あなたの罪は赦された
(マタイの福音書9:1~8)
神は
完全でおられる
その方が
御言葉を遣わされたのは
その御言葉によって信じる者を完全にするためであった(ローマ12:1~2)
律法と預言者はキリストを迎えに来た者であって、
御言葉ではない
イエスはキリストであり、
神の御言葉でおられる(ヨハネ1:1)
イエスが語られた御言葉は
神の御言葉である(ヨハネ12:48~50)
神の御言葉はそのまま信じて従わなければならない
イエスが「罪が赦された」といわれるのであれば、罪の赦しを受けたのである
イエスが命じられるのであれば、
それは神の命令である
イエスが「寝床をたたんで歩きなさい」といわれるのであれば、
従わなければならない
疑うのはそれを
神の御言葉と信じないためである
神の御言葉として受けない者にはいのちがない
イエスの御言葉に従わない者には力がない(ルカ1:37)
◌聖霊によってその御言葉を悟って、
罪の赦しを受け入れなさい
イエスが罪を贖われたので、信じなさい
◌「あなたの病気は癒された」といわれたのであれば、
従って立ち上がろう
イエスを信じるというのは従うということである
◌イエスは罪から救うために血を流されたし、
病気から救うためにむち打たれた
イエスは私たちの救いでおられる
※ 律法は死と罪をもたらすが、
イエスはいのちと自由をもたらされる
イエスは真理であり、いのちでおられる
あなたの罪は赦された (マタイの福音書9:1~8)
神は完全無欠な方でおられます。それゆえ、その方が救ったのであれば、その救いは永遠で完全です。多くの人が信仰生活をしながらも自分が救いを受けたという事実を確信することができていません。これは救いについて正しい理解をもつことができていないためです。
人類の霊はアダムの堕落によって死にました。それゆえ、地獄で永遠な刑罰を受けるしかありませんでした。神は死んだ人類の霊を生かすために自分の御子を遣わされました。人類を霊的な死に至らせたアダムの罪を原罪といいますが、この原罪は全能でおられる神であったとしてもただ赦しによって解決することができるものではありませんでした。原罪を解決するためには必ずその代価が払われなければなりませんでした。神の御子が十字架で死なれたというのは人類のために代価を払われたということです。
最初の人アダムの罪を贖うために最後のアダムであるイエスが死なれましたし、それによって最初の人アダムの霊が生きるようになりました。このように死んだ私たちの霊が生き返ったということを信じて体験するのがバプテスマです。バプテスマは水の中に入って行ったのちに出て来るという具体的な行為を通して「私たちは原罪によって死んでいた古い人を葬り、イエス・キリストの復活に結びついた新しい人となった。」ということを体験するものです。私たちの霊が生きたというのは観念ではなく、実状です。これを聖霊が証しされます。
聖霊は律法の下にいる者に臨まれたことがありません。肉体に関する規定である律法は人の体を聖くすることはできたとしても、人の霊を生かすことはできません。律法の下にいる者は一年に一度、訪れる大贖罪日を守らなければなりませんでした。その日には大祭司が罪のためのいけにえの血をもって至聖所に入って行き、贖いのふたに血を注ぐことによって民全体の罪を贖いました。それは将来、なされることについてのたとえでしたが、私たちはその実状を見ました。イエス・キリストが十字架で死んでよみがえり、天に上られたためです。私たちはバプテスマを通してイエスの尊い血を体験した者です。もう一度言うと、霊が生きた者です。私たちは聖霊が保証してくださるこのはっきりとした事実について少しも疑ってはいけません。
それにもかかわらず、人々が混乱を感じるのは霊が生き返ったのちにも続けて罪を犯すためです。人々は罪を犯さないと決心しながらも、続けて罪を犯しながら自責の念に陥ります。そのようなときによく口にする言葉は「私はイエスを再び十字架につけた!」です。しかし、それは事実ではありません。イエスの十字架の苦難は決して再演されません。バプテスマも一度、受けたのであれば、再び受ける必要がありません。私たちが肉体の属性によって罪を犯したとしても、私たちの霊が生きたという事実は決して変わることがありません。今、私たちに必要なのは贖いではなく、主の赦しです。
願わなかったとしても、私たちは絶えず罪を犯します。主は軽はずみな言葉で人を無視するのも深刻な罪であると考えられました(マタイ5:22)。また、主は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)といったように人の心まで判断されます。このように人は心によっても罪を犯しますし、行為によっても罪を犯します。前者を品性罪、本罪といいますし、後者を自犯罪といいます。
私たちが心や肉体によって罪を犯したときに必要なのは主の赦しを受けることです。どんなに同じ過ちを繰り返したとしても、赦しを受けることをためらってはいけません。主は私たちに「罪を犯した者がいるのならば、7度を70倍にするまでその人を赦しなさい。」といわれました(マタイ18:22)。その方が私たちに教えてくださった祈りの中に「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6:12)という内容があります。主は私たちが他の人の罪を限りなく赦すことを願われるだけでなく、私たちも限りなく主の赦しを受けることを願われるのです。
イエスが再び血を流さなかったとしても私たちの罪を限りなく赦すことができるのはそれがその方の権勢であるためです。人々が中風の人を床に寝かせたままで運んで来ました。主は中風の人に向かって「子よ。しっかりしなさい! あなたの罪は赦された!」といわれました。その光景を見た律法学者たちは「この人は神を汚している! 罪を赦すことができるのはただ神だけであるのに、あの人はどうして自分が罪を赦すというのか?」と考えました。これに対してイエスは「『あなたの罪は赦された。』というのと、『起きて歩け。』というのとどちらがやさしいのか?」といわれました(マタイ 9:1~8)。
