神に帰りなさい
(マラキ書3:7~12)
神は
造物主でおられる
その方が
御子のために万有を創造し、
御子を相続者とされた(へブル1:2)
それゆえ、
御子が実を結ぶことができなかったいちじくの木を
叱られたときに、その木は根まで枯れた(マルコ11:14)
その方は血を流すために来たのちに
よみがえって天に上られたが、再び来られるときには(使1:11)
この世もよみ(宇宙)もすべてなくなってしまう
これは御子の働きがすべて終わったのちにはそれらが
それ以上、この世に残る必要がないためである(黙21:1)
それゆえ、
まだ御子の働きが残っているときに
その方に帰らなければならない(ヨハネ6:38~39)
神は「私のところに帰れ」と
いって待たれるが、帰らないことによって
この世は呪いを受ける(マラキ3:7)
十分の一はその方に帰る証しである
聖霊によってだけその方に帰ることができる(ローマ8:11)
○神に帰ろう
神のものをささげて、その方に帰ろう
神に帰らないのは呪いである
○十分の一と誓願したものはその方のものである
神のものはその方の倉にたくわえなければならない
神のものを着服するのは盗みである
○霊魂もその方のものであるために、その方に帰らなければならないし、
物質もその方のものはその方に帰らなければならない
聖霊の人は必ずその方に帰る
※ 私たちの望みは復活であり、永遠のいのちである
そのときはすべてがその方に帰る
それゆえ、信仰を見せよう
神に帰りなさい (マラキ書 3:7~12)
造物主でおられる神を認める信仰
神は造物主でおられます。神は御子を相続者とし、御子のために天や宇宙、そして、その中にあるすべてのものを造られました(ヘブル1:2)。それゆえ、被造物の存在価値は神の御子のために用いられるところにあります。イエスが空腹を覚えていちじくの実を探されるときにその方の必要を満たすことができなかった木は根から枯れてしまいました。その木が被造物としての存在価値を失ったためです(マルコ11:21)。今、宇宙が存在するのも教会がその中で養育を受けているためです。将来、イエスが再び来て教会を天に連れて行かれたのちには宇宙は巻き物のように巻かれて消えてなくなります。
アブラハムの信仰はキリスト者にとってとても重要です。なぜならば、アブラハムの信仰とキリスト者の信仰はその遺伝子が完全に一致するためです(ローマ4:16)。アブラハムの信仰がもつ特性は何でしょうか? アブラハムは人々が木や石で作られた偶像を神として仕えているということを受け入れませんでした。彼は「自分に命令を下すことができる存在、すなわち自分が服従しなければならない存在でないのならば、神ではない。」と考えました。彼にとって神は自分が忠誠を尽くさなければならない「主人」でした。
私たちはアブラハムと同じ信仰を所有する者です。私たちはイエスを主人として迎え入れ、その方に服従します。私たちは「イエスには私たちに『あのようにしなさい! このようにしなさい!』と命じられる権利がある。」ということを認め、その方の命令に服従しようとします。箴言25章13節は「忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。」といいました。収穫の日、汗を流しながら休む暇もなく働いたのちに氷水を飲むのであれば、どんなに生き返ったと感じるでしょうか? そのように私たちはイエスの心を生き返らせなければなりません。
神が主人でおられるということを認める者だけが十分の一をささげます。アブラハムは「神はすべてを造られた方である。それゆえ、すべてが神のものである。私が頼っている土、水、太陽、風の中で神の所有でないものはひとつもない。それゆえ、私の手に入って来たものすべてが本来、神のものである。それらをすべて神にささげるべきであるが、私はその中で十分の一だけでも神にささげ、これを証しする。」と信じました。このようなアブラハムの信仰は今日、キリストと結びついた私たちの中にも定着しています。
十分の一は律法に属したものではない
ある人は「十分の一は律法に属したものであるが、律法が廃棄されたので、今は十分の一を守る必要がない。十分の一はレビ部族の生計のために必要であったが、今はレビ部族がいなくなったために、十分の一をささげる必要がない。」といいます。しかし、十分の一は律法からはじまったものではありません。律法はモーセを通してイスラエルに与えられたものですが、十分の一はそれよりも前のアブラハムの時代にはじまったものです。
十分の一のはじまりについて、ヘブル人への手紙7章1~3節は「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」といいました。アブラハムはこのようにさまざまな面で神の御子を連想させるメルキゼデクに十分の一をささげましたが、これは将来、彼の信仰を相続として受ける者が神の御子に向かってしなければならないことについてのしるしでした。
律法に属したものがすべて廃棄されたと考えるのも誤解です。もちろんその中には廃棄されたものもありますが、永遠に廃棄されないものもあります。たとえば、牛や羊をほふって血を流していけにえをささげることはイエス・キリストが十字架で血を流されたためにすでに廃棄されました。しかし、神に仕えること自体が廃棄されたわけではありません。神に仕えることは律法が与えられる前のアブラハムの時代にもなされました。アブラハムは神に仕え、所得の十分の一をささげました。
