主イエスを信じなさい
(ヨハネの福音書 14:1~14)
神は
霊でおられる
その方が
自分のかたち、すなわち本体のかたちを見せられた(Ⅱコリント4:4)
御言葉が肉体となって来られた(ヨハネ1:14)
イエスである
それゆえ、
イエスを見た者は誰も見ることができない
父なる神を見たのである(ヨハネ1:18)
イエスは語られた
・「私は道である」(ヨハネ14:6)
その方が導かれる通りに険しい道であったとしても行かなければならない
・「私は真理である」
その方が語られる御言葉をすべて信じなければならない
・「私はいのちである」
その方だけが唯一なる救い主であるということを知らなければならない
霊的な生活は
さまよってはいけない(Ⅰコリント2:13~14)
ただひとつの道のような神本主義信仰である
神を愛する者は
兄弟の霊魂もそのように愛する
〇 あの天に入って行くことを願うであろうか
主を信じてその御心通りに生きよう
これが望みである
○ イエスを信じる者は
この世でも
神を知ってその方の働きをする
○ 祈りを届けてこそまことの信仰である
そのとき、神は栄光を受けられるし、
主イエスは働かれる
※ 私たちは肉体にとどまらないで、
霊的なところにとどまりながら
神に栄光を帰そう
主イエスを信じなさい (ヨハネの福音書 14:1~14)
小説を書いてはいけない
神は霊でおられます。それゆえ、誰も神を見ることができません。旧約時代の預言者たちは神の御心を部分的に知ってそれを伝えましたが、彼らも神を見たことはありませんでした。ただ神のひとり子だけが神を見ました(ヨハネ1:18)。それゆえ、ひとり子の御言葉を聞かないのであれば、誰も神を知ることができません。
多くの人が信仰生活をしながらも暗やみをさまようように混乱しています。神が目に見えないためです。このような状況で、イエスは 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)といわれました。イエスは人としてこの世に来られました。その方は他の人と同じように母の胎から生まれ、食べ物を摂取し、成長し、悲しいことを経験し、最後には殺されて墓に入られました。「イエスは神の御子でおられるために、その生涯は他の人のそれとはまったく異なっていたであろう。」と考えるのであれば、これは大きな誤解です。
私たちがイエスとひとつになることができるのはその方が人でおられるためです。人と獣がひとつになることはできません。獣がどのようにして人と考えや知識、感情を共有することができるでしょうか? イエスは人となって私たちとすべてのものを共有されました。私たちの信仰は目に見えない父なる神を自分勝手に想像しながらさまようものではなく、人としてこの地に来られたイエスを通して父なる神を知ってその方に仕えるものです。
韓国では自分勝手に想像して思い込みで行動するときに、よく「小説を書いている!」といったりします。小説はフィクション文学です。小説の内容がどんなに真実のようであったとしてもそれは事実ではありません。小説の登場人物も実在の人物ではなく、小説家によって作られた仮想の存在です。問題は信仰生活をしているという者が神について小説を書いているという点です。口では神を信じるといいますが、彼らが信じる神は想像力や哲学によって作り出された神です。そのような人の信仰生活はどんなに敬虔に見えたとしてもフィクションに過ぎません。
私たちが「神を信じ、また、私を信じなさい!」というイエスの御言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。神について小説を書かないためには人でおられるイエスに接するときに、霊でおられる神に接する信仰を使わなければなりません。イエスはこの地で目に見えない霊として活動しないで、肉体をもった人として生活されました。その方は母の胎から生まれるときから墓に葬られるときまで人生で経験するすべてのことを経験されました。私たちはそのようなイエスを通して神を知ろうとしなければならないのであって、盲人が暗やみをさまようように神を探そうとしてはいけません。
神がイエスを死んだ者の中から生かされたのちにも、イエスは体をもった人でおられます。その方がよみがえって天に入って行ったからといって、その体が天のように大きくなったわけではありません。その方は殺されたその体をもってよみがえられましたし、その体をもって天に入って行かれましたし、再び来るときにもその体をもって来られます。イエスが神の御子でおられるという事実を強調するためにイエスの姿を無理やりに誇張して小説を書いてはいけません。主観的な想像力を動員してイエスについて小説を書く者の信仰はいつでも倒れることがあります。特に「祈っているときに、神はこのようにいわれました。」と誇張する習慣をもった者はこのような面でさらに注意しなければなりません。
国と力と栄光がその御名によって私たちに
ヨハネの福音書17章11~12節は「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」といいました。ヨハネの福音書17章にはイエスが父なる神に祈り求められた内容が記録されていますが、その中で11~12節には旧約聖書の預言が全体的に示したことが暗示されています。
多くの人が「私たちのように、彼らをひとつとしてください!」という御言葉を「私たちのように彼らも争うことなく仲良く過ごすようにしてください!」という意味として誤解します。十分な霊感がないのであれば、そのように理解するのが自然です。この御言葉を理解するためにはまず父なる神と御子の関係を知らなければなりません。父なる神は天よりも大きな方でおられますし、御子は人としてこの世に来た方でおられます。天よりも大きな方と人がどのようにしてひとつになることができるでしょうか?
