私にあるもの
(使徒の働き3:1~10)
神は
全能な方でおられる
その方が
御言葉としてこの世に来られた(ヨハネ1:14)
御言葉が肉体となって十字架で死なれた
そして、
3日目に生き返って、
聖霊によって私たちの中によみがえられた(ヨハネ14:20)
イエスの名があるところは
その方がよみがえられたところである(使徒9:5)
その方の義がよみがえったのであり、(ヨハネ16:10)
そのいのちがよみがえったのである
聖霊を迎え入れた者は
イエスの名に満ちている者である(ヨハネ15:26~27)
金と銀がなかったとしても
イエスの名があるのならば、霊的である(使徒3:6)
霊的でない者は
イエス・キリストを知ることができない(Ⅰコリント12:3)
私たちはただ
イエスの名に満ちていなければならない
満ちていてこそ力がある(マルコ16:17~20)
○ イエスの名をもつ者は
聖霊に満ちている
聖霊によってその名を現さなければならない
○ イエスの名をもつ者は
赦さなければならない
救霊の心霊に満ちていなければならない
○ イエスの名をもつ者は
権勢をもつために、
イエスの名を供給することができなければならない
※ 私たちにあるものは何であろうか
イエスの名であろうか、自分の名誉であろうか
イエスの名をもって地の果てにまで至ろう
私にあるもの (使徒の働き3:1~10)
イエス・キリストを生かされた、全能なる神
神は全能な方でおられます。永遠の前から永遠に自らおられる方の力には限界がありません。その方は極めて小さな微生物から大きくて広い宇宙まで、また、目に見えるものから目に見えない霊的な存在まですべてを造られましたし、今もつかんでおられます。
地球が造られたときからこれまでこの地にとどまった人は数え切れないほど多いです。その霊魂をすべて生かすことができる方は神でおられます。人の権利が他の人を生かすのはむずかしいですし、国の最高権威者も死んだ者を生かすことができません。しかし、神は私たちを生かすことも、飲ませることも、何かを所有させることも、幸せにすることもできます。神にはそのような力がいくらでもあります。
多くの人が「神は全能でおられる。」といいますが、実際には神を認めません。神を認めない者が大声で神を呼んだとしても、何の意味があるでしょうか? 「『これを食べれば、満腹になる』ということを信じます。」と叫んだとしても、食べ物を目で見ているだけでは満腹にはなりません。私たちは神が生きておられること、全能でおられることを認め、その方がしようとされるすべてのことを認めなければなりません。
全能なる神が私たちに約束されたことがあります。それは復活です。人は生まれれば、いつかは必ず死ぬようになっています。そして、一度、死んだのであれば、再びこの世に帰ってくることができません。私たちよりも先に生きた人々の経験を通して、私たちはこの事実をはっきりと知ります。しかし、イエス・キリストは死んだ者の中からよみがえられました。もちろん死んでから1、2日の間に生き返る者がときには存在します。しかし、彼らも結局は自分の寿命を超えることができないで死にます。その一方で、イエス・キリストは今も生きておられます。
イエス・キリストは天におられます。信じる者が今も聖霊を受けるのは天におられるその方が父に求めて聖霊を遣わされるためです。これはその方がこの地にいたときに弟子たちに「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)といわれた通りに成就されることです。将来、その方はこの世に再び来て神の敵を滅ぼし、私たちを神がおられるところに連れて行かれます。
イエス・キリストの復活を信じない者は信仰がない者です。そのような者はたとえこの地にいる間に教会生活をしたとしても、その努力はすべて無駄なものとして現れてしまいます。コリント人への手紙第一15章15節は「それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」といいました。信仰は私たちを復活させる偉大な力です。
御名を与えてひとつに
信仰の実状を理解することにおいて最も重要なのが神の御名、すなわちイエスの名です。ヨハネの福音書17章11~12節は「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」といいました。イエスの名は父なる神が御子に与えられた御名です。イエスはその御名を私たちにも与えて、父なる神と御子と私たちがひとつになることを願われましたし、それこそ聖書の御言葉が成就されることであるといわれました。
人々はイエスにその方の国と力と栄光があるのを見て驚きました。イエスは「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」(マタイ6:13)といわれましたし、それらがすべて父のものであると強調されました。人々がイエスから発見した国と力と栄光は本来、父のものです。父はそれらを御子に与えられました。しかし、今はそれらが私たちにも許されたのです。それゆえ、マタイの福音書25章34節は「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」といいました。
果たしてみなさんは神の国と力と栄光を相続するという期待をもっているでしょうか? ローマ人への手紙8章17節は「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」といいました。神の国と力と栄光を貴く考えるのであれば、この地にいる間、それを証明しなければなりません。果たして自分にそれを担うことができる心や知恵、望み、忍耐があるのかを明らかにしなければなりません。最後まで耐え、それを証明する者が救いを受けます(マタイ24:13)。
父が国と力と栄光を御子に与えられましたが、その方法は父の御名を与えることでした。マタイの福音書28章18節は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」といいました。御子は父の御名を通して父から国と力と栄光を相続されました。そして、その御名を通してそれらを私たちに与えてくださいました。これについて19~20節は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」といいました。
私たちはイエスの名を受けた者です。その御名は本来、父なる神の御名ですが、父はその御名を御子に与えて、御子に国と力と栄光を所有させましたし、御子はその御名を私たちに与えて、私たちに神の国と力と栄光を所有させました。要するに、父なる神と御子がひとつですが、私たちもイエスの名を所有することによって父のように、また、御子のようになったのです。
ひとつになったので、心も一致してこそ
