祝福といのちを選びなさい
(申命記30:15~20)
神は
祝福といのちの主でおられる
その方が
人類に祝福といのちを与えるために準備された
戒めは祝福といのちである(創2:17)
神の戒めを受けるためには信仰がなければならないし、
信仰を得るためには生きた者とならなければならない
それゆえ、
人を生きた者とされた(Ⅰコリント15:45)
生きた者となった人は万物の霊長である(創1:26~27)
神は生きた者となった人に
祝福といのちを命じられたが、これが契約である(詩105:8)
初めの契約は祝福であり、この地で得るものである(詩105:9~10)
新しい契約はいのちであり、天で得るものである(ヨハネ3:16)
祝福は律法によるが、
いのちは真理による(ヨハネ1:17)
祝福を受けるためには初めの契約の中に入って来なければならないし、
いのちを得るためには新しい契約の中に入って来なければならない
祝福を受ける者はアブラハムの子孫である
いのちを得る者は
イエス・キリストの人である
◌ それゆえ、
祝福を選びなさい
祝福を選ぶためには初めの契約の戒めを守りなさい
◌ いのちを選びなさい
いのちを選ぶためには
イエス・キリストを信じて、新しい契約の戒めを守りなさい
◌ 神の戒めがなければ、
神の祝福といのちを得ることができないが、
その戒めを選ぶのであれば、祝福といのちを得る
※ 神の戒めを拒むのであれば、
祝福をいのちを得ることができない
祝福といのちを選ぼう
祝福といのちを選びなさい (申命記 30:15~20)
肉体のための祝福と霊魂のためのいのち
神は祝福といのちを与える方でおられます。「祝福といのち」という言葉を聞くと、この世の人々は普通、物質的な豊かさや肉体の呼吸を考えます。霊的な実状を知ることができない者はその程度の常識にとどまっていますが、神から施される祝福といのちの価値はそのような水準をはるかに超えています。
神から与えられるいのちは肉体の命、肉体の呼吸とは異なります。呼吸がなければ、肉体が存在することはありませんし、肉体がなければ、人格が存在することはありません。キリスト者は普通、人を指して「霊魂」といいますが、この「魂」という言葉には呼吸、肉体、そして、人格という意味がすべて含まれています。本来、人は獣や昆虫と同じように呼吸が絶えるのであれば、それ以上、存在することができません。しかし、神は最初の人アダムに霊を与え、それによって生きた霊とされました(創2:7)。もう一度言うと、魂に霊を付与して霊魂とされたのです。
アダムが選ばれて生きた霊となったのと同時に、その当時、この世に存在していた残りの人はすべて脱落した者となりました。聖書は彼らを指して「ネフィリム」といいました(創6:4)。ネフィリムには霊がなかったために、その魂は呼吸が絶えるのと同時に消えてなくなるしかありませんでした。しかし、生きた霊は命が尽きたとしても、その魂が霊によって永遠に存在することができます。それゆえ、生きた霊となった人にとっては肉体も重要ですが、それよりもはるかに霊が重要です。
神は人の肉体のために「祝福」を与えられました(創 1:28)。そして、肉体の食物として地の産物を与えられました(創 1:29)。しかし、人の霊魂はそのようなものによって生きるのではありません。人の霊魂に必要なものは神から来るいのちです。
祝福を与える戒めといのちを与える戒め
それでは、神から与えられる祝福といのちはどのようにして人に伝えられるのでしょうか? 病原菌を抑制する効力が薬物を通して人の体内に供給されるように、神から与えられる祝福といのちは御言葉を通して人に供給されます。そして、薬物を体内に投与するために注射針が使われるように、神の御言葉は戒めというかたちをもって人に臨みます。戒めとして臨むのであれば、人は従順と不従順の中からひとつを選択することによってそれに反応するようになります。
聖書に記録された御言葉は「祝福」を命じる御言葉と「いのち」を命じる御言葉という2つに区分されます。祝福を命じる御言葉に従うのであれば、祝福を受けますし、いのちを命じる御言葉に従うのであれば、いのちを得ます。神の御言葉に従って十分の一と献金をささげるのであれば、それによって祝福を得るのであって、いのちを得るのではありません(マラキ3:10)。いのちを得させるために私たちに与えられた戒めはイエス・キリストです(ヨハネ14:6)。
イエスが来られる前に、イスラエルの人々は律法の支配を受けていました。彼らは律法を守るときに祝福を受けました。もちろんその祝福は肉体の祝福でした。律法が肉体の規定であったためです。神が人の霊魂のために律法の代わりに与えられた新しい戒めはイエス・キリストです。律法は「守りなさい」といって与えられた戒めでしたが、イエス・キリストは「信じなさい。」といって与えられた戒めです。律法を守って肉体が祝福を受けたとしても、それによって地獄の刑罰を避けることはできませんでした。地獄の刑罰を受けないで天国に入って行き、永遠のいのちを享受するためにはイエス・キリストを信じなければなりません。
