
自分を捨てなさい
(マタイの福音書16:21~28)
神は
唯一のいのちでおられる
その方が
神のいのちを人類に与えようとして、
イエス・キリストを遣わされた(ヨハネ3:16)
イエスは十字架で血を流された御言葉であり、
私たちのいのちであり、永遠のいのちである(黙19:13)
イエスがこの世に来られたのは死ぬためであった
イエスが死ななかったのであれば、血を飲むことができなかった
血がなかったのであれば、赦しもなかった(ヨハネ6:53~55)
イエスがなさる働きは人の思いではなく、
神の御心である(マタイ16:23)
神がなさる働きである
信仰は人の思いをなすものではなく、
神の御心を尊重して従うものである
人のことと思いを考えて
神の働きに敵対するのはサタン的である
神の働きはその方の御心からだけ出て来る
人の常識と正反対の道でもある(ヨハネ14:6)
人の常識によって真理を否定するのは
神の働きに逆らうことであり、サタン的である
○聖霊によって信じ、
聖霊によって望みをもとう
神の働きは永遠のいのちの道である
○教会の働きは人の思いによってするものではなく、
神の御心によってだけしなければならないものである
神の御心はただ御言葉にある
○神の御前で謙遜でなければならないし、
神の御言葉の前で謙遜でなければならないし、
聖霊の御前で謙遜でなければならない
※自分の良心が
神の働きに逆らうこともある
神の御心は必ずなされなければならない
自分を捨てなさい (マタイの福音書 16:21~28)
重要なのは命ではなく、いのち
神は唯一のいのちでおられます。この世の人々は肉体の命をいのちと誤解します。しかし、命といのちは異なります。聖書の原語を調べてみてもそうです。「命」に該当するギリシア語の「プシュケー」には「息」という意味がありますが、これは「息が絶えると、命はそれ以上、存在することができない。」ということを意味します(マタイ16:25)。いのちはそのような命とは異なるものです。
最初の人であるアダムには本来、霊がありませんでしたが、神は神のいのちを受けることができるように彼に霊を注ぎ、生きた霊とされました(創2:7)。生きた霊は神のいのちを受けることができる存在です。神は生きた霊に御言葉を与え、それによって神のいのちを得させました。
いのちがあるというのは命があるという意味ではありません。命はどんなに長かったとしても120年以上、もつことができませんが、いのちは永遠にもつことができます。それゆえ、私たちが求めなければならないのは命ではなく、いのちです。私たちはいのちを得ることができなかった霊魂がどのような呪いを受けるのかということを具体的に体験しています。「私の名によって悪霊を追い出しなさい!」というイエスの命令に従って悪霊を追い出すのであれば、悪霊が自分の正体を現すのを目撃することができます(マルコ16:17)。悪霊が不信者の死後の存在であることを否定しようとする者もいますが、私たちがそのような体験を通してはっきりと知ることができるのは「いのちを得ることができなかった者は永遠に取り返しのつかない呪いを受ける。」ということです。
その反面、イエスの血を頼った者はいのちを得ます。イエスは「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、あがないの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)といわれました。その方がこの世に来られたのは私たちに自分の血を与え、神のいのちを得させるためでした。どうして神は私たちにいのちを与えようとされるのでしょうか? それは神のいのちを所有した者だけが将来、永遠な体をもって天に入って行くためです。
神は私たちにこれを信じさせ、その信仰に印を押すために聖霊を遣わされました。エペソ人への手紙1章13節は「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」といいました。聖霊を受けたというのは「神のいのちが私たちの中にあるという保証を受けた」ということです。これについてコリント人への手紙第二1章22節は「神はまた、 確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」といいました。
イエスに従うということ
イエスが自分がエルサレムに行って多くの苦しみを受け、殺され、よみがえるということを弟子たちに語られたときに、ペテロは「主よ。神の御恵みがありますように。そのようなことがあなたに起こるはずはありません!」といいました。彼はイエスが語られる御言葉をしっかりと聞いていませんでしたし、イエスがよみがえられるということは考えることもできませんでした。イエスはペテロに「下がれ。サタン!」といわれました。神の御心を理解することができないのであれば、このように自分でも知らないうちに神の敵となることもあるのです(マタイ16:21~23)。
