聖霊を働かせなさい
(使徒の働き1:6~14)
神は
私たちの父でおられる
その方が
私たちに大きな賜物を与えようとして、
まずイエス・キリストを遣わして血を流させた(使2:38)
これは私たちの罪を贖うためであった
罪が贖われた聖なる霊魂に、約束された
聖霊を限りなく注ごうとされたのである(使1:4)
「聖霊が臨まれるとき、力を受ける
イエスの証人となる」といわれた(使1:8)
イエスの弟子たちはすべてガリラヤ人であった
イエスの御言葉に従って大広間に集まり、
祈りに専念していた
これはイエスの御言葉を信じていたためであり、
聖霊をまことに慕い求めていたためであり、
力を限りなく受けようとしていたためであり、
イエスの証人になろうとしていたためであった
聖霊はこのように準備された者に臨まれるし、
聖霊を受けた者を自分の者として用いられる
罪が赦されるのもその準備であるし、
全身全霊で祈るのもその準備である
○イエスの血なしには
聖霊を受けることができない
それゆえ、聖くなろう
○聖霊が限りなく注がれることを求めなさい
イエスを再び見ることができなくなった弟子たちに
聖霊が限りなく注がれた
○まことに祈るところに
聖霊が臨まれるし、力が伴う
聖霊に満たされるように求めよう
※ 聖霊が働かれないところは教会ではない
聖霊が働かれる家庭となろう
聖霊が働かれる霊魂となろう
聖霊を働かせなさい (使徒の働き 1:6~14)
公義の神が施された愛
神は父でおられます。人の場合は一般的に父親を厳しい存在として、母親を慈み深い存在として考える傾向が強いです。しかし、神を理解することにおいてそのような視点を適用するのはふさわしいことではありません。神は父性と母性を兼ね備えておられる方です。
イスラエルが律法から学んだのは神の公義でした。公義は天の御座の基であり、とても恐ろしいものです(詩89:14)。律法には赦しがありません。それゆえ、律法の下にいるというのは呪いの下にいるということと同じです(ガラテヤ3:10)。律法はエホバという名をもって現れた天使が伝えたものですが、天使は救い主となることができません。律法が現したのは神の父性でした。
律法も真理も神の御言葉ですが、律法はモーセを通して、恵みと真理はイエスを通して現れました(ヨハネ1:17)。恵みは神の賜物であり、福音を信じさえすれば、罪人であっても受けることができるものです。福音は新約時代になって初めて現れましたが、福音が伝えたのはそれ以前に律法が伝えてきた裁きの御言葉ではなく、救いの御言葉でした。
律法は公義を現しましたが、恵みは愛を現します。律法は父性を現しましたが、恵みは母性を現します。イエス・キリストの働きが母性ですし、福音が母性ですし、聖霊の働きが母性です。神は公義でおられますが、イエス・キリストを通して愛を現されました。恵みを受けなさいというのは神の愛を受けなさいという意味です。
神の愛を受けなさい
悪霊は不信者の死後の存在です。外見的にはイエス・キリストを信じる者も信じない者も大きく異なるところがありません。しかし、イエス・キリストを信じる者は霊魂が救いを受けましたし、信じない者は霊魂がすでに裁きを受けました。もちろん信じない者であっても生きている間は救いの機会が残されています。しかし、一度、命が尽きるのであれば、それ以上、機会はありません。
イエスが十字架につけられたときにその横で十字架につけられていた強盗は短い時間でしたが、イエスを頼り、それによってパラダイスに招かれました。霊魂が救いを受けた者は肉体が死んだのちにパラダイスに行くようになります。そして、イエスが再び来られるときに復活し、時が来ると、イエスとともに天に行くようになります。その反面、肉体の機会をつかむことができないで死ぬときまでイエス・キリストを否認した者は悪霊となってこの世でさまよい、時が来ると、底知れぬ所に行き、最後には地獄に投げ込まれるようになります。
私たちはこの地にとどまっている間に神の子とならなければなりません。神の子とならないのであれば、その霊魂は悪霊となるしかありません。人々の一般的な考えとは異なり、神の子となるのか、悪霊となるのかはその人がどれくらい善良に生きてきたのかということとは関係がありません。救いは倫理的な問題ではなく、霊的な問題です。また、この地で「恵みを受けた」と評価されるほど栄える生涯を送ったとしても、天国に至ることができるわけではありません。イエス・キリストを信じて頼ることによって栄えることもありますが、それは信仰の本質ではありません。
聖霊を受けなさい
神が人に与えようとされる最も良い賜物は聖霊です。神は人に聖霊を与えるために神の御子をこの世に遣わして十字架で死なせました。イエスが血を流されなかったのであれば、罪の贖いはなされなかったでしょう。そして、それによって私たちが罪の赦しを受けることができなかったのであれば、聖霊を賜物として受けることもできなかったでしょう。
人々が直面している霊的な実状をペテロが語ったときに、人々は「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか?」と嘆きました。そのとき、ペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜならば、この約束はあなたがたとその子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」と答えました(使2:38~39)。
