キリスト者になりなさい
(ローマ人への手紙8:1~9)
神は
父でおられる
その方が
土によって造られた人にいのちの息を吹き込み、
生きた者とされた(創2:7)
土によって造られた人は結局、土に帰るが、
生きた者は天で永遠に生きるようになる(ヨハネ3:16)
昔の「ネフィリム」は土によって造られた者に過ぎなかったために、(創5:2)
洪水によって終わったが、
生きた者には永遠な価値が付与された(創6:2)
土によって造られた人は土であるために、土に帰る(創3:19)
神の子になることができない(ローマ8:14)
生きた者とその子孫は
神の御子とともにする子となる(ヨハネ1:12)
土から出た者は肉体の情欲があるために
肉体のことだけを考えるが、(ローマ8:5)
霊から出た者は霊的な霊感を得て、
神の御心を理解して、その方と同行する
生きた者は
聖霊が与えられ、キリスト者となる(ローマ8:9)
イエスとともに天を相続する者となる(ローマ8:17)
◌ 「神の人になろう」という御心に従うためには
イエス・キリストの霊を受けなければならない
イエスから遣わされた霊を受けなければならない
◌ イエス・キリストの霊がなければ、
決して天に属した人になることができない
霊によって生まれた者だけが霊である
◌ 肉体によっては宗教人になることができたとしても、
霊によって生まれた者は霊的な聖徒として
まことのキリスト者になる
※ あれこれ言わないで、生まれ変わらなければならない
聖霊を受けなければならないし、
聖霊によってだけ生きなければならなない
キリスト者になりなさい (ローマ人への手紙 8:1~9)
神の御心通りに生きることができない者のために
神は私たちの父でおられます。私たちが神を父と呼ぶことができるようになったのは神の御子でおられるイエス・キリストとひとつの体となったためです。神はイエス・キリストを遣わして私たちに対する愛を現されました。神は愛でおられます。この事実をはっきりと知るためにはまず神の公義がどれくらい厳格であるのかを知らなければなりません。
キリスト者ならば誰でも神の御心通りに生きなければならないということに同意するはずですし、「神の御心通りに生きないのであれば、滅びるしかない。」ということも知っているはずです。問題は完全に神の御心通りに生きる者がいないというところにあります。これは地獄に行かない者がいないということでもあります。神がイエス・キリストを通して私たちに恵みを施してくださった理由もここにあります。
律法が人に要求するのは神の御心通りに生きなさいということです。完全に神の御心通りに生きる者がいないというのは律法の下ですべての人が罪人となるしかないということを意味します。律法が罪人に要求するのは死です。イエス・キリストがこの地に来て担われたのがまさにそれでした。その方は今も罪人に「神の御心通りに生きることができない者よ。来て、恵みを受けなさい!」と呼んでおられます。
人は死ぬことによって消滅する存在ではありません。神は男と女を造り、彼らに「生めよ。増えよ。地を満たせ!」と命じられました。その御言葉通りに人が地を満たしたときに、神はその中からひとりを選んでその鼻にいのちの息を吹き込まれました。これによって人は生きた者となりました(Ⅰコリント15:45)。人の肉体は本来、土から出て来たために、時が至ると、土に帰りますが、霊は天から来たために、天に帰らなければなりません。ところが、最初の人アダムが罪を犯したために、彼に属したすべての霊魂は天に帰るどころか地獄に行くようになりました。
神はアダムにはっきりと「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」といわれました(創2:17)。悪魔は「それを取って食べるときに、神のようになり、善悪を知るようになる。」と惑わしましたが、善悪を知るようになることによってアダムと彼に属した人間は永遠な滅びを免れることができなくなりました。神はそのような人間を救うという計画を立てて、まずイスラエルに律法を与えられました。律法の役割は人に善悪を知らせることでした。また、異邦人にとっては良心がその役割をします。それにもかかわらず、人々は恵みを受けたのちにも続けて律法や良心を頼ろうとします。しかし、神が初めに警告されたように、善悪を分別するのはむしろ人を死なせるということをはっきりと知らなければなりません。
悪魔はこの事実をはっきりと知っているために、イエス・キリストの中にいる者を恵みから絶ち切ろうとして律法や良心を利用します。信仰生活をよくしていた者が何かの失敗や過ちを犯したときに、悪魔はそれを口実として「お前は罪人だ。良心的に考えてみなさい。それでも、神の御前に出て行くことができるのか?」とささやきます。喜びをもって信仰生活をしていた者も一度、そのような悪魔の攻撃に倒れるのであれば、結局、キリストから絶ち切られて、恵みから落ちるようになります(ガラテヤ5:4)。
そのような悪魔の攻撃に勝利する方法は何でしょうか? それは私たちの中にイエス・キリストの血があるという事実を認めてそれを証しすることです。これについてヨハネの黙示録12章11節は「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」といいました。私たちがいのちをかけて証ししなければならないのは「私はイエスの血によって恵みを受けた者である!」ということです。神と人の関係を離間しようとする悪魔の策略によって善悪を分別する力が人に入って来ましたが、私たちはイエスの血の功労を証しすることによってそれを圧倒しなければなりません。
