イエスは神でおられるⅣ
(ローマ人への手紙8:5~9)
神は
霊でおられる
その方が
この世に臨まれたが、この世はその方を知ることができない(ヨハネ1:5)
それは肉体の感情によって接近するためである
感情は情欲であり、肉の属性である
感情は霊的なものではないために、
それによっては神に会うことができない(ローマ8:5~6)
肉の思いは情欲だけである
神を知る霊感がないために、
イエス・キリストを見たとしてもその方を知ることができないし、
神を見たとしても信じない(ローマ8:8)
神の働きは
神を知る者だけに現れる
肉にある者は永遠にその方に会うことができない
信仰は
霊に属したものであるために、
それによって神に会うことができる
教会の働きは霊的である
教会の働きを肉体の思いによってするのであれば、
神と敵になる(ローマ8:7)
○ 霊によって信仰生活をするために
聖霊によって生まれ変わらなければならない
聖霊の助けなしには霊的な生活をすることができない
○ キリストの霊がなければ、
キリストの人ではない
聖霊はキリストの霊でおられる
○ 肉にある者には
イエス・キリストの喜びがなく、
疑いと不満が満ちている
※ 聖霊によって生きよう
イエスは神でおられる
その方は私たちを救う方でおられる
イエスは神でおられるⅣ (ローマ人への手紙8:5~9)
霊によって神に仕えよう
神は霊でおられます。霊は一般的に目に見えませんし、手で触ることもできません。そのためか、人々は観念的な次元で神の存在を理解しようとします。しかし、神は実際に存在しておられる方です。イエスが神の御子でおられるのを信じるというのは目に見えない神の存在を認めるということです。父がいない子は存在しないためです。
ある人は「聖書の記録によると、旧約時代の人々は神を見たのに、どうしてヨハネの福音書1章18節は『いまだかつて神を見た者はいない』というのか?」と疑います。旧約聖書を読むと、アブラハムやモーセが神を見たと考えやすいです。しかし、厳密に言うと、彼らが見たのは天使でした。柴の中でモーセに現れた神は自分を「アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」と紹介しました。ところが、使徒の働き7章35節はその神の実体が天使であったという事実を明らかにし、「『誰があなたを支配者や裁判官にしたのか。』といって人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた天使の手によって支配者、また、解放者としてお遣わしになったのです。」といいました。モーセに現れた神はアブラハムに現れた神でしたし、その実体は天使でした。
神は神のふところにおられたひとり子の神を通して被造物に自分を見せられました。その働きは今から約2000年前に初めてなされました。私たちはイエスを見ることによって神を知るようになりました。イエスがなさった働き、イエスが語られた御言葉、イエスがもたれた品性などはすべて神がどのような方でおられるのかを完全に見せるためのものでした。イエスを指して神のかたちという理由がここにあります。
神は霊でおられるために、私たちも霊によってその方に仕えなければなりません。ヨハネの福音書4章 23~24節は「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」といいました。霊によって礼拝しないのであれば、神に会うことができません。礼拝をささげるためにどんなに端正な服を着て教会に出て来たとしても、神がご覧になるのはその人の外見ではなくて、心霊です。
肉によって仕えてはいけない
私たちは神が霊でおられるという言葉を慎重に聞いて、霊によって神に仕えるために努力しなければなりません。幼いときから「親孝行しなさい! 大人を敬いなさい!」という言葉を心に刻みながら聞いてきた者は大人になっても親を敬いますが、そうでない者は親に苦痛を与える場合が多いです。神が目に見えないために、多くの人がその方をすぐに無視しますが、私たちは神が霊でおられるということを知っているために、霊によって神に仕えなければなりません。霊によって神に仕えるときにだけ、神はイエスを指して「私はこれを喜ぶ!」といわれたように、私たちを喜ばれます。
イエス・キリストは私たちに仕えるために来られた方です。その方は「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)といわれました。その方は私たちに仕えるために自分の命まで差し出されました。それゆえ、私たちはその方の奉仕を積極的に受け入れなければなりません。その方が血によって私たちの罪の価を払ってくださったので、私たちはその血の功労を受けなければなりませんし、その方が御言葉によって私たちを永遠に生かしてくださるので、私たちは御言葉を受け入れなければなりません。また、その方が聖霊を遣わしてくださったので、私たちは聖霊に満たされなければなりません。