主がどんなに中風の人に寝床をたたんで帰りなさいと命じられたとしても、その人が罪の赦しを受けることができないのであれば、決してそのようにすることはできません。反対に、罪の赦しを受けるのであれば、病気がどんなに重かったとしても寝床をたたんで起きることができます。個人の罪によって病気にかかったときにその病気から脱け出すためにはまずその罪に対して赦しを受けなければなりません。罪と病気はひとつです。罪の赦しを受けるのであれば、病気は治るようになっています。
ある人は「これからは熱心に教会生活をしようと思う。何年か誠を尽くすのであれば、病気が治るだろう。」といいます。このような考えは完全な信仰から出て来たものではありません。中風の人がイエスの御言葉を聞いてすぐに寝床をたたんで起きたという事実を覚えてください。罪の赦しを受けるのは長い時間を要するわけではありません。病気の癒しを受けるのも同じです。長い間、修養を積んだり誠を尽くしたりしてこそ問題が解決するという考えは不信者ももっています。もしキリスト者がそのような考えをもっているのであれば、これは依然として宗教人の習性を脱け出すことができていないのです。
私は多くの伝道集会を導きながら、その日に初めて福音を聞いた者がその場で病気の癒しを受けたのを無数に目撃しました。信仰があるという者が病気に苦しめられながらなかなか癒しを受けることができないのはその分だけ主の権勢を信じていないという証拠です。病気の癒しを受けようとするのであれば、何よりも「主が私の罪を赦された!」という信仰をもたなければなりません。
イエスが中風の人に「あなたの罪は赦された!」といわれたのは原罪についていわれたのではありません。原罪はイエスが十字架につけられて死ぬことによって初めて贖われましたし、それ以前に贖われた者は誰もいませんでした。しかし、個人の罪が赦されたことは律法の下でもありました。それゆえ、律法の下でも病気の癒しを受けた者はいました。しかし、それはただ肉体が助けを受けたのであって、霊は依然として死んでいました。
イエスがまだ十字架で死んでいなかったにもかかわらず「あなたの罪は赦された!」といわれたのはその方が権勢を用いられたのです。律法学者たちが「この人は神を汚している。」と考えたのもイエスが神の権勢を犯したと考えたためですし、その当時、現場にいた人々が神をあがめたのもイエスから権勢を見たためです。これについてマタイの福音書9章8節は「群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」といいました。
救いを受けたとしても個人の罪によって病気にかかることがあります。「あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)という主の御言葉もこれを証明しています。このように個人の罪過によって病気にかかったのであれば、まずしなければならないのは赦しを受けることです。罪を赦す主の権勢を疑う必要がありません。ヨハネの手紙第一2章1節は「私の子どもたち。私がこれらのことを、書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちは、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」といいました。
主は十字架で血を流すことによって人類の原罪を贖われただけでなく、個人の自犯罪を赦す権勢をもっておられます。これは大統領が自分の権勢をもって罪人を赦免するのと同じです。法廷で有罪判決を受けた者が刑罰を受けるのは当然なことですが、大統領は死刑囚であっても自分がもつ権勢によってその人を自由にすることができます。
ある人は「あの人は罪を多く犯したのに、どうして教会で用いられているのですか?」と不満を言います。人の考えによるのであれば、罪を多く犯した者は当然、それにふさわしい代価を払わなければなりません。しかし、そのような人にも赦しを施すのが神の右の座におられる主の権勢です。主は求める者にいくらでも赦しを施されますし、また、その人を聖霊によって立たせます。
私たちは限りなく罪の赦しを受けなければなりません。これは再び悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさいという意味ではなく、毎日、自分を聖くしなければならないという意味です。そのようにしてこそ肉体も健康になりますし、霊魂も持続的によくなります。主は罪を赦す権勢をもっておられるために、その方が私たちに聖いといわれるのであれば、私たちは聖いですし、「あなたの罪は赦された!」といわれるのであれば、私たちは罪の赦しを受けたのです。
残念なのは多くの人が信仰があるといいながらも続けて「私はあまりにも罪が多いので、そのようにやさしく赦しを受けることができません!」という考えから脱け出すことができていないという点です。彼らは罪を赦す主の権勢よりも自分の罪を大きく見ているのです。主の権勢を無視しないでください。十字架につけられた強盗であっても主の赦しを受けてパラダイスに至るようになったということを覚えてください。
どんなに人格を磨き、修養を積んだとしても、主が「あなたの罪は赦された!」といわれないのであれば、その人は決して聖くなることができません。主がその権勢を私たちに使ってくださることを慕い求めなければなりません。私たちの罪を贖うために自分の血まで流してくださった方が自分の権勢によって赦すことができる罪をどうして放置されるでしょうか? 一度、主が罪を赦す権勢を使われるのであれば、私たちはすぐに病気や呪いから自由を得ることができます。それゆえ、病気や呪いをそれ以上、つかんでいないで、主の権勢を認めましょう!