イスラエルの民がモーセの律法に従ってささげた十分の一はレビ部族が受けました。しかし、アブラハムの十分の一を受けたメルキゼデクはレビ部族に属さない者でした。むしろレビ部族はアブラハムの子孫であるために、アブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたときにアブラハムの中でともに十分の一をささげたということができます。十分の一はこのように律法によってはじまったものでも、レビ部族の生計のためにはじまったものでもありません。十分の一はアブラハムからはじまったものです(ヘブル7:4~9)。
ヤコブも十分の一を通して自分の信仰を証ししました。彼は兄を避けてカナンの地を離れる途中で石を枕にして眠りましたが、そのとき、天使が天まで届くはしごを上り下りする夢を見ました。その天使はヤコブが離れようとするその地が神が「アブラハムとその子孫に与える。」と約束された地であるということを知らせ、「あなたをこの地に連れ戻す。」といいました。眠りから覚めたヤコブは「神が自分を約束の地に連れ戻されるのであれば、それを『神の契約が自分を通してなされる。』という証しとして知り、所得の中から十分の一を神にささげよう。」と誓いました(創28:10~22)。
このように十分の一は律法と関係なく、アブラハムの信仰を所有する者ならば誰でもささげなければならないものです。イエスも「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。お前たちははっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実も疎かにしている。これこそしなければならないことである。ただし、十分の一も疎かにしてはいけない。」といって、十分の一が廃棄されていないということを語られました(マタイ23:23)。
心が離れれば、物質に現れる
神から心が離れた者から現れる特徴は神に物質をささげるのを惜しむということ、さらには神に属した物質を欲しがるということです。イエスはこの世にいる自分のものを最後まで愛されましたが、悪魔はイスカリオテ・ユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れました(ヨハネ13:1~2)。イスカリオテ・ユダが悪魔の考えをすぐに受け入れたのは彼の心がすでにイエスから離れていたためです。そのような彼から現れた行動は何であったでしょうか? 彼はしばしば金入れからお金を盗んでいました(ヨハネ12:6)。
神の御前で物質をささげると誓ったのちにそれを守らないというのは神との交わりに問題が生じたことを知らせる赤信号です。アナニアとサッピラは地所を売り、その代金をすべて神にささげると誓いましたが、地所を売ったのちにはそのようにしませんでした。彼らは代金の一部を隠して、残りを使徒たちに差し出しました。ペテロが「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊をあざむいて地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。どうしてこのようなことを企んだのか。あなたは人をあざむいたのではなく、神をあざむいたのだ。」といったときに、アナニヤはその場で倒れて死んでしまいました。しばらくしてから入って来た彼の妻も「地所を売った代金はそれだけです。」といい、ペテロから「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか?」と責められ、息が絶えてしまいました(使 5:1~11)。
神の御前で誓ったことをむやみに考え直してはいけません。たとえ事前に深く考えないで誓ったとしても一度、誓ったのであれば、必ずそれを守らなければなりません。箴言20章25節は「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」といいました。ある人は事業がうまくいっているときに浮ついた心をもって「神が祝福を与えてくださったために事業がうまくいっています。この事業に成功するのであれば、その収益をすべて神にささげます。」といいましたが、のちにそれを守りませんでした。その人の結末は誓願したことを守らない者に神が警告された通りでした。
申命記23章21~23節は「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」といいました。また、伝道者の書5章4~5節は「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。 誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。」といいました。
イエスに帰りなさい