このようにイエス・キリストの奉仕を受け入れた者だけが霊によって神に仕えることができます。霊によって神に仕えることができない者は情欲によって仕えるしかありませんが、その結果は神の怒りを招くだけです。これについてローマ人への手紙8章5~8節は「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」といいました。
理性や感情に頼るというのは肉の欲に従うということです。それゆえ、理性や感情を基準として神がなさることを判断するのであれば、深刻な霊的な堕落に陥ります。教会を通して神を知る前に、私たちはイエスの尊い血も、聖霊の力も、神に仕える方法も知りませんでした。教会に来て私たちが学んだものの中で本来、人の理性や感情に合致するものはありません。しかし、今になって自分の考えや感情に合わないという理由によって教会で進められることをむやみに非難して不満を現すのであれば、それは霊的な奉仕とはかけ離れています。
互いに愛し合いなさいという主の御言葉も霊によって受けないのであれば、妨げになることもあります。愛は行いとまことによってするものであって、言葉や舌によってするものではありません。言葉によって愛を強調したからといって、教会に愛がさらに豊かになるわけではありません。むしろ愛しなさいと強調するほどさらに多くの問題が生じることもあります。重要なのはまず神の愛を深く知ることです。神の愛を深く知ってこそ神を愛するようになりますし、神を愛するようになってこそ隣人を愛することができます。
ある人は教会に愛がないといいながらも自分は他の人の過ちを暴き出すのに忙しいです。イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)といわれました。最高の愛は他の人のために自分の命を差し出すことですが、それは人の弱点を代わりに担う行為です。教会の中であちこち歩き回って不満を言いながら分派を引き起こすのはそのような愛とはかけ離れています。
教会は自分に必要なものを満たすところであるとだけ認識するのであれば、教会生活をしながら続けて不満をもつようになるしかありません。霊的な聖徒であれば、教会に出て来て霊によって神を喜ばせようとする姿勢をもたなければなりません。肉体の感情を先立たせるのであれば、どんなに熱心に教会生活をしたとしても結局は神の敵となるしかありません。それゆえ、情欲を先立たせないで、自分の霊魂がキリストに満たされなければなりません。
神だけを頼ろう
イエスは「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ18:3)といわれました。子どもは「母親がいなければ、自分は生きることができない。」ということを知っています。3、4歳の子どもに「母親なしに生きることができるのか?」と尋ねてみてください。首を横に振るでしょう。もう一度、尋ねてみてください。続けて首を横に振るでしょう。続けて尋ねてみてください。最後には泣き出しながら母親のところに走って行くでしょう。母親がそばにいないのであれば、子どもは食べ物やおもちゃが与えられたとしてもそれらに見向きもしません。子どもは母親がいてこそ自分が生きることができるということをはっきりと知っています。
子どもが母親なしに生きることができないというのは母親もよく知っています。夫と離婚する女性がこれから経済的に深刻な危機に直面するのをはっきりと知っていながらも自分が子どもを養育すると主張するのはそのような理由が大きく作用するためです。これと同じように、神は私たちが神なしに生きることができないということをよく知っておられます。霊的な人であれば、そのような神の御前で「私は神なしに生きることができません。」と認めなければなりません。
神は私たちを生かして永遠のいのちを与えることができる唯一の方でおられます。それでは、誰がそのようになさったのでしょうか? イエス・キリストです。多くの人は衣食住が自分の生涯を保証すると考えますが、それらは実際に私たちを生かすことができません。多くの人が頼っている偶像も同じです。木や石によって造られた偶像は倒れたとしても自ら立ち上がることさえもできません。そのような偶像がどのようにして私たちを生かすことができるのでしょうか? ただイエス・キリストだけが私たちを生かすことができる唯一の方、すなわち神でおられます。
