人がさまざまな困難を克服して農業をしたり商売をしたりするのは信念をもっているためです。しかし、信念には限界があります。信念によっては神を探すことができませんし、救いを得ることもできません。私たちに絶対的に必要なものは神の信仰です。弟子たちはイエスが呪ったいちじくの木が枯れているのを見て驚きました。そのとき、イエスは「神を信じなさい!」といわれましたが、その言葉の本来の意味は「神の信仰をもちなさい!」という意味です。
神は私たちに神の信仰を与えようとして、御子を遣わされました。神の御子は人としてこの地に来られました。その方はこの地にしばらくの間、とどまったのちに消えていった多くの人のように、10ヶ月を母の胎内で過ごし、そののちに出生と成長と死を経験されました。その方の経験は他の人と異なるところがありませんでした。しかし、その方だけが経験されたことがあります。復活がそれです。科学技術が発展し、人間は過去に想像することもできなかった驚くべきことをしています。たとえば、過去には不治の病と考えられていたさまざまな病気を、今は先端の医術を動員して治しています。しかし、科学技術がどんなに発展したとしてもその力によっては復活を経験することができません。
イエスは自分を指して「私はよみがえりです。いのちです。」といわれました(ヨハネ11:25)。イエスを信じるというのは復活を信じるということです。イエス以前にこの世に復活した者は誰もいませんでした。ところが、イエス・キリストに結びついた私たちはその力を所有するようになりました。イエスは「また、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。」といわれました(ヨハネ11:26)。イエスがよみがえられたように、神が与えられた信仰を所有した者も復活するというのです。
それでは、神が与えられた信仰とは何でしょうか? それはイエスがよみがえったのちに弟子たちに現れて語られた御言葉を通して知ることができます。ヨハネの福音書20章21~22節は「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」といいました。
神が与えられた信仰の第一は平安です。人々が最も恐れるのは死です。人々が病気や寒さ、飢え、危険などについて心配するのは結局、死を恐れるためです。ヘブル人への手紙2章15節は人々を指して「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」といいました。ましてや絶対的な信頼をもって数年間、従ってきたイエスが悲惨な死を遂げられたのを目撃した弟子たちの心はどのようなものであったでしょうか? そのような彼らに主が現れて「あなたがたに平安がありますように!」といわれました。
まことな平安を享受するためには死に対する恐れを克服しなければなりません。そのためには死そのものを克服することができなければなりません。それゆえ、復活の望みをもつ者だけがまことな平安を享受することができます。多くの人がイエス・キリストを通して得たものとして、良い大学に入ることができたこと、経済的な収入が増えたこと、健康になったことなど、この地で享受することができる有益を考えます。しかし、この地でそれらをすべて失ったとしても、まことな平安は変わることがありません。
神が与えられた信仰の第二はイエスが「聖霊を受けなさい!」といわれたことです。この世のすべての宗教が倫理と道徳を強調します。ところが、聖霊はキリスト者だけが受けることができます。イエスは「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)といわれました。聖霊の臨在が私たちにとってどんなに有益であるのか、イエスは自分が去って行ったとしても聖霊が私たちに臨まれることが私たちにとって有益であるといわれました。
聖霊は特別な人だけが受けるのではなく、イエス・キリストに属している者ならば誰でも受けることができます。それで、パウロはエペソに行って弟子たちに会ったときに、彼らに「信じたときに聖霊を受けましたか?」と尋ねました。そのとき、聖霊について聞いたことがなかった彼らはパウロが伝える福音を聞いてバプテスマを受け、パウロの按手を通して聖霊を受けました。キリスト者ならば誰でも聖霊を受けることができますし、また、受けなければなりません(使19:1~7)。
キリスト者を指して霊的であるというのは聖霊が彼らの中におられるためです。この世の人々は「霊的である」という言葉を聞くと、巫女や占い師を思い浮かべます。しかし、まことに霊的な者は神が与えられた信仰をもつ者、すなわち聖霊によってイエス・キリストを知る者です。これについてコリント人への手紙第一 12章1~3節は「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」といいました。
聖霊が私たちの中でなさる働きはイエスが神の御子でおられるということを証しすることです。聖霊が私たちの中におられるために、私たちはイエスが私たちの中におられることを体験することができます。それゆえ、コリント人への手紙第二1章21~22節は「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」といいましたし、ヨハネの手紙第一5章7~8節は「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」といいました。霊的な者とはこのような聖霊の証しをもった者です。