神から心が離れた者は神を主人として認めません。神は「私のところに帰れ!」といわれます。人々は「どのようにして私たちは帰ろうか?」と答えます。神はこのような答えが神のものを盗んでおいて「どのようにして私たちはあなたのものを盗んだでしょうか?」と言い逃れるのと同じであるといわれました。これは彼らが十分の一とささげ物を完全にささげないということについて語られたのです(マラキ3:7~8)。
神を主人として認める者は神に帰ります。神に帰る者は神に十分の一をささげます。神のものを盗む者は神に帰らない者であり、呪いをすでに受けた者です(マラキ3:9)。呪いを受けたというのは神との関係が切れたということです。これよりも恐ろしいことがあるでしょうか? まことにアブラハムの信仰を所有しているのであれば、イエスが自分の主人でおられるということを認め、その方に帰らなければなりません。
悪魔は私たちをイエスから遠ざけようとして、もっともらしい偽りを作り出します。ヨハネの福音書8章44節は「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」といいました。そのような偽りにだまされないためには真理を知らなければなりません。
私たちの苦しい事情を推し量るような悪魔の言葉は甘く聞こえたりもしますが、結局、人を惑わす手段に過ぎません。ヨハネの手紙第一4章5~6節は「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」といいました。自分がイエスに帰った者であるのか、それとも依然としてだまされている者であるのかを確認してください。
この世に属した者は十分の一を批判します。私たちはこの世の言葉を聞かないで、聖霊が教会に語られる御言葉を聞かなければなりません。イエスに帰ってください! これ以上、主のものを盗まないで、十分の一とささげ物を完全にささげてください。十分の一はアブラハムの信仰からはじまったものであり、神が主人でおられるということを認める者だけがささげることができます。また、ささげ物をささげるのは誓ったことを守ることであり、心が神にある者だけがすることができます。惜しむことによって自分の霊魂を滅ぼさないでください。イエスが主人でおられるということを認めて、イエスに帰ってください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 7. 15 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
2018 夢山浦夏季修練会への招待
これまでの半世紀、私たちの教会は毎年、夏季修練会を開催してきましたし、教会全体がひとつの心、思いをもって参加してきました。たとえ短い期間であったとしてもそこで心を開き、声を張り上げて祈り求め、また、叫んできました。そして、それによって濁っていた心霊を浄化し、さらに良い信仰生活をしようという覚悟を新たにしてました。このために江原道、あるいは他のところを訪ねて行きながら良い場所を物色し、きつくて困難な準備をともにし、計画した通りに大きな恵みを受けてきました。
そのような不便さをなくそうとして夢山浦に聖楽院を建てて、そこで夏季修練会を開催してから15年が過ぎました。聖楽院は神から与えられた大きな賜物です。すべての人がここに来て恵みを受け、重荷を下ろした心霊をもって新たに教会生活をしてきました。まことに幸いなことでしかありません。
今回の夏季修練会はさまざまな事情によって参加することができない方のために7月24日(火)~27日(金)を夢山浦で一次修練会として進行し、7月30日(月)~8月2日(木)を世界センターで二次修練会として進行することになりました。昨年も教会を愛して自分の家庭を愛する聖徒が2ヶ所に集まって大きな恵みを受けました。私たちは主イエス・キリストの恵みを限りなく受けなければなりません。「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方が満ちておられる」(エペソ1:23)恵みを受けなければなりません。どうかすべての人が集まって神から大きな恵みを受けることができますようにお祈り申し上げます。
神から与えられる大きな恵みは霊魂だけが受けることができます。それで、「わが霊魂よ、御言葉に還ろう」という主題を定めました。私たちの霊魂は恵みを受けたとしてもさらに豊かに受けなければなりません。滝のように注がれる生ける水の川が私たちの霊魂と家庭に流れあふれなければなりません。これは信じる者が受ける聖霊の賜物であるとイエスはいわれました。
今日、私たちの教会は何よりも主の恵みを豊かに受けなければなりません。イスカリオテ・ユダは主の御前に座って真理の御言葉を聞きましたが、悪魔が入れた「イエスを売ろう」という考えに支配され、結局、献金も盗みました。教会に通っていたとしても恵みを受けることができないのであれば、誰も完全になることができません。
愛する聖楽人のみなさん! 教会を守りましょう。もう一度、リバイバルさせましょう。ともに集まり、ともに泣き、ともに泣き叫んで祈りましょう。すべての人を招待します。感謝します。
元老監督 金箕東
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室