イエスは続いて弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、 自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)といわれました。自分を捨てるというのはどのような意味でしょうか? 人には守らなければならない義務があります。子どもを養育しなければならないという親としての義務、親に仕えなければならないという子どもとしての義務、妻を顧みなければならないという夫としての義務などがそれです。しかし、このような義務よりも神に仕える義務を優先させるのが、イエスに従う者が備えなければならない前提条件であるというのです(マタイ10:37~38)。
信仰をもつのはこの地で平安な生活を享受するためではありません。律法は肉体の規定であるために、それを守るのであれば、この地でその報いを受けることができます。しかし、イエスが来られたのは私たちの肉体に益を図るためではなく、霊魂にいのちを与えるためでした。婚礼でぶどう酒を作ったのも(ヨハネ2:4)、空腹な者にパンを分け与えたのも(ヨハネ6:26)、漁に失敗した漁師たちに魚を取らせたのも(ルカ5:4)、すべてその方が来られた目的ではありませんでした。その方が十字架で死ぬことによって私たちに与えようとされたのはその方の血でした。
私たちはイエス・キリストの血によって罪から解放され、永遠のいのちをもつようになりました。これを知るのが信仰の基礎です。ある人は信仰生活をしながら祝福を受けて良い家を買ったと自慢します。しかし、良い家で暮らしはじめたのちにそれを十分に享受することができないままこの世を離れてしまう者もいます。永遠なものでないのであれば、自慢すべきものはひとつもありません。私たちが本当に自慢すべきものはイエス・キリストの血です。
聖餐の意味がどこにあるのでしょうか? コリント人への手紙第一11章26~27節は「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」といいました。イエス・キリストの血を飲んで記念したとしても、他の人にそれを伝えないのであれば、その聖餐はその人にとって無意味であるだけではなく、むしろ苦難をもたらすのです。
自分を捨てる生涯
信仰生活は自分を捨てる生活です。バプテスマを受けた者は自分を葬った者です。コロサイ人への手紙2章12節は「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」といいました。自分を葬ったというのは自分の古い人を葬り、自分の名、自尊心を葬ったということです。また、ガラテヤ人への手紙5章24節は「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」といいました。人ならば誰でももっているのが情欲や欲望ですが、それさえも克服してイエスに従うのがバプテスマを受けた者の姿です。
イエスは苦難の杯を過ぎ去らせてほしいと父に祈りながらも、最後には「私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください!」といって自分の思いを否定しました(マタイ26:39)。神の御子さえも父の御心をなすためにそのようにされたのに、ましてや私たちはどのようにしなければならないでしょうか? イエスの弟子たちにとって自分を捨てることは必須でした。舟で網を繕っていたヨハネとヤコブはイエスに召されたときに、父を雇い人とともに舟に残して、イエスに従いました(マルコ1:19~20)。徹底的に自分を捨てたのです。
イエスに従う者はその名が傷つけられることもあります。これは神の御子が先に経験されたことです。イエスという名には自分の民を罪から救う者という意味があ りますが、神の御子であっても罪人を救うためには呪いや苦難を受けなければなりませんでした。それゆえ、イエスという名はこの地で呪いや苦難を避けることができない名です。神の御子がその名をもって現れたのちに、この世は続けてその名を呪っています。
神を愛そう
自分を捨てるキリスト者の生涯は主日に絶頂を迎えます。主日には個人の私的なことを後回しにして神の国の働きを優先させなければなりません。神の御前でささげる礼拝を英語でサービス(service)といいます。このように礼拝は奉仕です。みなさんは主日に奉仕をしているでしょうか? モーセは安息日を守らない者に石を投げなさいといったほど聖日を重視しました。ましてや万物の主でおられるイエス・キリストの日に礼拝だけをささげて教会を脱け出し、私的なことを図るのであれば、神を喜ばせることができるでしょうか?