イエス・キリストを信じる者は誰でも聖霊を受けなければなりません。そして、聖霊の支配を受けなければなりません。イエスは「私を信じる者は聖書が語っている通りに、その心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」といわれましたが、これはその方が十字架で死んでよみがえって天に上られたのちに信じる者に遣わされる聖霊について語られたのです(ヨハネ7:37~39)。
信仰生活の目的について、ある人は人格を上品に作ることであるといいますし、ある人はこの世で平安な生涯を送ることであるといいます。しかし、どんなに人格が上品になったとしても、あるいはどんなにこの世で平安な生涯を送ったとしても、霊魂が救いを受けることができないのであれば、何の意味があるでしょうか? 神が私たちに聖霊を遣わしてくださるのは私たちの霊魂のためです。
イエスは「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。」(マタイ12:28~29)といわれました。聖霊によって悪霊を追い出すのも悪霊につかれた者の霊魂を救うところに目的があるのです。
イエスがこの地におられるときに、神に会おうとする者はイエスがおられるところに行かなければなりませんでした。イエスがガリラヤにおられるのであれば、ガリラヤに行かなければなりませんでしたし、イエスがエルサレムにおられるのであれば、エルサレムに行かなければなりませんでした。また、イエスがおられるところに行ったとしても、多くの人が集まっている中でイエスの手を握ることができた者は極めて少数に過ぎませんでした。しかし、イエスが天に上られたのちには神に会うためにガリラヤやエルサレムに行く必要がなくなりました。イエス・キリストを信じる者にそれぞれ聖霊が臨まれたためです。
イエスはよみがえったのちに弟子たちに「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。」と命じられましたが、それほど聖霊を受けるというのは重要なことです。聖霊を受けていない者は第一の復活に参加することができません。神がイエス・キリストを生かされたのはイエスの中におられる聖霊によってでした。これと同じように、私たちも聖霊によって第一の復活に参加することができます。
聖くなってこそ聖霊を受けることができる
一般的に宗教は人に敬虔さを求めます。しかし、それは聖書に記録されている聖さとは意味が異なります。もしキリスト者が宗教でいう敬虔さだけを備えているのであれば、それは敬虔の姿を備えているだけであって、敬虔の実、敬虔の力を備えているのではありません(Ⅱテモテ3:5)。
たとえば、カトリックは布教活動をするときに土着化を前提とするために、信じない者の生活方式を相当な部分で受け入れます。彼らは祖先崇拝を重視する地域では祖先崇拝を教理として認めますし、酒やタバコに対してもとても寛大です。そうかと思えば、仏教は本来、無神論ですが、神々に仕える巫女とよく付き合います。彼らに敬虔の姿はあるかもしれませんが、聖さはありません。
聖いというのは区別されるという意味です。神は唯一の方でおられます。それゆえ、その方はほかの神々と区別される聖なる方でおられます。その方は「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ11:45)といわれました。主に会おうとする者は自分を聖く区別しなければなりません。
主日にはさらにそのようにしなければなりません。不信者とつり合わないくびきをともにつけてはいけません。正義と不法とにどのようなつながりがあるでしょうか? 光と暗やみとにどのような交わりがあるでしょうか? キリストとベリアルとに何の調和があるでしょうか? 神の宮と偶像とに何の一致があるでしょうか? キリスト者の生涯には敬虔の姿も必要ですが、絶対になければならないのは聖さです(Ⅱコリント6:14~16)。
神が私たちに古い人を葬らせ、私たちをキリストに結びつかせるのは私たちを聖くするためです。私たちはイエス・キリストの名によってバプテスマを受けたので、それからは不信者と区別され、罪によって死んでいた過去と区別され、裁きを受けたこの世の人々と区別されます。それゆえ、聖霊が私たちに臨まれたのです。イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と聖霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)といわれました。
聖霊を働かせよう
イエス・キリストの証人となるためには聖霊を受けなければなりません。イエスが「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:13)といわれたように、聖霊は真理でおられるイエス・キリストを証しされます。聖霊を受けた者だけがイエス・キリストを知ることができますし、その方を証しすることができますし、これを通して人々を自由にすることができます(ヨハネ8:32)。
