
謙遜になりなさい
(ペテロの手紙第一5:1~11)
神は
高い父でおられる
その方が
ふところにおられた御子を愛して相続者とされた(へブル1:2)
御子は自分を父と等しいとは考えないで、
謙遜に自分を低め、人となられた(ピリピ2:6~8)
その方が肉体として臨まれたのは死を味わうためであった(へブル2:9)
これは最も高い方から最も低い者となり、
父に従って服従するためであった
これはイエス・キリストの心である
イエス・キリストの心は謙遜である(ピリピ2:5)
謙遜は最も低い心である
いのちは最も高い方の権勢である
主のしもべはいのちの主人に仕える者である
そのいのちの主である方から低い者となって、
主人に仕えられたのである
神はいのちの極致でおられる
「いのちがあるのか?」というのは
「神がおられるのか?」ということである
主のしもべの労苦は
神を高めることである
◌主のしもべになるというのは
謙遜な心をもつということである
主人としもべは相対的に極致をなす
◌しもべの主人は必ず来られる
そのとき、冠を受けようとしなければならない
主人の栄光は主人に帰さなければならない
◌謙遜になろう
主イエスの心をもとう
主の願いである
※ 信者は謙遜な聖徒である
謙遜であってこそ、主の愛を受ける
謙遜は力の基礎である
謙遜になりなさい (ペテロの手紙第一 5:1~11)
三位一体の信仰
神は高い父でおられます。私たちは神が唯一の方でおられるということを信じながらも、同時に父なる神と御子と聖霊の存在を認めます。このような教理を指してよく「三位一体」といいますが、これはキリストに属した全世界の教会が共有している、キリスト教の基本教理であるということができます。
三位一体のほかにキリスト教の基本教理をさらにひとつ挙げるのであれば、「イエス・キリストに対する信仰による救い」を挙げることができます。このような基本教理を共有する教会であるのならば、たとえ教理的に異なる面があったとしても、それによって異端の烙印を押すのは正しくありません。
キリスト教の基本教理であるために三位一体を正確に理解することが重要ですが、そのためには聖霊の助けを受けなければなりません。聖霊は父と同じように目で見ることができません。しかし、イエスを信じる者は聖霊を迎え入れることができますし、また、聖霊を迎え入れた者は自分の中にイエスがおられるという事実を知ることができます(Ⅰヨハネ3:24)。
イエスが自分の中におられるという事実を知らない者は教会に通っていたとしても安心することができません。コリント人への手紙第二13章5節は「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―」といいました。旧約時代のイスラエル民族は神から律法を受け、それを守ることによって肉体の救いを体験しましたが、それによって霊魂が救いを受けることはありませんでした。これと同じように、どんなに教会に熱心に通っていたとしても、自分の中にイエスがおられるという事実を聖霊によって悟ることができないのであれば、神を知るという告白はむなしく響くしかありません。
イエスが神でおられる
「神」という言葉を聞くと、みなさんは誰を考えるでしょうか? 神が御子を遣わして自分を現されたにもかかわらず、ほとんどの人は神を呼ぶときに目に見えない神を考えますし、さらには想像力を動員して仮想の存在を思い浮かべたりします。これは神秘主義からはじまる危険な現象です。
神はモーセをエジプトのパロの前で神とされました。これについて出エジプト記7章1節は「主はモ―セに仰せられた。『見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、」といいました。また、神はモーセをイスラエルの民の前でも神とされました。イスラエルの民がモーセの言葉を聞かなかったときに、神はそれを「神の御言葉を聞かなかった」と見なされました。
イエス・キリストが現れたので、今、私たちはその方が神でおられるということを認めなければなりません。イエス・キリストを超越して神を見ることはできません。その方が「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)といわれた通りに、その方を見たというのは神を見たということですし、その方を信じるというのは神を信じるということです。それゆえ、聖書はその方を指して神の本体のかたちといいました(ヘブル1:3)。
初めに御言葉が神とともにありましたが、神とともにあったために、その御言葉が神です(ヨハネ1:1)。その御言葉によって万物が造られましたが(ヨハネ1:3)、その御言葉が肉体となってこの世に臨まれました(ヨハネ1:14)。その方がイエス・キリストでおられます。私たちはその方によって神である御言葉を目で見て、耳で聞いて、手で触りました(Ⅰヨハネ1:1)。