尊い血によってなされた贖い
「罪」という言葉にはさまざまな意味があります。アダムが善悪を知る木の実を食べたときに全人類に入って来た罪を原罪といいます。原罪はそれぞれの行いによるものではありません。それぞれの行いによって犯す罪は自犯罪といいます。その罪は肉体に属したものであり、霊の死をもたらすものではありません。
その他にも本罪というものがあります。それは罪を犯そうとする考えや感情に関する罪です。神がカインに「罪はあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創4:7)といわれましたが、カインは罪の思いを治めることができないで、それを実行に移しました。このように本罪は自犯罪の原因となります。十戒の最後の戒めである「他の人のものを欲しがってはならない。」という戒めも本罪に焦点を合わせています。
問題はこの本罪も神の公義の前で裁きの対象となるという事実です。心で犯す罪さえも裁きを受けるのであれば、果たして誰が義と認められるでしょうか? イエスも「姦淫を犯さなかったとしても情欲を抱いて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのである。」といわれました。一言で言うと、ローマ人への手紙3章10節の御言葉のように、この世に義人はひとりもいないのです。
すべての人が罪人であるというのはすべての人が滅びるしかないということです。しかし感謝すべきことに、神は罪人が生きる方法として贖いというものがあるということを知らせました。初めの契約の下では獣を取って血を流すことによって人の罪を贖いました。しかし、獣は霊的な存在でないために、その血は肉体の罪しか贖うことができませんでした。人が地獄に行かないためには霊的な罪、すなわち原罪が解決されなければなりませんが、それを解決したのがイエス・キリストの血でした。
すべての預言者と律法の預言はバプテスマのヨハネまででした(マタイ11:13)。彼がイエスにバプテスマを授けることによって預言者と律法の役割は幕を下ろしました。初めの契約の下で人々が羊や牛を取って血を流したのはイエス・キリストが将来、十字架で血を流して死なれることについての預言でした。また、神がアダムに「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」といわれたのも「アダムが罪を犯すのであれば、それによって将来、神の御子が血を流して死ぬ。」ということについての預言でした。イエスは十字架で息を引き取る直前にそれらすべての預言を念頭に置いて「完了した!」と叫ばれました。
バプテスマを通して律法からイエス・キリストに
人々はイエスを罪人として扱い、十字架につけて殺しましたが、神は三日目にその方を生き返らせました。イエスは天に上る前に弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19~20)といわれました。弟子たちはこの御言葉に従いましたし、また、それによって2000年が過ぎた今日、私たちもバプテスマを受けてキリスト者となりました。
バプテスマは儀式ではありません。儀式はたとえですが、たとえをすべて廃棄したイエスが再びたとえを立てられたのではありません。バプテスマとは律法から、そして、善悪を分別する良心から自分を取り出してイエス・キリストに移すことです。悪魔はエデンの園で「善悪を知る木の実を食べなさい。食べるときに、神のようになる。」といってアダムをだましたように、今も続けて「律法通りに生きなさい。良心に従って生きなさい。そのようにしてこそ死なないで、神のようになることができる。」と人々をだまします。そのような惑わしにつまずいて心と精神と哲学を「善悪を知ること」に集中させるというのは滅びに向かって走っていくということです。
バプテスマを通して自分をイエスに移した者だけが聖霊を受けることができます。モーセを信じる者は聖霊を受けることができません。預言者に従う者も聖霊を受けることができません。イエスに移植された者だけが聖霊を受けることができます(ヨハネ7:38~39)。それゆえ、聖霊を受けたのであれば、二度と善悪を分別する良心に縛られないで、自分が受けた恵みを認めなければなりません。善悪を分別する良心を克服することができるほど、はっきりと恵みを認めなければなりません。
イエスは「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)といわれました。真理を知らない者は良心に従って生きることを信仰生活と混同します。しかし、以前、どんなに恵みを受け、聖霊の賜物を味わったとしても良心に縛られるのであれば、結局、滅びます。良心を頼る者は結局、それによって罪に定められますし、悪魔はこれに乗じてその人を抑圧します。自分の力によって悪魔の抑圧に勝利することができる者はいません。悪魔の攻撃を退けるためにはイエスの血を認めなければなりませんし、「神の御子イエス・キリストが血を流して私の罪を贖われた。私はその方の名によってバプテスマを受けた。私はその方の中に入って来ている。私は恵みを受けた者である。私はイエスの人である。」と証ししなければなりません。
善悪を分別する良心を聖霊によって圧倒しなさい