私たちの望みは復活です。復活に参加しようとするのであれば、聖霊を受けてください。神は御子に苦難を受けさせてまで、私たちに聖霊を遣わしてくださいました。教会を建てるのは聖霊ですし、監督を立てて教会を導くのも聖霊ですし、私たちに霊的な生活をさせるのも聖霊です。イエス・キリストを証しするときにしるしや不思議が現れ、賜物と力が伴うのも聖霊がともにしておられるためです。
聖霊に頼らないのであれば、どのようになるでしょうか? イエスは弟子たちを最後まで愛されましたが、イスカリオテ・ユダは悪魔が入れた思いに心を奪われました。すると、彼からどのような変化が現れたでしょうか? 彼は神のものを盗みはじめました。神のものを盗むというのは神から断絶された者がもつ特徴です。神がイスラエルの民に「私のところに帰れ!」といわれたときに、人々は「私たちがいつあなたを離れたでしょうか?」と尋ねました。そのとき、神は「あなたがたは私のものを盗んでいる。あなたがたは『どのようにして私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』という。それは十分の一とささげ物によってである。」といわれました(マラキ3:7~11)。
神の恵みを失ってはいけません。ヘブル人への手紙6章4~8節には「聖霊にあずかる者となったのちに堕落してしまうのであれば、もう一度、悔い改めに立ち返ることはできない。」という内容が記録されていますし、10章26~31節には「真理の知識を受けたのちにことさらに罪を犯し続けるのであれば、罪のためのいけにえはもはや残されていない。」という内容が記録されています。このような警告を無視しないで、聖霊に満たされ、試みにあわないようにしなければなりません。主が再び来られる日まで忠実に職分を担わなければなりません。
自分の霊魂を愛するのであれば、感情に振り回されてはいけません。試みにあうのは自分の霊魂を担保として賭けをするのと同じです。3年もイエスに従ったイスカリオテ・ユダが堕落したのを見てください。一瞬の感情に振り回されることによって永遠に滅んではいけません。それゆえ、聖霊によって生きなければなりません。御言葉を受けるときも聖霊に頼らないのであれば、その御言葉がいのちとなりません。聖霊に満たされるように力を尽くして祈ってください。聖霊を働かせてください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 7. 22 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私は教会を開拓するときに、まず教会をどのように養育するのかについて悩み、主イエスの名にひざまずいた。私は聖霊に満たされることによって変えられ、主イエスの血と肉が私の中で食物となることによって生きた。そして、それからすべきことが与えられた。私の口からはイエスの血と肉、そして、聖霊の賜物だけが現れなければならない。これが神から受けた啓示であった。私がすべきことは熱心さと誠実さと正直さによって働くことであった。私は「神から啓示された、神が願われる教会を建てよう。」と誓った。
生涯、神に約束した働きをするためにその働きを愛してきたし、また、そのように教会を養育してきた。「そのようにしなければ、主に背くようになる。」ということをただ一日も忘れたことがなかった。主から与えられた賜物はあまりにも大きくて聖かった。私はそれを自分の命よりも貴く考え、尊重し、愛し、心を尽くして現した。私は長老教会で神学を学びながらも長老教会を開拓しなかったし、メソジスト教会で信仰生活をはじめながらもメソジスト教会を開拓しなかったし、バプテスト教団の大学院で学びながらもバプテスト教団にとどまらなかった。それは既存教団の神学と教理の中では神から与えられた大きな賜物を現すことができないと悟ったためであった。
私は1966年8月11日、独立宣教団体から牧師按手を受けた。視無言の生涯とともに歩んできた「ベレヤ運動」は教会が聖霊によって生きてイエスの御前で謙遜な信仰をもとうという運動である。教会が聖書に似ているのかは調べれば、知ることができる。聖楽教会は聖書に似た教会である。教会はただ尊い血の力と聖霊の力、その恵みに満たされなければならない。
視無言の牧会と他の人の牧会はどのような点で異なるのか? 視無言は教会を自分の体のように考え、聖楽教会で生き、聖楽教会で死ぬ。これは聖霊が証しされる。視無言の生涯は涙の歳月であった。そのようでなかったのであれば、今日のように大きな教会に成長することができなかったであろう。視無言の霊感は神が視無言を愛して与えてくださったものである。
愛する聖楽人のみなさん。視無言は聖楽人をまことに愛します。それゆえ、肉体の感情によって接することなく、ただ聖霊の母性によってだけ養育してきました。私の命をすべてささげます。愛します。心と霊を尽くして聖楽人のみなさんを愛します。私がみなさんを愛するという大きな証しは生涯、みなさんにまことの御言葉を伝えてきたということです。何が愛であるのかをみなさんが知ることを願います。愛します。聖楽人の霊魂をまことに愛します。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室