酸いぶどう酒
(ヨハネの福音書19:28~30)
神は
生きておられる
その方が
御子を人の子としてこの世に遣わして死を味わわせ、(へブル2:9)
再びよみがえらせた(使徒2:23)
神は永遠に生きておられるし、変わることがない(へブル4:12)
これが私たちの信仰である
永遠に変わることがあってはいけない(黙14:4)
イスラエル人の中で印を押された14 万4000 人は不変な
信仰者として初めから(黙7:4)
イエスとともにした者である
主イエスが十字架で受けられたぶどう酒は
新しいものでなければならなかった(ヨハネ19:30)
時が過ぎてしまった酸いぶどう酒は受けられなかった
主イエスの血と肉は新しいものであり、新しい契約である(へブル9:18)
主が血を流されたために、
私たちは渇いたその方にささげられる新しいぶどう酒とならなければならない
惜しむことによって時が過ぎた酸いぶどう酒はふさわしくない
主の渇きが何であるのかを理解しなければならない(マタイ25:35)
その方は十字架で何かを取ろうとしたのではなく、
渇かれたのである
◌ 時が過ぎたぶどう酒、酸いぶどう酒は
主イエスに必要ではない
常に生きている新しいぶどう酒を求められる
◌ 時が過ぎた律法は酸いぶどう酒である
律法を通してその方を喜ばせようとするのであれば、
主はこれを吐き出される
◌ 主は福音によって真理だけを刈り取られるために、
私たちは真理の人とならなければならない
聖霊によってだけその方にささげることができる
※ 私たちの信仰が酸いぶどう酒となってはいけない
新鮮なぶどう酒となって、
主イエスに飲ませよう
酸いぶどう酒 (ヨハネの福音書 19:28~30)
生きて今も働かれる神
神は生きておられます。その方は今も続けて自分の働きをしておられます。風が吹き、雲が流れ、雨が降り、地球が公転と自転を繰り返し、木が育ち、種が実を結び、人が呼吸をして動き、生育をしていますが、これらはすべて生きておられる神の働きです。私たちが口で味わい、鼻で嗅ぎ、耳で聞き、目で見るものはすべて生きておられる神の働きによって現れたものです。
イエスがこの地に来られたのもその方が自ら来られたのではなく、神の働きをするために神から遣わされて来られたのです。これはイエスがゲッセマネで「私が願うようにではなく、あなたの御心通りになさってください。」と祈られたという事実にもはっきりと現れています。イエスは罪のない神の御子でおられますが、この地に来て罪人と交わりながらあらゆる苦しみを受け、結局、十字架につけられて死なれました。これはその方に運がなかったためではなく、その方が神の働きを成就されたためでした。
イエスにも自分の思いがありました。しかし、その方は父の御心のために自分の思いを徹底的に放棄されました。その方は「私は自ら何もすることができない。ただ父が命じられたことをする。」といわれました。その方が十字架で息を引き取る前に「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか!」と叫ばれたという事実は「神から命じられたことが納得しがたいことであったとしても、その方はそれを担われた。」ということを物語っています。
イエスがなさった働きはどんなに人の目に小さく見えたとしても、すべて父の御心をなすためのものでした。それゆえ、その方は「御言葉」でおられます。その方の生活が御言葉でしたし、その方の体験が御言葉でしたし、その方がなさった働きが御言葉でした。その御言葉を証しする方が聖霊でおられますし、聖霊によって証しされる御言葉が真理です。聖霊は真理を証しされます。それゆえ、聖霊によらなければ、誰もイエスが誰であるのか、また、その方がなさった働きがどのような意味をもつのかを知ることができません。
霊魂が進まなければならない3つの道
教会に来て礼拝をささげる者の中にもどうしてイエスを信じなければならないのか、どうしてその方を救い主と呼ぶのかを知ることができない者がいます。イエスが血を流して死なれたという事実に対してこの世の人々が無関心なのは当然ですが、他の人にイエスを信じなさいと勧める者であるのならば、イエスが血を流して死なれたのがどのような意味をもつのかをはっきりと知らなければならないのではないでしょうか?
