あなたは祝福の根源である
(創世記12:1~3)
神は
すべての祝福の神でおられる
その方が
この世を呼んで自分の前にいさせたのは(申命記30:19~20)
この世に祝福を受けさせるためであった
神は無所不在でおられるのに、どのようにしてその御前に出て行くのであろうか?
これを信仰という(ヨハネ3:16)
その信仰を義とされた(創15:6)
神は自分が義とする信仰を
初めてアブラハムから探された(創12:1)
アブラハムは
「神は生きておられなければならない。」
「全能者でなければならない。」
「人の事情を聞くことができなければならない。」
「人の主人とならなければならない。」と信じた
神が死んだ者の神ではなく、生きている者の
神であると確信した
神はアブラハムの信仰を祝福の根源と
確定されたので、このような事実を知って(創12:2~3)
祝福を祈る者は祝福を受けるし、
祝福を呪う者は呪いを受けるといわれた
◌ 信仰によってだけ
神の御前に出て来る
信仰によって義とされる
◌ 信仰は祝福の根源である
多く祈ったからといって祝福を受けるのではなく、
誠を尽くしたからといって祝福を受けるのではなく、信じてこそ祝福を受ける
◌ 信仰をもつのであれば、祝福を受けるし、
信仰を呪うのであれば、呪いを受ける
信仰は祝福の根源である
※ 信仰は信念ではなく、
神の御言葉である
神の御心を受け入れて信仰をもとう
あなたは祝福の根源である (創世記 12:1~3)
神はすべての祝福の神でおられます。「神は霊でおられる」という言葉の核心はその方が永遠に生きておられるということです。御言葉を指して霊というのもその御言葉が生きて働くということを意味します。イエスが「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、」(ヨハネ6:63)といわれたのもそのような側面から理解することができます。偶像は霊ではありません。もう一度言うと、偶像は生きている存在ではありません。しかし、神は霊でおられます。
アブラハムが神に召される前に居住していたガルデアのウルは人類の文明が最初に起こった場所でしたが、偶像崇拝が盛んなところでした。神が多くの人の中からアブラハムを選ばれたのは彼がもっていた神に対する理解が神の関心を引いたためです。その当時、多くの人が石や木で偶像を作ってそれを神として仕えましたが、アブラハムは神が生きておられる方であると信じました。彼は「全能な方でなければ、神ではない。」と考えましたし、「人の事情を聞くことができない存在も神ではない。」と考えました。彼は「神が生きておられるのであれば、必ず人の主人とならなければならない。」と信じました。
アブラハムのように、神が生きておられると信じ、その神が自分の主人であると認める者は当然、自分が神のしもべであるという事実を認めます。主人がしもべに一方的に命令を下すのは当然なことです。まことに神を信じるのであれば、神の御言葉を主人の命令として受けなければなりません。そのようにするときに、その御言葉が私たちに永遠のいのちとなるのです(ヨハネ12:49~50)。宇宙の中に造られたものの中で天に入って行って永遠のいのちを享受することができるものがあるでしょうか? ただ御言葉を受けた者だけがそのような栄光を享受することができます。
神は生きておられます。そうでなければ、十字架で死んだイエスがよみがえられることはありませんでした。イエスがよみがえられたという事実は私たちにとってとても重要です。それがその方を生かした神が生きておられるという事実に対する明白な証しとなるためです。人々はその方を殺して墓に葬りましたが、イエスはよみがえって十二弟子と500人余りの兄弟たちに同時に自分を現されました(Ⅰコリント15:4~6)。
生きておられる神が私たちに命令を下されるというのはどんなに驚くべき事実でしょうか? イエスは神の命令が永遠のいのちであるといわれました(ヨハネ12:49~50)。永遠のいのちを得るために信仰生活をしながらも神の命令を無視するのであれば、何の意味があるでしょうか? 多くの人が自分の肉体が続けて活動しているという理由をもって安心していますが、その霊はすでに死んだ状態です。肉体の活動が止まる瞬間、その霊魂は悪霊になってしまいます。 悪霊は一定の期間、この地で活動したのちに、時が来れば、底知れぬ所に入って行き、最後は永遠に消えない火の池に投げ入れられるようになります。信仰をもっているという理由をもって安心することはできません。聖書は「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」と警告しました(へブル10:26~27)。
主は私たちに聖日を守りなさいと命じられました。聖日は私たちの信仰にとってとても重要です。偶像崇拝もそれによって子孫まで呪いを受けるという点で深刻ですが、それでもその呪いは3、4代にかけて徐々に進行します。その反面、安息日を犯した者については「全会衆は宿営の外でその人を石で打ち殺さなければならない。」といいました(民15:32~36)。聖日を犯すというのはそれほど恐ろしいことです。主は自分が安息日の主であるといわれました(マタイ12:8)。安息日を犯したことに対してそのように厳しく扱われた方が主日を犯したことに対してはどのように扱われるでしょうか?