悪魔は絶えず「イエスの血を信じたとしても意味がない。お前には良心がないのか? イエスを信じる者がそのようにしてもいいのか?」といいながら、私たちのこのような告白を無力化させようとします。悪魔は善悪を分別する良心を刺激して、尊い血の力を覆い隠そうとします。そのような悪魔の計略に倒れて良心に縛られる者は結局、裁きを受けるようになります。それゆえ、尊い血を認めなければなりません。尊い血の力が善悪を分別する力を圧倒するようにしなければなりません。そのためには尊い血の力を心で信じるだけでなく、それを伝えなければなりません。主日に聖餐をしながらも尊い血を伝えないのであれば、自分でも知らないうちに良心に抑圧された生涯を送るようになりますし、それによって心や霊が弱くなり、病気にかかることもあります(Ⅰコリント11:29~30)。
人々は「キリスト者になるというのはとてもやさしいことである。」と考えます。「信じさえすればいい。恵みを受けさえすればいい。」という言葉を聞くために、そのように考えるかもしれません。しかし、それは決してやさしいことではありません。善悪を分別する良心があり、律法があり、悪魔の抑圧があるために、それを実現させるのはやさしくないのです。まことの自由はそれらに勝利した者だけが享受することができます。
ローマ人への手紙8章6節は「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」といい、13節は「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。」といいました。善悪を分別する良心に従うのであれば、この世では称賛を受けるかもしれませんが、自分の霊魂を神に移すことはできません。恵みと真理は霊に必要なものですが、それがもたらすのはいのちと平安です。
初めの契約は尊い血によって成就され、今、私たちは新しい契約の中にいます。それゆえ、聖霊を受けてください! 聖霊を受けていない者は良心に縛られた宗教人となることはできたとしても、恵みの中にとどまるキリスト者となることができません。聖霊を受けた者は聖霊を味わうだけでなく、聖霊に満たされてください。善悪を分別する良心を圧倒するほど聖霊に満たされてください。異言を語ることに満足しないで、聖霊のさまざまな賜物と力が現れるように聖霊に満たされてください。尊い血の功労についての確証を聖霊によって受け、尊い血の恵みを聖霊によって証ししてください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 3. 18.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
生涯、ただ還言信仰運動をしてきたのは神から召されてその働きのための職分を受けたためである。これまでの55年間、多くの迫害やいじめを受けながらも屈することがなかったのは私に預けられた働きが神から与えられたものであり、私の信仰であったためである。
私が実践しないのであれば、果たして誰が「ベレヤ運動」を実践するであろうか? これまでの数千年間、多くの殉教者が出て来たし、また、使命者が存在してきた。しかし、私に与えられた働きはそれ以前にはなかったものであるし、現在にもない非常に珍しくて孤独なものである。それゆえ、私がこの働きをしないのであれば、誰が生涯、このように大変な働きをするであろうか?
私はまことに使命をもって生きる。これまでの1年間に私たちの教会で起こったことを見ても、そうである。ほとんどの人がベレヤの実践をあきらめようとした。そのとき、私さえもあきらめたのであれば、残りの者もすべてあきらめるしかなかったであろう。私がこれまでの半世紀、狂った者のように視無言をして働いてきたために、この運動が続いてきたのである。私のように死ぬ覚悟、この世から捨てられる覚悟をして私の後を継ぐのであれば、続いて継承することができる。
主が行かれた道が人々には愚かに見えるかもしれないが、人の考えによって神の働きを批判したり妨げたりすることはできない。イエスに叱られたべテロのように、サタンの働きをしてはいけない。私は神のものである。羊を裂いて殺して火に焼いてこそ全焼のいけにえとなるように、神からどのように用いられたとしても私は従うだけである。神に召されたとしてもこの地には栄光があるのではなく、苦難や死がある。神が私に願い、命じられた働きであるために、私は感謝をもって従うだけである。
人々から「降りてみなさい」といわれたからといって、イエスが十字架から飛び降りて来られたであろうか? そうではなかったではないか。私はすでに主の祭壇にささげられたいけにえとなったために、悲しいことも痛いことも悔しいことも損をすることもない。みごもりの苦しみを味わったのであれば、産みの労苦も必ず担わなければならないように、私はこの働きを担う。
「金一家は退け」という改革派の主張は非常に愚かである。裏が透けて見える偽りを神が愛されるであろうか? 他の人が働いている牧場をうかがっていないで、神の御前で新しく開拓するのが正しい。開拓して礼拝堂も建ててみなさい。そうすれば、聖楽教会が今日、このように成長した理由をよく知るのであろう。これは誰にでも勧めたい言葉である。
神から健康が与えられる限り、私は続けて牧会をする。最初にはじめた通りに牧会をするし、私たちの教会を永遠の教会とする。私は神の考えをもって、人の考えと戦う。私の生涯の使命である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室