私たちは「神」という言葉を聞くときに自ら想像した存在を思い浮かべる必要がありません。私たちの神はイエス・キリストでおられます。イエス・キリストはインマヌエルの神でおられます。旧約時代の人とは異なり、私たちは「神が私たちとともにおられる」という言葉通りに、目の前におられる神を見ることができるようになりました。
イエスが神でおられるという事実はヨハネがその方にバプテスマを授ける前には誰も知ることができませんでした。ヨハネのバプテスマは悔い改めさせるバプテスマであり、彼の前に出て来た者は誰でも罪を告白しなければなりませんでした。しかし、イエスは彼の前に来たとしても罪を告白されませんでした。悔い改めることがない義人を待っていたバプテスマのヨハネはその方が自分が待っていた方であるということを知りました。
バプテスマのヨハネはイエスに「私こそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか?」といいました。これに対してイエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての正しいことを実行するのは私たちにふさわしいのです。」 といわれました(マタイ3:15)。どうしてイエスがバプテスマを受けなければならなかったのでしょうか? その方はバプテスマを通してアブラハムとダビデの子孫という身分を葬り、神から「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」という証しを受けられました。
私たちの信仰には神の義がなければなりません。神の義がないのが罪です。それならば、人が神の義をどのようにしてもつことができるでしょうか? 「イエスが私の神でおられる。」と認めなければなりません。イエスをただ十字架で死んだ方と考えてはいけません。人の胎から出て来た者を神と認めるというのは常識的に納得しがたいことですが、神はそれを義とされました。
イエスを信じなさい
ヨハネの福音書3章16~18節は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを 持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」といいました。
イエスが神のひとり子でおられるというのはその方が神と等しい方でおられるということですし、その方が神でおられるということです。イエスが神でおられるということを認めない者はどんなに「神よ! 神よ!」と呼んだとしても永遠のいのちを得ることができません。救いと裁きはイエスが神でおられるということを信じるのかにかかっているのです。
律法の下にいた者は獣を取っていけにえをささげましたが、それによって彼らの霊魂の罪が消えることはありませんでした。それゆえ、彼らは将来、裁きを受けなければなりません。彼らは善悪を知らせる良心の下にいたために、将来、善悪を基準として自分の行為に対して裁きを受けるようになります。また、その裁きを通過して救いを受けた者は天に入って行ったとしても、天使のように低い水準の待遇を受けるようになります。これはイエスが「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ11:11)といわれた通りです。また、その裁きを通過することができなかった者は硫黄の火の池に投げ込まれるようになります。
イエス・キリストがこの世に臨まれたのちにはその基準が変わりました。イエスを信じるのかによって救いと裁きが決められるようになりました。そして、信じない者は将来、裁きを受けるのではなく、すでに裁きを受けました。それゆえ、今、イエスを信じない者は律法の下にいた者よりもはるかに不幸です。律法の下にいた者は裁きを受ける機会が残されていますが、イエスを拒んだ者は肉体を離れたのちには機会を得ることができません。彼らは死んで悪霊となり、時が来ると、底知れぬ所に行き、結局、硫黄の火の池に投げ込まれるようになります。
イエスの焼き印をもった者よ、イエスの名にひざまずこう
ヨハネの福音書12章49~50節は「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」といいました。
ある人が伝道者の言葉をそれ以上、聞きたくなくて「わかった。もう信じるので、やめてくれ。」といったとしましょう。そうだからと言って、その人が救いを受けるわけではありません。救いを受けるためにはイエスが神でおられるということを知らなければなりません。イエスが神でおられるということを本当に知るのであれば、イエスの御言葉を命令として受け入れるでしょう。もう一度言うと、イエスを自分の主人として、また、同時に自分をイエスのしもべとして認めるでしょう。