霊的な者であるのならば、霊的な実を結ばなければなりません。コリント人への手紙第一12章7~11節は「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」といいました。ある人は「私は聖霊を受けたようだが、よくわからない。そのときは異言を語りなさいといわれたので、無理に語りましたが。」といいます。また、ある人は「私は異言を語ったことがありますが、長続きしませんでした。」といいます。このような者を霊的な者ということはできません。聖霊を受けたのであれば、賜物と力を味わうだけでなく、多く祈ることによって霊的な実を豊かに現さなければなりません。
コリント人への手紙第一2章11~13節は「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」といいました。私たちは聖霊に満たされて、神の事情をよく知らなければなりません。神から賜物として与えられたものを聖霊によって悟らなければなりません。
神が与えられた信仰の第三は「あなたがたが誰かの罪を赦すのならば、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すのならば、それはそのまま残ります。 」という御言葉に含まれています。ある人は「罪を赦すのはイエス・キリストの権勢であるが、どうして私たちも罪を赦すことができるというのであろうか?」と反問します。イエスの御言葉を聖霊によって悟ることができなかったときにはそのような反応が出て来るのが当然です。実際にこのような反応はイエスの当時にもありました。中風の人がイエスの御前に来たときに、イエスはその人に「あなたの罪は赦された!」といわれました。すると、律法学者やパリサイ人は「神を汚すことをいうのは誰か? 神のほかに誰が罪を赦すことができようか?」とつぶやきました。
イエスは「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」といわれました(マタイ28:18~20)。バプテスマとは何でしょうか? ただ人を水に入れたのちに引き上げるものでしょうか? バプテスマを授けるというのは「あなたは本来、アダムの中で罪を犯した者です。ところが、イエス・キリストがあなたの罪を贖われました。今、あなたが水の中に入って行くのは永遠に刑罰を受けなければならなかった古い人を葬るということですし、あなたが水から出て来るのはイエス・キリストの復活と結びついた者になるということです。」と証しするということです。
イエスはこのようにバプテスマを授ける権利を弟子たちに与えられました。この権利は天から来たものであるために、バプテスマは誰でも授けることができるのではなく、按手を通して油を注がれた者、すなわち牧師と執事だけが授けることができます。
以前、ある人が酒に酔ったまま教会に来てバプテスマを受けようとしたことがありました。話をしてみると、その人には罪の赦しを受けるほどの信仰がありませんでした。その人は執拗にバプテスマを授けてくださいと要請しましたが、私は続けて拒みました。私にはその人にバプテスマを授けない権利があります。イエスが「あなたがたが誰かの罪を赦すのならば、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すのならば、それはそのまま残ります!」と認められたためです。
ペテロがコルネリオの家で御言葉を伝えているときに、聖霊が御言葉を聞く者すべてに臨まれました。そのとき、ペテロは「この人たちは私たちと同じように聖霊を受けたので、いったい誰が水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか!」といって彼らにバプテスマを授けました(使10:44~48)。聖霊を受けるというのは神が与えられた信仰を所有したということです。バプテスマも同じです。ペテロは人々が聖霊を受けるのを見て、彼らが神が与えられた信仰を所有したということを知って、彼らにバプテスマを授けました。これは「あなたの罪は赦された!」と宣言したのと同じです。
神の力によって病気の癒しを受けようとする者が陥りやすい落とし穴があります。病気にかかった者は苦痛から早く脱け出そうと渇望するために霊的な手順を疎かに考えやすいです。イエスが中風の人を癒す前にまず「あなたの罪は赦された!」といわれた理由を考えなければなりません。多く祈ったとしても病気が治らないのは、また、悪霊を続けて追い出したとしても治らないのはどうしてでしょうか? 病気の癒しは罪の赦しを受けた者に与えられる賜物です。それゆえ、癒しを受けるためにはまず自分が神を知らなかったこと、神によく仕えることができなかったことを悔い改めなければなりません。
コリント人への手紙第一15章56節は「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」といいました。「律法を機会として罪が入って来るし、罪を機会として死が入って来る。」というのです。神の助けを受けようとする者がまず解決しなければならないのは罪の問題です。キリスト者が神から受ける最も大きな恵みは罪の赦しです。罪の赦しは誰かの按手を通して受けることができるものではありません。罪の赦しを受けるためには本人が悔い改めなければなりません。それゆえ、病人に按手する者はまず病人に悔い改めさせて、罪の赦しの喜びと感謝を十分にもたせなければなりません。そのようにすれば、大きな力が現れます。
以上のように、私たちは神が与えられた信仰をもたなければなりません。第一は平安であり、第二は聖霊であり、第三は罪を赦す権勢です。これら3つは私たちの信仰の基礎です。復活の望みによって平安を享受すること、聖霊によって神に仕えること、罪を赦す権勢によって人々を救うこと、これらは神が与えられた信仰をもつ者だけがすることができます。これ以上、信念に頼らないで、神が与えられた信仰をもたせてくださいと切に祈りましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室