霊によって神に仕える者は献金も予め心を尽くして準備します。神の御前で惜しむ姿を見せることなく、喜んで献金をします。経済的に苦しい立場にあったとしても神の恵みに感謝する心をもって一週間、最善を尽くして献金を準備します。神はそのような人を覚えられます(Ⅱコリント 9:5~7)。
霊によって神に仕える者は高ぶることがありません。ある人は「私はこの世で特別な扱いを受ける者であるが、教会ではそのように扱ってくれない。私よりも貧しくて無知な者が長老であるという理由によって前の席に座っている。」と不満を吐露します。そのような者は教会で奉仕をしませんし、些少な理由によって教会を離れます。しかし、そのような者はどこに行っても完全な信仰生活をすることができません。このように残念なことが発生するのは彼らが霊によって神に仕えないで肉体の感情に従うためです。
イエスがご覧になるのは知識や財産の分量ではありません。イエス自身も慕うような姿もない方でおられました。人々はその方がナザレ人であるという理由だけでその方を無視しました。肉体としてはその方から慕うようなものを探すことができませんでした。ただ霊によってその方を見る者だけがその方が神の御子でおられるということ、ただその方だけが私たちを神に導かれるということを発見することができます。
霊的な者になろう
霊的なものについて無知な者となってはいけません。コリント人への手紙第一12章1節は「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」といいました。霊的な者となるためにはどのようにしなければならないのでしょうか? 3節は「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」といいました。霊的な者となるためには聖霊の助けを受けなければなりません。聖霊によって生きる者だけが霊的な働きを担うことができます。
聖霊によって生きる者は自分を聖く区別します。普段はこの世の人々と混じって生活しますが、主日には彼らと異なり、教会に出て来て神に礼拝をささげ、聖徒との交わりをもちます。聖徒との交わりはこの世の交わりと異なります。聖徒は率先して他の人に仕えます。礼拝を英語でサービス(service)といいます。それが物語っているように、礼拝は神に仕え、聖徒に仕えるものです。礼拝が終わってすぐに逃げるかのように教会を離れようとしないで、礼拝ののちに進められる教会の働きのために自分にできることを探してください。誰かにいわれなかったとしても自ら志願する心をもって自分にできることを探さなければなりません。
礼拝堂の掃除も聖徒がすることができる貴い奉仕です。以前、聖楽教会に最高裁の判事がいました。彼は社会で非常に尊敬を受けていましたが、教会で権威を立てることなく、礼拝堂の床に落ちていたゴミをよく拾い集めたりしました。そのように謙遜に自分を低くめたところ、彼はのちに最高裁の判事にまでなりました。ヤコブの手紙4章10節は「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」といいました。教会で人々が嫌がることを見つけたときに、それを他の人に押しつけないで、率先して担う姿勢をもたなければなりません。
伝道も霊によってしなければなりません。自分の性格に縛られたり体面を先立たせたりしてはいけません。断られるのを恐れないで、大胆に福音を伝えてください。病人を発見したのであれば、大胆にイエス・キリストの名によって手を置いてください。イエス・キリストは十字架につけられて死なれましたが、神はその方を再び生かされました。その方は天に上って私たちに聖霊を遣わしてくださいました。それゆえ、イエス・キリストがよみがえって天に上られたという事実を、私たちは聖霊によってはっきりと知ります。
イエス・キリストは今、聖霊によって私たちの中におられます。それゆえ、私たちの中で聖霊が働かれるようにしなければなりません。聖霊によって私たちの中から霊感や愛、御言葉、力が出て来るようにしなければなりません。ペテロは神殿の美しの門で足のなえた者に会ったときに、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」といって彼の手を取って立たせました。イエス・キリストの名は聖霊によって私たちの中に臨みました。ペテロがもったイエス・キリストの名は今、私たちの中にもあります。それゆえ、私たちにも足のなえた者を立たせる力があります。大胆にその力を使ってください。よみがえったイエス・キリストが聖霊によって私たちの中で思い通りに働かれるようにしなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室