肉体の命はいのちと異なります。肉体の命を長く維持するのは肉体が受ける祝福の一部です。人々はこの地で肉体の命を長く維持することを重視します。しかし、それよりもはるかに重要なのは永遠のいのちを得ることです。
イエスはこのようなたとえを語られました(ルカ12:16~21)。ある人が自分の地から収穫した多くの作物を見ながら「このように多くの作物を蓄えておくためにはもっと大きな倉庫を建てなければならない。これから数年間は何の心配もなしに安心して暮らすことができるであろう。」と考えました。すると、神は彼に向かって「愚か者。お前の魂は今夜、取り去られる。そうしたら、お前が用意した物はいったい誰のものになるのか?」といわれました。
今日、教会生活をする者の中にもこのような事例を発見することもあります。ある人が40、50年間、苦労して、ようやく家を建てました。しかし、その家に入居してすぐに癌が見つかり、数日後にこの世を離れてしまいました。名誉や地位、権力やお金、このようなものはしばらくの間だけ手にすることはできますが、いつまでも手にしていることはできません。このようなもののためにひとつしかない生涯を使い果たしてしまうというのはまことに愚かなことです。
ヨハネの福音書3章16節は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」といいました。神が私たちにイエス・キリストを与えてくださったのは肉体の命が尽きたとしても失うことがない永遠ないのちを得させるためでした。
人本主義の宗教と神本主義の信仰
この世にはさまざまな宗教が存在します。宗教を通して人々は一定の規範に従って修養を積み、この地で心の平安を維持し、神秘的な力を受け、自分が図ることをうまくいかせようとします。イエス・キリストがこの世に来られる前に律法の支配を受けていた者の姿からもそのような宗教人の特徴を発見することができます。しかし、私たちはイエス・キリストを信じる者です。
神がこの地にイエス・キリストを遣わされたのは人にこの地で高い水準の生涯を送らせるためではありませんでした。人が律法を守ろうとしてどんなに努力をしたとしても、また、修養を積もうとしてどんなに節制したとしても、結局は地獄に行くしかありません。神はイエス・キリストを遣わして人類の罪を贖わせました。そして、その事実を信じてイエス・キリストの名によってバプテスマを受ける者に救いを得させました。バプテスマを通して私たちは地獄に行かなければならなかった古い人を葬り、神のひとり子でおられるイエス・キリストと結びつき、それによって神がその方のために備えられたものをその方の中でともに享受するようになりました。
宗教にはそれぞれ経典がありますが、その中のどの経典もそれを信頼する者から「いのちの書」と呼ばれることはありません。しかし、聖書はいのちの書です。創世記からヨハネの黙示録まで聖書に含まれている66冊はすべていのちについて語っています。それゆえ、聖書のどこを広げたとしてもそこには血があります。レビ記17章11節は「いのちとして贖いをするのは血である。」といいました。旧約聖書に記録されたのはイエス・キリストの血についてのしるしですし、新約聖書に記録されたのはイエス・キリストの血についての証しです。聖書は墨で書かれた本ではなく、血によって書かれた本です。その本が紹介するのはこの世が与えることができない永遠ないのちです。
多くの人が信仰生活の意味を個人の道徳的な完成と考えます。そのような人は一定の規範に従って自分の心と行動を治めながら、心の平安を得ようとします。彼らはこの世に属した者です。その反面、真理を知る者は天に属した者です。イエスが「まことに、 まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)といわれた通りに、生まれ変わった者は天から生まれた者、すなわちいのちによって生まれた者です。
初めの契約の戒めと新しい契約の戒め
イエス・キリストが十字架で血を流して死なれたのは初めの契約が人にいのちを与えることができなかったためです。人が初めの契約に属した律法の前で得たのは結局、呪いと死だけでした。律法の代わりに良心を頼る者も同じでした(ローマ2:14~15)。ある人は良心によって生きることをキリスト者の本分のように考えますが、良心の役割は律法と同じように人を罪に定めることであって、救うことではありません。
どんなに「私は律法を徹底的に守ってきた。」、「私は良心をもって生きてきた。」と主張したとしても、それはその人の主観的な主張に過ぎません。律法と良心の前で罪に定められない者は誰もいません。それゆえ、ローマ人への手紙3章9~10節は「私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。」といいました。