イエスが「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」(マタイ6:13)といわれたように、国と力と栄光は本来、父なる神のものです。ところが、父はそれらを御子に与えられました。これについてマタイの福音書28章18節は「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」といいました。国家が誰かに大統領の権威を付与するのであれば、その人はそのときから強大な権力を使うことができます。これと同じように、父なる神が国と力と栄光を御子に与えられたために、万物を治める権限が御子に与えられました。
また、御子は自分を信じて従う聖徒にそれらをすべて与えられました。マタイの福音書28章19節は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」といいました。イエスは罪を赦す権威をはじめとして父なる神から受けた権威を、自分と結びついた者に与えられたのです。それゆえ、ローマ人への手紙8章17節は「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」といいました。
今日、私たちが悪霊を追い出すことができるのは私たちの中に神の国と力と栄光が臨んだためです。これについてマタイの福音書12章28節は「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」といいました。空中の権威をもつ支配者とそれに属する神々が私たちに屈服するのは私たちにある権威が彼らがもっている権威よりも大きいためです。ハデスの権威が教会に勝利することができないのも教会がこのように大きな天の権威を所有しているためです(マタイ16:18)。
その御名によって求めなさい
ヨハネの福音書14章12~14節は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。 わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」といいました。この御言葉は小説の内容ではなく、生きておられる神の約束です。父なる神と御子がひとつであるように、私たちもひとつになるのであれば、私たちもイエスがなさったことだけでなく、さらに大きなこともすることができるというのです。
この御言葉の中で私たちが特に注意しなければならないのは「父が子によって栄光をお受けになるためです。」という部分です。私たちが神に求めるときにまず先に求めなければならないのは父なる神の栄光です。残念なのは今日、多くの人が神に祈りながらも「神よ。どうしてこのようにしてくださらないのですか?」といって神をしもべのように扱おうとするという点です。これは「神よ。私の願い通りに与えてください! 私の思いをかなえてください!」といって神を自分の思い通りにしようとするのと同じです。多くの人が祈りながらも実際に応答を受けることができない理由がここにあります。
私たちがはっきりと知らなければならないのは果たして誰が誰から学ばなければならないのか、誰が誰に似なければならないのかということです。イエスは「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 」(マタイ11:29)といわれました。牛2頭がともにくびきをかけるときには2頭が調和をなさなければならないのであって、ともに相手を無視してはいけません。これと同じように、聖徒はイエスを無視しないで、イエスから学ばなければなりません。聖徒という言葉には「聖なる学生」という意味がありますが、その意味通りに私たちは再び来られるイエス・キリストに会う瞬間まで、絶えずイエスから学ばなければなりません。イエスが「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)といわれたように、聖霊を通してイエスから学ばなければなりません。
私たちがイエスの名によって何かを求めるのであれば、父なる神が栄光を受けられます(ヨハネ14:13)。イエスの名は私たちの中にあるいのちの名です。弟子たちは美しの門から宮に入るときに、施しを求めてきた足のなえた男に会いました。そのとき、ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」といいました(使3:6)。人が「私にあるもの」ということができるのはいのちしかありません。他のすべてのものはなかったのちに生じることもありますし、存在したのちになくなることもあります。しかし、最初から最後まであるのはいのちだけです。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙22:13)という御言葉はそのような視点から「私はいのちである。」という意味として理解することができます。私たちが「私にあるもの」ということができるのは最初から最後まで私たちにあるいのちだけですが、私たちにあるいのちの名がイエスです。
それゆえ、イエスの名によって祈りなさいというのはいのちによって祈りなさいというのと同じです。神にささげる私たちの祈りはいつもいのちを尽くしてささげる祈りでなければなりません。他の人がブランド品の時計をはめているのを見てうらやましがり、「神よ。私にもブランド品の時計をひとつください。」と求めるのであれば、それはいのちを差し出す祈りではありません。「なされればいいし、なされなければ仕方がない。」というような祈りに神が果たして耳を傾けられるでしょうか?
長い間、祈りの応答を受けることができていないながらもただ宗教心に頼って教会生活を維持する者も多いです。彼らの信仰が小説ではないと誰が保証することができるでしょうか? 応答を期待していない彼らの祈りに何の意味があるでしょうか? ヤコブの手紙4章3節は「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 」といいました。その一方で、神の意図を知る者には祈りに大胆さがあります。ヨハネの手紙第一5章14~15節は「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」といいました。
イエスの名によって祈るというのは願うことを列挙したのちに「イエスの名によって祈ります!」という言葉を付け加えるということではありません。イエスの名は私たちのすべてであり、私たちのいのちです。神にささげる私たちの要求にいのちのような価値がなければなりません。私たちがそのような祈りをささげるときに、私たちの中にイエス・キリストの名があるということを聖霊が保証してくださるのです。いのちをささげるような私たちの祈りによって父なる神が栄光を受けられるのであれば、イエスは私たちが願うことを行ってくださいます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室