主日は主の日です。ヨハネの黙示録1章10節は「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」といいました。使徒ヨハネが黙示録を記録する霊感を受けたのも主日でした。主日は週の初めの日です。弟子たちはその日に集まってパンを裂き、杯を飲みながら、主の尊い血を記念して主の御言葉を受けました(使20:7)。彼らはその日に献金を準備しました(Ⅰコリント16:1~3)。私たちはある人のようにいっしょに集まることをやめないで、主日を徹底的に守らなければなりません(へブル10:25)。主の権勢をまことに認めるのであれば、その方の命令を受け入れなければなりません。私たちが教会に来て礼拝をささげるのは主がそれを私たちに命じられたためです。
礼拝は主の顔を伺うものです。神が霊でおられるという言葉のために、多くの人が神が目に見えない方でおられるということだけを考え、結果的に神を観念的な側面からだけ理解しようとします。しかし、神が霊でおられるという言葉の核心はその方が永遠に生きておられるというところにあります。神は生きておられるために、私たちを召し、私たちに命じ、私たちの声を聞かれます。礼拝は生きておられる神に会うものです。
神は祝福の神でおられます。祝福は神のものであり、神と分離することができません。それゆえ、ただ神だけが祝福を与えられます。神の御子も祝福を与えられる方ではなく、「父よ。彼らに祝福を与えてください!」と祝福を祈られる方です。神こそ祝福の根源でおられます。その方はアブラハムに向かって「あなたの名は祝福となる。あなたは祝福の根源となる!」といわれました。これは神がアブラハムとともにおられるという意味でした。それゆえ、神は「私はアブラハムが受けた祝福を呪う者を呪うし、祝福する者を祝福する。」と約束されました(創12:1~3)。
律法の下にいる者は神から与えられた祝福を肉体によって受けました。それで、彼らの霊魂は救いを受けることができませんでした。イエスは金持ちとラザロについて語られました。金持ちは毎日、ぜいたくに遊び暮らしていましたが、その霊魂は救いを受けることができませんでした(ルカ16:19~31)。収穫したものを倉庫にいっぱいたくわえて「私の霊魂よ。安心して暮らそう!」といったとしても、神がその霊魂を取り去られるのであれば、その収穫は果たして誰のものになるでしょうか?
愚かな者は肉体が栄え、平安な生活を享受することだけを祝福と考えます。しかし、主は「祝福をたくわえなければならないのはこの地でなく、天である。」といわれました。そして、私たちが天にたくわえておいたものをこの地で使うことができるように天国の鍵まで与えてくださいました(マタイ16:19)。この奥義を知るのであれば、必要なものがあるたびに天にたくわえておいたものをもってきて使えばいいのであって、普段からそれらを重く負っている必要はありません。自分の所有物が永遠になくならないのを願うのであれば、それを天にたくわえなければなりません(マタイ6:19~20)。天にたくわえておいたものがない者はこの地にためておいたものがどんなに多く見えたとしても、それらを使う権利をもっていません。
祝福は霊魂が担わなければなりません。肉体はそれを担うことができません。初めの契約の中では霊魂が死んでいたために、霊魂が祝福を担うことができませんでしたが、イエスの尊い血によって私たちの霊魂は生き返りました。神が命じられた祝福を受け入れるのであれば、この地ではむしろそれによって困難を経験することもあります。しかし、神が祝福を命じられたために、私たちはその祝福を拒まないで、積極的に受け入れなければなりません(民23:20)。
霊魂が祝福を受けた者は今、もっているものがなくて苦労したとしても、時が来れば、その祝福が現れますし、特に復活して天に行ったのちには驚くべき栄光を受けます。天で栄光を受ける神の子がこの地で苦難を受けるのはおかしなことではありません(ローマ8:17)。キリストは5つのパンで数千人を食べさせることができる方ですが、この地におられる間にはまともに食事をすることもできないで弟子たちに食べ物を求めることが多かったですし、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ8:20)といわれるくらいに多くの苦労を経験されました。そうだからと言って、その方が祝福がない方でおられるでしょうか? その方はこの地であらゆる苦難を受けられましたが、よみがえって天を相続されました。その方が見せられた道はその方によって神の子となった私たちが歩まなければならない道でもあります。
もちろん主は私たちが肉体をもっている間にも私たちを助けてくださいます。コリント人への手紙第二8章9節は「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」といいました。私たちがまことに主の命令を受け入れるのであれば、主は私たちに必要なものを満たしてくださいます。主が私たちを富む者とするといわれたのは使って残ったものもごみのように捨てるという意味ではありません。主は5つのパンで数千人を食べさせたのちに残ったものを捨てないで集められた方です。いつでもその方は私たちに必要な分を満たしてくださいますし、残ったものは集められます。しかし、祝福というのは永遠に消えることがありません。
神はアブラハムの信仰を義とし、彼を祝福の根源とされました。今日、私たちはイエス・キリストによって神が義とされた信仰を所有しました。神はそのような私たちを義とされただけでなく、祝福の根源とされました。
根源という言葉には根という意味があります。芝生を刈ったとしても数日後に再び芽が出て来るのは根が生きているためです。木材を得るために大きな木を切るときに根元まで切ってしまうのであれば、木が枯れてしまいます。しかし、木を切るときに切り株を大きく残しておくのであれば、芽がそこから出て来て、巨大な根から上がって来た栄養分を十分に受けて、苗木を新しく植えたときよりもはるかに速い速度で安定的に成長します。
私たちは祝福の根源です。私たちが祝福を受け、よく守るのであれば、私たちの子孫はそれを切り株として続けて成長することができます。聖楽教会は祝福の根源です。50年間、根を下ろした還言ベレヤ運動の切り株がここにあります。この切り株をなくそうとして身もだえする者もいますが、彼らの願いがなされるのであれば、果たして誰が再び 視無言のように長い歳月、侮辱や迫害に耐え、血を流しながら前進するでしょうか? 視無言がこの世を離れたとしても聖楽教会は還言ベレヤ運動の切り株を守らなければなりません。
「あなたは祝福の根源である!」という御言葉が私たちになされなければなりません。神がアブラハムに語られた御言葉はアブラハムと同じ信仰をもつ者に命令となります。神は私たちの中にある信仰の義を保証するために聖霊を与えてくださいました。聖霊が私たちの中で思い通りに働かれるようにしましょう。神の命令に従う者となるだけでなく、その御心を理解することができなかったとしても服従する者となりましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室