主人とはどのような者でしょうか? パウロは「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17)といいました。「焼き印」とは主人が誰であるのかを示すために獣やしもべの体に押されるものです。パウロが自分にイエスの焼き印があるといったのは自分がイエスのしもべであるという事実を強調したのです。彼がイエスの御言葉に徹底的に服従したのは自分をイエスのしもべと考えたためです。私たちはイエスの血によって買い取られた者であり、聖霊を迎え入れることによって永遠に焼き印を押された者です。それゆえ、これからはイエスの御言葉に服従しなければなりません。
ヨハネの福音書17章3節は「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」といいました。神を知るといったとしても実際にイエス・キリストを知らないのであれば、その人は永遠のいのちを得ることができません。イエス・キリストは父なる神の御前で謙遜に自分を低められた方です(ピリピ2:5~11)。その方は自分を父なる神と等しいとは考えないで、自分を低めて人となり、この地に来て父なる神に十字架の死にまで服従されました。これに対して神はその方を高めて、すべての被造物をイエスの名の前にひざまずかせました。
どんなに敬虔な姿をもって礼拝をささげたとしても敬虔の力がないのであれば、何の意味もありません。敬虔の力がどこにあるのでしょうか? イエスの名にひざまずくのが敬虔の力です。多くの人が敬虔な姿は取りますが、イエスの名にひざまずきません。人の目によってはその人が信仰人であるのか、宗教人であるのかを知ることができませんが、宗教人はイエスが神でおられるということを認めません。そのような者はすでに裁きを受けたのです。
まことに神を知るのであれば、イエスが神でおられるということを認めますし、イエスの御言葉を戒めとして受け入れます。永遠のいのちはそのような人にあります。イエスが神でおられるということを信じるのかが義の基準です。自分にイエスの焼き印があるということを覚えましょう。父なる神の御前で自分を低められたイエス・キリストを深く知って、その方の御名の前にひざまずきましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 6. 17 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
目を覚ますと、思い出す、なつかしい顔。彼らに会うことができなくなってからすでに1年が過ぎた。彼らは視無言をとても愛していたし、視無言も彼らをとても愛していた。誰がそのような関係をこのような状況にまで陥らせたのか。考えるだけでも悔しいし、残念である。
視無言は傷ついた彼らの心霊を慰める時間さえも得ることができないで、急速に過ぎていく時間だけを惜しんでいる。おそらくこの地で再び顔を合わせることができないようであり、不安である。友とは愛する人をいう。彼らはまことの友であった。友は互いの心を知り、互いの過ちも知るが、その愛が妨げられることはない。それで、イエスも「あなたがたは愛する羊であり、友である。」といわれた。しかし、振り返ってみると、彼らはまことの友ではなかったのであろうか? ただの公的な関係に過ぎなかったのであろうか?
たとえ公的な関係として結ばれていたとしても、その心を知って、その心を探って、互いにその中にある霊魂に会った友ではなかったのか。私は愛する友の霊魂に会おうと力を注いできたし、彼らも私の霊魂の汗を見てきたはずである。しかし、どうして急に敵となったように、互いに会うことができないのであろうか。
視無言は初めから彼らに自分の信仰を伝えた。それで、彼らは真理を知ったといって喜んだ。しかし、これは贅沢であったのだろうか。彼らから「いんちき」、「異端」などという言葉が出て来るので、心がとても痛む。そうだからと言って、異端になるわけでもないのに、異端といっている彼らはどこから、誰からそのような大胆さを得たのであろうか? バプテスマもひとつ、主もひとつである私たちがどうしてこのように分裂してしまったのか。ただ心が痛む。
視無言はただ天に満ちているものを友に伝えて食べさせたいし、彼らを祝福したい。しかし、彼らは耳を閉ざして近づいてこようとしない。その隙を喜ぶ者は敵だけであるし、その敵にさらに多くの機会を与えるだけである。この世の法によってだけ対話をするといって血眼になって大声を上げているので、仕方なく「カイザルのものはカイザル」に、そして、「神のものは神」に導かれていくしかない。
愛する友よ。私はまことに心を開いて待っています。他の人に悪口を言うのは真理ではありません。偽りは真理ではありません。みなさんの耳にどのような声が聞こえているのでしょうか? イエスは「真理がないのであれば、人を殺そうとする。」といわれました。私たちは真理を知って信じる兄弟姉妹です。視無言の口からはただ真理だけが語られます。真理を聞いてこそ、霊魂が生き返ります。なつかしい私の友よ。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室