教会に通いはじめた者がよくもつ誤解があります。彼らは自分が宗教生活をはじめたと考え、これからは善悪をはっきりと分別して良心的に生きていこうと決心します。教会生活を長くするほど彼らは律法についてさらに多くの知識をもつようになりますし、そのようになるほど良心の呵責は大きくなります。これを解決するために彼らは苦行をし、夜を徹して叫び、次第に典型的な宗教人となっていきます。そして、自分の修養が一定の水準に達したと考えると、今度は自分の良心を善悪の基準として他の人を判断し、罪に定めます。果たしてこのような人が第一の復活に参加することができるでしょうか?
神の御前には3つの部類の人がいます。第一は神をまったく知らない者、すなわち神の御前で善悪を分別しさえもしない者です。彼らは死んだのちに裁きを受けません。なぜならば、裁きをすでに受けたためです。彼らは死んだのちに底知れぬ所に行き、将来、そこから出て来て永遠な火の池に投げ込まれるようになります。
第二は神を信じるといいながらも律法や良心の下にいる者です。彼らは律法や良心によって罪に定められ、自分の行為によってその苦しみを克服するために努力します。そのような努力は立派ですが、彼らは神から施された恵みを受け入れなかったり、受けたとしてもそれを無視して再び戻ったりします。それゆえ、結局、自分の行為に従って裁きを受けるようになります(黙20:12)。
第三はイエスと結びついた者です。彼らは自分が罪人であることを認め、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、イエス・キリストと結びついた者です。彼らは死ぬと、その肉体は土に帰りますが、その霊魂はパラダイスに行き、将来、いのちの復活を経て、イエス・キリストとともに天国に上って行きます。
キリスト者は恵みによって赦しを受けた者
ある人は「霊魂は感覚をもたないために、地獄に行ったとしても苦痛を感じることがない。」といいます。これは大きな誤解です。天国や地獄は霊魂が人の目に見えない状態で行くのではありません。天国に行く霊魂も地獄に行く霊魂もまず復活を経験します(ヨハネ5:29)。それゆえ、地獄の刑罰に対する警告を無視してはいけません。イエス・キリストが十字架で血を流して死なれた理由もここにあります。
人類はすべて生まれたときから罪人です。これはそれぞれの行為とは関係がありません。アダムがエデンの園で罪を犯したときに、人類はすべて彼の中にいました。魚が死ぬと、その腹の中にある卵はともに死にます。そのようにアダムが罪を犯すことによって彼の中にいた人類がすべて罪人となり、それによって死が人類を支配するようになったのです。死を脱け出すためにはいのちがなければなりませんが、いのちはどこにあるのでしょうか? 血にあります。獣のいのちも血にありますし、人のいのちも血にありますし、霊魂のいのちも血にあります。ただし、霊魂のいのちのためには永遠な血がなければなりません。
イエス・キリストが十字架で血を流して死なれた理由がここにあります。その方は本来、神とともにいたのちに処女の体を通して人として生まれ、人と同じ生涯を送られました。その方はエデンの園の最初のアダムに続く第二のアダムであり、また、最後のアダムです。最初のアダムは罪を犯すことによっていのちから断絶され、地獄に行くようになりました。しかし、地獄の刑罰がはじまる前に最後のアダムがこの世に来て最初のアダムの代わりに死なれました。これによって最初のアダムの罪の価はすべて払われ、その事実を認めてイエス・キリストの中に入って来る者は誰でも赦しを受けるようになりました。
キリスト者は赦しを受けた者です。立派な行為を通して赦しを受けた者ではなく、恵みによって赦しを受けた者です。「私は恵みを受けた」という告白はある程度、信仰生活を続けたのちにすることができるものではなく、イエス・キリストを受け入れ、その名によってバプテスマを受ければ、すぐにでもすることができるものです。このような恵みを受けた者は主日に集まって、キリストの功労とそれによって受けた恵みを記念します。
主が受けられた最後の酸いぶどう酒
ヨハネの福音書19章28~30節は「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」といいました。
酸いぶどう酒は時が過ぎて味が変わったぶどう酒です。ぶどう酒に期待するものを酸いぶどう酒から得ることはできません。私たちの霊魂にとって、律法はまるで酸いぶどう酒のように何も益をもたらしません。それゆえ、イエスは「預言者と律法の預言はすべてヨハネまでである。」と宣言されました(マタイ11:13)。律法は人の霊魂を生かすことができません。善悪を分別する良心も同じです。尊い血の恵みを受けたのちに再び律法や良心に頼るのであれば、それは自ら裁きを負うことです。
