謙遜の力
(ペテロへの手紙第一5:1~11)
神は
ただひとりの方でおられる
その方が
三位一体である唯一の方でおられる(マタイ28:19)
神が御子を高めようとして御子のために
万物を創造し、(へブル1:2)
御子の御座を天に置かれた
御子は謙遜に自分を低め、死を味わおうとされた(へブル2:9)
そして、よみにまで下って行って死なれた(ピリピ2:6~8)
それゆえ、
神は御子を高めて天の御座に着かせ、
そこからこの世を治めさせる(マルコ16:19~20)
主イエスの力は謙遜である(マタイ11:29)
悪魔は特別に造られたのちに堕落した天使である(イザヤ14:12)
自分の地位を離れ、極めて高い方に敵対し、
天から追い出された、堕落した天使である(イザヤ14:12~15)
悪魔は天から最も低いよみに追い出されて
裁きを待つ者である(Ⅱペテロ2:4)
悪魔の力は高ぶりである(エゼキエル28:14~17)
傍若無人であり、高ぶった者の中で働き、
最後の裁きを受けて硫黄の火に入って行く霊である(エゼキエル28:18)
◌ 謙遜になりなさいといわれたのは大きな力を与えるためである
謙遜だけが悪魔に勝利する
主イエスは謙遜なる万王の王でおられる
◌ 高ぶりは悪魔の本能であり、結果的に
神に敵対する悪い霊である
高ぶりは悪魔の手足となるしかない
◌ 高ぶりは勝利するように見えるが、結局、滅びる
謙遜は負けるように見えるが、結局、勝利する
イエス・キリストは謙遜なる支配者でおられる
※ 勝利しよう
悪魔に勝利するために謙遜になろう
高ぶろうとする心に勝利し、謙遜な者となろう
謙遜の力 (ペテロの手紙第一 5:1~11)
神を愛するのであれば
神はただひとりの方でおられます。この世には多くの神々がいますが、それらはすべて被造物であり、仕える対象ではありません。ただ神だけが唯一の創造主でおられますし、永遠に仕えられる方です。私たちが目に見えない神を知ることができるようになったのは御言葉によってでした。御言葉は永遠の前から神とともにおられた神です(ヨハネ1:1)。
みなさんは神を愛するでしょうか? それならば、御言葉を愛するでしょう。また、御言葉を愛するのであれば、御言葉に逆らうことはありません。多くの人が教会に通いながらも御言葉を聞くだけであって、それを行おうとしません。彼らが教会に通いながら期待するのは慰めを受けることです。しかし、信仰生活の目的はこの地で慰めを得ることではありません。
この世には多くの宗教がありますが、その役割は人々に慰めを与えることです。宗教は人の品性や性格、性質を扱います。品性が悪い者は性格が歪んでいますし、そこから悪い性質が出て来ます。その反面、宗教的な修養を通して品性を治めるのであれば、性格が穏やかになり、そこから良い性質が出て来ます。このような変化を通して人々に慰めを得させるのが宗教です。しかし、信仰生活の目的は別のところにあります。
イエス・キリストは天に上ったのちに信じる者に聖霊を遣わして、この地に教会を建てられました。教会はイエス・キリストの体です(エペソ1:23)。イエス・キリストがこの地で体験されたことは何でしょうか? その方は死んだのちによみがえって天に上られました。その方の体である教会も同じ体験をするようになります。私たちの望みはこの地で慰めを得ることではなく、復活して天に上ることです(Ⅰコリント15:14)。
天に対する望みがあるのならば、御言葉を愛します。また、御言葉を愛するのであれば、御言葉の前で謙遜になります。御言葉の前で謙遜な者こそまことに神を愛する者です。それならば、御言葉の前で謙遜な者とはどのような者でしょうか? 御言葉をよく聞くことだけでは御言葉の前で謙遜であるということはできません。御言葉の前で謙遜な者は御言葉を行動に移します(ローマ2:13)。
紳士的な者
使徒の働き17章11節は「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」といいました(訳者注: 韓国語の聖書では「良い人たち」が「紳士的な人たち」となっている)。ここのユダヤ人、すなわちベレヤ人が紳士的な者であるというのは「礼儀正しい」という意味として理解することができます。昔の人々は自分よりも1歳だけ年上であったとしても丁重に先輩として待遇しました。そうかと思えば、自分の孫の学校の先生と会うのであれば、その祖父はその先生が自分よりもはるかに年下であったとしても目上の人として待遇しました。一言で言うと、昔の人々は礼儀正しかったです。
テサロニケの人々は礼儀正しくありませんでした。彼らはパウロの言葉を聞いたとしても自分がそれを理解することができないという理由によってむやみにパウロを排斥し、さらには殺そうとしました。その反面、ベレヤ人は異なりました。彼らはパウロの言葉を謙遜に聞き、それが聖書の内容と一致するのかを確認するために毎日、聖書を調べました。