イエスの名を相続した御子は父の心を知って、それをそのまま私たちに伝えられました。また、その方は父が計画された働きを知って、それをそのまま行われましたし、そのために自分の命まで差し出されました。今、イエスの名が私たちに与えられたので、私たちも父と計画や心、考え、望みを同じくしなければなりません。父と御子がひとつであるように、私たちもひとつにならなければなりません。これは父と御子が共有される栄光を私たちにも享受させようという父なる神の御心です。
農夫は春に種をまき、夏の間にあらゆる苦労をしながら育てますが、それは秋に自分の心にかなった穀物を得るためです。そのためには農夫を助けて働く者の心も農夫のそれと同じでなければなりません。どんなに心を込めて働いたとしても、最後には脱穀場で麦と殻が分けられます。マタイの福音書3章12節は「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殼を消えない火で焼き尽くされます。」といいました。箕をもつ農夫の心にかなった穀物とそうではない殻は分けられるようになり、それらはまったく異なった結末を迎えるようになります。
教会はさまざまな人によって構成されています。彼らは礼拝堂でともに礼拝をささげ、ともに祈り、ともに献金をささげます。しかし、将来、箕をふるうと、ある人は穀物として現れますし、ある人は殻として現れます。果たしてみなさんは箕をふるうことに耐えることができるでしょうか? 10人の娘が花婿を出迎えましたが 、最終的に5人の娘だけが婚礼の祝宴に入って行き、残りの5人は入って行くことができませんでした。私たちはそのような主の警告を覚えなければなりません(マタイ25:1~13)。
私たちを恐れさせる御言葉があります。ヘブル人への手紙10章26~27節は「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」といいました。イエス・キリストを知らなかったときにもっていた思想に固執しながら神から預けられた職分に背くのであれば、ことさらに罪を犯すことになります。ことさらに犯す罪はとても恐ろしいです。その罪を贖うためにはイエスが再び十字架で死ななければなりませんが、そのようなことは決してありません。律法を犯したとしても赦しを受けることができますし、イエスを殺した者にも罪の赦しの機会があります。しかし、神の御名を蔑視する罪を解決する方法はありません。十戒の第三戒も「神の御名をみだりに唱えてはいけない。」といいました(出20:7)。
農夫の心と働き手の苦労、穀物の状態が一致しなければならないように、父なる神、私たちを救ってくださったイエス・キリスト、救いを受けて神に仕える私たちはその心や立場、思想が一致しなければなりません。それによって聖書が成就されなければなりません。「あなたが私に下さっているあなたの御名の中に彼らを保ってください。それは私たちと同様に、彼らがひとつとなるためです。」というイエス・キリストの祈りが成就しなければなりません。
その御名によって印を押し、保証として聖霊を
イエスの名が私たちの中に臨んだというのは私たちの中に国と力と栄光が臨んだということを意味します。それゆえ、ヨハネの福音書1章12節は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」といいました。その御名はスクリーンに投影される映像のように私たちに臨むのではなく、獣の皮に押される焼き印のように私たちに臨むのです。獣の所有者が所有権を表示するために獣の皮に焼き印を押すと、皮自体がなくならない限り焼き印の跡はなくなることがありません。これと同じように、神はイエスの名によって私たちに印を押し、それを保証するために聖霊を遣わされました。これについてコリント人への手紙第二1章22節は「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」といいました。
聖霊を受けたというのは神の御名によって印を押されたという事実についての保証を受けたということです。それにもかかわらず、教会に通う者の多くが聖霊を受けることができていませんし、宗教的な生活をしたのちに教会を離れてしまいます。また、聖霊を受けたとしても保証書を破り捨ててしまうように聖霊を無視する者もいます。これは非常に危険なことです。聖霊に逆らう罪は赦しを受けることができないためです(マタイ12:31)。
ヨハネの手紙第一5章5~7節は「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と 信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。 ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」といいました。神の御名が私たちの中に臨んだのであれば、その事実について必ず聖霊の保証を受けなければなりません。その御名が私たちの中にあるという事実について永遠な確信をもって、その御名を貴く考えなければなりません。
人が最も貴く考えるものが何でしょうか? 凶器を突きつけられて脅迫されるのであれば、ほとんどの人はもっているものをすべて与え、命だけは生かしてくださいと哀願するでしょう。良い家や自動車、そして、それを買うことができるお金、それらはいつでも人から離れます。人がこの地に生まれる瞬間からこの世を離れる最後の瞬間まで所有することができる唯一のものは命です。それゆえ、私たちが「私にあるもの」ということができる唯一のものがあるのならば、それは命です。
ペテロとヨハネが宮に上って行ったときに、足のなえた人が施しを求めました。そのとき、ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」といいました。ペテロが「私にあるもの」ということができるものは自分の命だけでした。彼が足のなえた人にイエスの名によって歩きなさいといったのは足のなえた人に自分がもっていた唯一のもの、すなわち自分の命を与えたのと同じでした。
ある人は「足のなえた人のためにイエスの名によって祈ったが、しるしが現れない。」といいます。それならば、自分が果たしてイエスの名を自分の命のように考えているのか、診断してみなければなりません。イエスの名が私たちの中に入って来て、その事実についての保証として聖霊が臨まれたのであれば、イエスの名と私たちの命はひとつです。イエスの名を命のように考えるどころか、むしろ自分の命のためにイエスの名を利用しようとするのであれば、そのような人に何のしるしが伴うでしょうか?
私たちがこの地で享受する富や名誉は一瞬にして消えることもあります。イエスの名を命のように考えない者はそのような状況でそれ以上、その御名に仕えることができないでしょう。しかし、私たちは命が残っている限り、イエスの名に仕えます。イエスの名によって印を押された者、聖霊の保証を受けた者、神の御名を命のように考える者の信仰や望みは誰も奪うことができません。むしろすべてを失って命だけが残っている状況で、その人の信仰はさらに輝きます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室