イエスが十字架で「私は渇く!」と叫ばれたのは人類の霊魂が直面している状態を代弁されたのです。私たちはラザロと金持ちの話をよく知っています。金持ちはこの地で惜しむものがない者でしたが、この地を離れたのちには「父、アブラハムよ。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。!」と願うほど悲惨な状況に直面しました。これは人間にとって最も究極であり、切迫な問題が霊魂の渇きであるということを物語っています。
果たしてその渇きは何によって解決することできるでしょうか? 酸いぶどう酒のような律法は解決策になりません。善悪を分別させる良心も同じです。イエスは十字架で酸いぶどう酒を飲んだのちに「完了した!」と宣言し、そののちに息を引き取られました。律法をすべて成就されたのです。これによって私たちはイエスから与えられた新しいぶどう酒によって霊魂の渇きを解決することができるようになりました。これは善悪を分別させる良心や律法によっては不可能なことでした。
多くの人がイエスを信じるといいながらも恵みを頼るよりも自分の良心を基準として善悪を分別しようとします。彼らは自分を罪に定めますし、自分の行為によって良心の呵責を克服したのちには自分の良心を基準として他の人を判断し、罪に定めます。彼らは恵みの中で自由を享受する者を憎んで、そのような者を自分と同じように良心に戻らせようと努力します。それは悪魔から出て来たものであり、決してキリストから出て来たものではありません。
私たちはイエス・キリストと結びつきました。それゆえ、私たちは裁きをすでに脱け出して、神がイエス・キリストのために備えられたすべてのものをイエス・キリストの中でともに享受します。この事実をはっきりと知るために、私たちには永遠な喜びがあるのです。このような私たちが神に礼拝をささげるときには何をささげなければならないのでしょうか? 時が過ぎて味が変わった酸いぶどう酒をささげてもいいのでしょうか? 主は十字架で受けたものを最後に酸いぶどう酒を受けられません。のちに後悔しないで、時が過ぎる前に主の渇きを解決する者となりましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 3. 25.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
エリシャがエリヤを訪ねて行き、エリヤに従ったのはエリヤの外見や知識のためではなかった。ただエリヤが神から受けた霊感のためであった。
人々が私を訪ねて来たのは私の外見や地位のためではなかった。私はやぼったくて洗練されたところがない無一文の田舎者であった。しかし、神から霊感を豊かに受けたときから人々が私を訪ねて来た。さらには互いにねたみながら、私と親しいふりをした。それはこれまでに見たことがない神の霊感が私にあるのを見たためであった。人々はその霊感をまことに慕い求めた。
その霊感は今も昔も続けて私に満ちている。私の中には主イエスがなさった働きと主イエスを通してなされた父なる神の御心が満ちている。それゆえ、私はこれを「神の意図」と名づけ、生涯、ただこの道を歩んできた。1962年に初めてその霊感を得たときから右にも左にもそれることなく、ただ「神の意図」だけを教えて伝えてきた。これは私の生涯の使命であり、いのちである。
「神の意図」を語ることによって多くの迫害やいじめを受けてきた。彼らは自分の思い通りにしようとして、神の意図とは相反した道を進んでいる。そのために当然、私を認めない。しかし、聖書を鏡として自分の霊魂を映して見ると、知るようになる。どうして聖書に自分の霊魂を映さないのか。聖書が鏡である。私たちの霊魂も聖書を映す鏡とならなければならない。どうして聖書にある姿と自分の霊魂が同じではないのか。聖書に力のある者が存在するのであれば、自分にも力がなければならない。聖書と自分の霊魂が一致しなければならないのではないか。
どうせこの世と私はそれぞれ別の道に進んでいる。この世が好まなかったとしても、それは私と関係がない。ただ「神の意図」だけが私を知る。説教や牧会や私の霊魂は神の意図に従うだけである。私がもっている霊感は「神の意図」である。これは神から啓示を受けた霊感であり、力であり、真理であり、いのちである。
出生を味わったのであれば、その次には必ず死ぬ。一度、死ぬのは神が定められたことである。ある人は「死が終わりである。」と考えるが、人には霊魂がある。霊魂は肉体とともに過ごしたのちに肉体を離れる。そうすれば、霊魂は残って神の裁きを受けなければならない。その裁きが恐ろしい。
ある霊魂は裁きを受けることもなく悪霊となって滅びる。ある霊魂は善悪の間で裁きを受ける。しかし、主イエスを知る霊魂はパラダイスを経て復活し、天に行く。視無言には霊感がある。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室