教会生活をしながらも自分の知識や経験を押し立てて牧会者の教えや決定をむやみに批判する者がいます。そのような人を紳士的と見ることはできません。牧会者は主の命令に従って群れを牧し(使20:28)、主が命じられたことを教える者です(マタイ28:20)。牧会者がどんなに若かったとしてもその口から出て来る言葉を尊重しなければなりません。神の御言葉がその口から出て来るためです。神を愛する者は御言葉の前で謙遜ですし、牧会者の口から出て来る言葉を無視することがありません。
数十年間、地下の坑道で働いた鉱員はこの世の知識と経験はあまりもっていないかもしれませんが、地中での経験はとても豊富です。博士号をいくつかもっている大学教授であってもそのように数十年間、積まれてきた鉱員の経験を無視することはできません。牧会者も同じです。牧会者は御言葉と祈りに専念する者ですし、神から預けられた霊魂を教えて養育することに献身する者です。そのような牧会者の口から出て来る言葉を自分の知識や経験の物差しによってむやみに判断するというのは礼儀正しいことではありません。
孔子が道で会った子どもと交わした会話は有名です。その子どもが友人と道で土の城を築いているときに孔子を乗せた車が近づきました。他の子どもはすべて避けましたが、その子どもは毅然として座って動きませんでした。孔子が「お前はどうして車を避けないのか?」と尋ねると、その子どもは「車が城を避けて通ることはあったとしても、車を通すために城を移したという話は聞いたことがありません。」と答えました。興味深くこれを考えた孔子はその子どもと会話を続け、のちには「あの子を私の師匠にしたい。」といったそうです。謙遜な者は子どもからも何かを学ぶのです。
謙遜
謙遜はキリスト・イエスの心です。ピリピ人への手紙2章5~8節は「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」といいました。
神の御子イエスは父なる神と等しい方でおられます。父なる神は御子を万物の相続者とされました(へブル1:2)。一般的に万物とは宇宙とその中にあるものをいいますが、ここでいう万物とは万有、すなわち霊界の天とその中にあるものすべてを含みます。御子は当然に万物が与えられるとは考えないで、謙遜な心をもって父の御前で自分を低められました。謙遜とはこのように自分の上にいる者を認めることです。
牧会者は他の分野については無知であるかもしれませんが、御言葉については誰よりもよく知っています。それゆえ、牧会者の口から出て来る御言葉を無視しないで、その牧会者を自分の上にいる者と考えて尊重してください。ベレヤ人のように礼儀正しい者となってください。ベレヤ運動は還言運動、すなわち御言葉に還る運動です。これを担うためには神の御言葉の前に謙遜でなければなりません。御言葉は霊であるために(ヨハネ6:63)、霊がない獣にはそれがただの音として聞こえます。私たちが御言葉を聞きながらもそれをただの音として聞くのであれば、獣と異なるところがあるでしょうか?
謙遜は人から生じた品性ではなく、神の御子からはじまった品性です。神の御子は父の御前で謙遜に自分を低めようとされました。その御心が成就される過程でこの地に人が存在するようになりました。人は神のかたちに似せて造られました(創1:27)。私たちは神のかたちがイエス・キリストでおられるということを知っています(Ⅱコリント4:4)。これを通して私たちは人格というものが人からはじまったものではなく、神の御子から人に導入されたものであるということを確認することができます。
神の御子が父の御前で自分を低められた方法とは人になることでした。人は体をもっているために、死を避けることができません(ヘブル9:27)。死とはどんなに有能であったとしても自分の力によってはどうすることもできないものです。神の御子が人となられたというのは父が生かしてこそ生きることができる者となられたということですし、天で永遠に父に仕える者となられたということです(へブル5:7)。
高ぶり
神の御子がよみに来られるときまで、神は天使のひとりを選び、その天使に「エホバ」という呼び名を与え、天の御座を守らせました。これは主人が他国に行くために家を空ける間、管理者に家を預けたのと同じです。ここには天で問題が発生することもあるという予知がありました。そして、実際に天にいる天使の中で極めて美しい天使が高ぶった心を抱き、自分の地位を離れて管理者の地位を見下しました。
紙切れが火に投げ込まれると、瞬間的に燃えてしまいます。そのように天使は神に敵対したり戦ったりすることができる存在ではありません。天使があえて罪を犯すことができたのはエホバという呼び名をもって天を治める管理者も天使であったためです。その天使は自分が神に敵対すると考えないで、むしろ自分がエホバの使いよりも管理者の役割をさらによく遂行することができると考えたのかもしれません。しかし、天の御座を預かっていたエホバの使いに敵対したというのは御座の主人である神の御子に敵対したということでしたし、御子を相続者とした父なる神に敵対したということでした(ヨハネ13:20)。