律法がどんなに「お前は罪人だ!」と罪に定めたとしても、悪魔がどんなに「お前のような者は必ず滅びなければならない!」とささやいたとしても、絶対にだまされてはいけません。主の権勢は律法による罪の定めよりも大きいですし、悪魔の惑わしよりも強いです。主の権勢を信じて自分を聖くしましょう! そのようにして病気にも、呪いにも、敗北にも勝利しましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 1. 7.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
牧会の手紙Ⅰ
新年を迎えた聖楽人のみなさんに感謝を申し上げます。神の大きな愛と恵みによって今年も勝利することができますようにお祈り申し上げます。
昨年(2017年)は私たちの教会に大きな試練がありました。また、それがまだ終らないで続いているという事実が今も私たちを苦しめています。しかし、神のことは神の御心通りに必ず勝利します。人の考えと神の御心を分別することができないで人の考えによって神の御心に逆らおうとするのはサタン的です。
私は1969年11月30日、ただ聖書一冊だけをもってソウルに上って来て、新吉洞に教会を開拓しました。そして、無からはじめて、今日まで大きな教会をなしてきました。開拓当初からお金がなかったために、私は祈って、神から与えられた5つのパンと2匹の魚の霊感を得て、その霊感と力をもって牧会をしてきました。ある人が手を置くと、教会が破壊されますが、私が手を置いたところは神の地となりましたし、神はそこに礼拝をささげる場所を建ててくださいました。
私たちの教会は初めから財源がありませんでした。からし種を蒔くように小さくはじまりましたが、無いものを有るもののようにお呼びになる神の力によって大きくなりました。現在、教会が負っている債務は財産を10倍以上に増やしてきたときに生じたものです。
多くの憶測があるにもかかわらず、私、視無言は教会に一ウォンの損害も与えたことがありません。また、私が教会の財産にひとつも手を付けないで、むしろそれよりも多くの財産を教会に献納してきたということがこれまで明らかになりました。これは視無言が生涯、正直に働いてきた結果ですし、また、聖楽人のみなさんが私をそれくらい信頼してくださった結果です。しかし、昨年の出来事によって、一部の推測と誤解によって教会に大きな波が襲いました。ただ神の恵みによって待てばいいことをこの世の法廷にまで引きずり出して「監督に権利があるのか? ないのか?」と争いはじめ、「監督が損害を与えたのか? 与えていないのか?」という争いにまで至りました。
しかし、私は今日、この世を離れるのか、明日、この世を離れるのかもわからない高齢者であり、主の御前に出て行く準備に忙しいしもべです。私は自分の霊魂のためにひとつも恥ずかしいことがないように全身全霊で働いています。神は私が勝利するときまで私の健康を守ると約束してくださいました。私は正々堂々とこの世の法廷にも出て行きます。みなさんのまことの祈りだけが私に大きな力となり、慰めとなります。しかし、彼らによって引き起こされた教会の財政的な圧迫と危機は全天下に知らされましたが、私たちが自ら克服していかなければならない問題です。
聖楽人のみなさん、預言者ハガイの泣き叫びを聞かれたでしょうか(ハガイ1~2章)? 今、私たちは熱い眼差しをもって教会を顧みなければなりません。2018年3月の財政危機を防ぐために教会を助けてくださるように切にお祈り申し上げます。教会を信じ、自ら願い出る心をもってお金を貸してください。私の命にかけて教会とみなさんをお守り致します。
「教会改革評議会」という不法団体によって教会に数百億ウォンという財政損失が生じました。彼らは財政の半分を使用し、教会には何も差し出しませんでした。これを克服するために訴えます。教会と視無言を信じてください。ただ3月の危機を乗り切ることができるようにしてください。感謝しま す。
視無言
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室