神は私たちが心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、その方を愛することを願っておられます(マルコ12:30)。神はすでにそのような愛をもって私たちを愛してくださいました。これからは私たちがそのような愛をもって神を喜ばせる順番です。そのためには自分を捨てなければなりません。どのようにして自分を捨てるのでしょうか? 私たちの生涯を支配するのが第一にも、第二にも、第三にも神でなければなりません。
信仰を増してくださいという弟子たちの要求に、イエスは「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:7~10)といわれました。
この御言葉からも知ることができるように、自分のものを求めないことこそ、しもべの特徴です。これはイエス・キリストの御前で私たちが取らなければならない姿でもあります。何をするにしても自分を考えないで神を愛すること、これが神本主義信仰をもつ者の姿です。第一にも、第二にも、第三にも神でなければなりません。主日一日だけでも完全に自分を捨てて奉仕をしましょう。神はそのような人を高められます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 5. 27 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
誰かが私に「半世紀以上、牧会をしてきた感想」を尋ねるのであれば、私は一言で答えることができない。ただ「心が痛む」というだけである。私は主の恵みによって牧会者となったのちに伝道や教会開拓、教会成長、牧会、神学校、弟子養育、宣教をしてきたが、私の胸にはとても深い傷があるだけである。
主の恵みを多く受けたので、その恵みを忘れないで死ぬ日まで主に従おうとする。人間にも感謝することが多くあった。しかし、主の尊い血によって心をきれいに洗い、聖霊によって平安を得た者の中には恩知らずな者も多かった。むしろ不信者にも劣る者も多かった。ただ涙だけが出て来る。
牧会が何かって? 心が痛むのが牧会である。自分に足りないところがあって無視を受けることもあるが、人々の心はとても冷たい。今は元老となったが、心が痛むことはひとつやふたつではない。実際には私が愚かなためである。神が天で願われた働きをしているという喜びが私の霊魂に満ちているために、霊的には幸せであるが、人間的にはとても寂しい。心が痛むのが、心が痛むのが牧会である。
それを顔に出さないでただ牧会に力を尽くし、肉体が土に帰る日まですべてを抱えてもっていくつもりであったが、それでも心があまりにも痛んで耐えることができない。どうしてそのように心が痛むのかと尋ねられるのであれば、私は答えることができない。人に接するのが恐ろしいし、特に人を愛するのがあまりにも恐ろしい。むしろ愛さなかったのであれば、このように心が痛むことがなかったのに、あまりにも愛してしまったために心が痛む。私は結局、このように心を痛めながら、この世を離れるようである。 そして、この世のことをすべて忘れ、復活を待ち望みながらパラダイスで平安に休むようになる。
祈りながら涙を流して続けて泣くのもただ心が痛むためである。木の根のように地中に埋まったまま四季を過ごしながら、変わっていくこの世のことに関係をもたなければいいのだが、心が痛むことが耳に入って来る。人に会うのが牧会であるが、人に会うのも恐ろしいし、電話がかかってくるのも恐ろしい。話があるという聖徒の要請があったとしても心に圧迫を受ける。このような生涯を続けて送っている。
主はこの世にいたときにどんなに心を痛められたであろうか? 愛する弟子が口づけをしながらも二心を抱いているのを知ったときに、どんなに心を痛められたであろうか? それで、「私は悲しみのあまり死ぬほどです。」といわれたが・・・。この世で幸せを探そうとするのは愚かなことではないか。主イエスがすでに経験されたこの世のために、昔の預言者たちに施されたその愛と恵みが今も同じように施されている。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室