たとえ天使が罪を犯したとしてもエホバの使いはその天使を裁いたり刑罰したりすることはできませんでした。もしそれが可能であったのならば、イエス・キリストがこの世に来られる必要はありませんでした。エホバの使いはただ罪を犯した天使を暗やみに閉じ込めて大いなる日の裁きを待たせました(ユダ1:6)。そして、時が至って、神の御子がこの世に来て死んだのちによみがえり、それによって罪を犯した天使を裁かれました。そののちに御子は父の御心通りに天の御座に着かれました。その方は再びこの世に来られます。そして、そののちに悪魔とその使いたちに対する刑罰がはじまります。
悪魔の罪はねたみからはじまりました。悪魔は自分こそ天の管理者となるにふさわしいと考えました。イザヤ書14章13~14節はこれについて「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星星のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」といいました。このようなことは今日、教会の中でもしばしば発生します。誰かが重要な職分を預かったときに、人々はその人をねたみ、批判したり不信を助長させたりします。
悪魔に敵対する力
謙遜は主の品性ですし、高ぶりは悪魔の品性です。他の人をねたむのも高ぶりからはじまりますし、他の人と自分を比較して劣等感をもつのも高ぶりからはじまります。ねたみや劣等感はすべて悪魔から来るものです。悪魔は今もそれを受け入れる者を食い尽くすためにこの地を歩き回っています(Ⅰペテロ5:5~8)。
神の御言葉の前で謙遜になりましょう。そのようにしてこそ力をもちます。悪魔は御言葉の前で謙遜な者を屈服させることができません。謙遜はキリスト・イエスの心ですし、高ぶりはサタンの心です。みなさんはサタンのしもべとしてサタンとともに呪いを受けるのでしょうか? そうでなければ、キリスト・イエスのしもべとしてその方とともに栄光を受けるのでしょうか? キリスト・イエスの心を抱きましょう。それが悪魔に敵対する力です。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 4. 29.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
この世の人々は自分の親が亡くなると、天に行ったという。そして、天で自分を見守っていてくれるという願いを口にする。私はそのような言葉を聞くたびにはっきりと思い出す。人は一生を終えると、必ず死という門を通るようになるし、その霊魂は肉体の外に離れて行く。
この世の人々はこのときから霊魂がどこに行くのかを知ることができないで、漠然とした願いだけをもつようになる。しかし、私は知っている。イエス・キリストは「私は道である。」といわれた通りに天から来て、この地での公生涯を終え、やはり死という門を通り、その霊魂が肉体を離れ、パラダイスにいたのちに3日後によみがえって、天に上られた。その方が天に上られた光景を目撃した者は500人にも及んだ。
その方はこの世で誤解や迫害、排斥を受けられたが、これはその方がこの地に肉体を着て来られた使命であったし、全人類のためであった。それゆえ、それを終えたのちに「完了した。」と宣言された。そのとき、ひとりの強盗はイエスが行かれる道をはっきりと知らなかったが、自分の道とは異なるということを知って、主イエスが息を引き取られる前に「私とともにパラダイスにいる。」という許しを受けた。このように信仰とは「主イエスから、天国への導きを受ける許しを受けた。」という永遠な体験である。私たちはこの強盗から知恵を得なければならない。
イエスは「天に行く道」でおられる。その方が新しく備えておかれたこの道は天から下って来て、この世を経て、再び天に帰って行く。私たちは車を運転するときにインターチェンジを通って高速道路に入って行く。このように人の道は運命であるが、福音を聞いてイエスの道に入って行ってこそ天国に行くことができる。
人の道は運命である。聖書は「そして、人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9:27)と警告した。誰も裁きを避けることができない。この世の人々には霊魂が行かなければならない新しい道がある。それはイエス・キリストが備えておかれた、天に行く道である。イエスと結びついてその道に入って行くと、死という門を通過してパラダイスに導かれる。そして、復活して、主とともに王となり、天国に入って行く。そこは天使が私たちを待っていて私たちに仕えるところである。そこが父なる神の家である。
しかし、自分の良心をきれいにするといって宗教生活をする律法主義者、善悪を分別する良心主義者は別の場所でその日を待ち、そののちにそこから出て来て善悪の間で裁きを受けるようになる。死の門を越えると、悪霊としてしばらくの間、この世をさまよい、そののちに底知れぬ所に入って行く。そして、裁きはすでに下されたために、硫黄が燃えている火に入って行く。私は早くからイエスの道に入って来た。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室