イエス・キリストは初めの契約が要求するところをすべて満たし、新しい契約を立てられました。新しい契約が私たちに要求するのは律法と良心の支配を受けることではなく、神から遣わされたイエス・キリストを信じて永遠のいのちを得ることです。イエス・キリストは私たちが新しい契約を体験してその中にとどまることができるように聖霊を遣わしてくださいました。それゆえ、これからは聖霊に従わなければなりません。
イエス・キリストを通して施された恵みを拒んではいけません。律法に逆らった者には悔い改めの機会がありましたが、聖霊に逆らった者には悔い改めの機会がありません(マタイ12:31~32)。イエス・キリストを死んだ者の中から生かされた神は将来、私たちの中におられる聖霊によって私たちを生かしてくださいます(ローマ 8:11)。それゆえ、聖霊に満たされなければなりません。
信仰の根幹は人の倫理的な完成を図る人本主義ではなく、神の御心を知ってその方を喜ばせる神本主義にあります。キリスト教会はこの世から迫害を受けます。人本主義的な宗教生活にとどまっている者は迫害の前で虚しい信仰を現すようになります。その反面、神本主義的な信仰をもつ者はどのような迫害が襲ってきたとしてもその道から逸れることがありません。
初めの契約の戒めを守るのであれば、肉体が祝福を受けます。しかし、それに気を取られて、霊魂が享受しなければならないいのちを放棄してはいけません。律法と良心の前で義とされようという試みを放棄してください。イエス・キリストを迎え入れて、その方から与えられる恵みを受けてください。そのようにすれば、霊魂が救いを受け、イエス・キリストに与えられた栄光をともに享受するようになります。その永遠の恵みを受けるために祝福を放棄するしかないのであれば、むしろそのようにしてください。永遠のいのちを選んでください。子孫たちにも永遠のいのちを選ばせてください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 5. 20 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
春になって木々が葉を出して空を覆う頃、忠清南道の礼山にあるサルモク山に向かう道で主に召された。そのときから伝道者としてひとつの道を走ってきながら、いつの間にか56年が過ぎた。半世紀が超えてしまったのである。
これまで全国各地で御言葉を証ししながら、多くのしるしを見て、聖徒から多くの愛を受けてきた。私のような者が王が受ける待遇を受けてきた。私はただ聖書一冊をもって、全国を飛び回りながら働いてきた。行く先々で一度も汗を流さないことがなかった。寒い冬にもシャワーを浴びたように全身に汗をかいた。黒い背広には常に塩によって白い絵が描かれた。汗びっしょりになった下着はそのままカバンに入れて、家にもち帰った。
その間、私は自分がすべきことをはっきりと悟った。私がリバイバル集会を導くときに現れたしるしと不思議はまことにすごいものであった。また、聖書でこそ見ることができた迫害も激しかった。それゆえ、私は「韓国キリスト教会の中でこれが問題である。」と悟って、「生涯、私がすべきことを見つけ出した。」と考えた。
すべての教会が聖書通りに生きようとする。しかし、聖書で主イエスが約束し、今も天から注がれる大きな賜物や力をいつの間にか排除している。それが異なるのである。私は他の教会や教団、彼らの教えや主張を否定しない。しかし、ただ彼らが捨てたその力の普遍的な働きを再び取り戻して韓国教会に返したいのである。
一日もこの思いに後悔したことがない。命を尽くして、聖霊の賜物とイエス・キリストのしるしだけは普遍化させなければならないというのが私の使命である。それゆえ、誰かから迫害や無視を受けたとしても、悪口を言われたとしても、私は意に介さないで、ただ「聖書にある通りに、主イエスが命じられた通りに、御言葉があるところには必ずこのような働きがなければならない。」と証ししてきた。
聖書が「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(Ⅰコリント4:20)といったので、当然である。聖書が「主は彼らにともに働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされた。」(マルコ16:20)といったので、御言葉を捨ててはいけない。
私は生涯、自分が疑う御言葉を伝えたことがなかったし、自分が信じない御言葉を教えたことがなかった。私に集められた霊魂をひとりも悪魔に帰らせることはできない。私は命を差し出して働きながら証ししてきた。生涯、一度もこの道で変わることはなかった。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室