神本主義信仰の正体
(エペソ人への手紙1:15~23)
神は
唯一でおられる
その方が
御言葉によってこの世に三位一体の信仰を与えられた
この信仰は永遠不変の岩である(マタイ16:16~17)
教会とは建物ではなく、会衆である
会衆が教会であるし、教会は
イエス・キリストの体である(エペソ1:21~23)
イエス・キリストは自ら来られたのではなく、(ヨハネ12:49)
父なる神の御心をなすために来られた(ヨハネ6:38~39)
父なる神の御心は自分が遣わした御子によって
この世を救うというものである(ヨハネ3:16)
救いを受けた者を天に上げ、(ヨハネ14:1~3)
天にいる天使よりも高い身分を与え、
神の御子とともに栄光を受けさせ、
天の御座の前に永遠にいるようにするというものである(ローマ8:16~17)
会衆教会とは民主主義をいうのではなく、
絶対的に神本主義をいう
教会はイエス・キリストをかしらとする、その方の体である
人本主義においては上部組織が存在し、それが教会のかしらとなる
聖霊は今日も教会を導かれる(使2:28)
○ 教理は人本主義の信念をいう
しかし、信仰は神本主義に従う
永遠に神の御心にだけ従う
○ 教会は民主主義ではない
神の御心が真理である
イエス・キリストだけがいのちである
○ 民主主義とは人本主義によって
この世に属した言葉を語るものであり、この世はその言葉を聞く
神に属した者は真理だけを聞く
※ 聖楽教会は神本主義信仰の岩の上に存在する
よみの権勢も勝利することができない、霊的な
イエス・キリストの教会である
神本主義信仰の正体 (エペソ人への手紙 1:15~23)
神は唯一の主人でおられる
神は唯一の方でおられます。これは「この世には神のほかに神々が存在しない。」という意味ではありません。この世には神々が多いです。神を知ることができない者は霊が続けて死んだ状態にあるために、神と交わることができません。彼らはこの世の神々から抑圧を受けます。この世の神々が彼らから仕えられる方法は彼らを偶像に仕えさせることです。それゆえ、この世は偶像に満ちています。
4000年前、アブラハムが住んでいた地域の状況も異なるところがありませんでした。アブラハムは人々が語ることも動くこともできない偶像を神として仕えているのを見て理解することができませんでした。アブラハムにとって神とは自分を支配する存在、自分に命令を下す存在、自分に約束したことを守る存在でした。もう一度言うと、自分の主人となる存在でした。
イエスは百人隊長の信仰を称賛されました。自分のしもべを治してくださいとイエスに求めた百人隊長は家に行ってしもべを治そうというイエスに「ただ御言葉をください。そうすれば、私のしもべは治ります。」といいました。彼はイエスを主人と認めたのです。イエスは彼の信仰を称賛しながら「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:11~12)といわれました。イエスは「アブラハムをはじめとする祖先の信仰は神を主人と認める信仰であった。」ということを前提として、このように語られたのです。
唯一の主人が御子をこの世に遣わされました。そのようにしなければ、罪人は滅びるしかなかったためです。ここでいう罪人とは人々が一般的に考えるような倫理的に過ちを犯した者を指すのではなく、霊が死んだ全人類を指します。霊が死んだというのは霊が消滅したという意味ではありません。霊はどのような状況でも消滅しないで永遠に存在します。問題は「その霊が機能を発揮するためには神から供給されるいのちを所有しなければならないが、アダムが『善悪を知る木からは取って食べてはならない』という神の御言葉に従わなかったために、そのいのちの供給を受けることができなくなった。」というところにあります。霊が神の御言葉と断絶されたというのは霊が神のいのちと断絶されたという意味ですし、これを指して霊が死んだというのです。
いのちの神が死んだ霊とともにすることはできません。死んだ霊が行くところは地獄と呼ばれる、永遠な火の池です。しかし、神は人類が死んだ霊に属して地獄に行くことを願われませんでした。それで、神は御子をこの世に遣わして救い主とされたのです。イエス・キリスト以外に神が遣わされた救い主は存在しません。イエス・キリストは人類の唯一の救い主でおられます。
これからは聖霊によって聞かなければならない
イエス・キリストは十字架で死ぬことによって人々の罪の価を贖われました。神はイエスを生かして天に導き、御座に着かせました。イエス・キリストはそこで父なる神に求めて聖霊を遣わされましたし、今もその方を信じる者に聖霊を遣わしておられます。五旬節のマルコの家の大広間に聖霊が臨まれたのちに、聖霊の働きは今も続けて現れ、それによって教会が立てられています。教会は聖霊によって立てられるだけではなく、聖霊によって治められます。イエスは「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばは口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:31~32)といわれました。これから教会は神が聖霊によって語られる御言葉を聞かなければなりません。
聖霊によって語られる神の御言葉は何でしょうか? キリスト者ならば誰でも聖書に神の御言葉が記録されているという事実を信じます。しかし、モーセを通して伝えられた御言葉とイエス・キリストを通して伝えられた御言葉はまったく異なるという事実についてはあまり知ることができません。律法は神が天使を通してイスラエルに与えられた御言葉ですし、モーセが代表してそれを受け、イスラエルに伝えました。律法は人の肉体に益を与えることはできましたが、人の霊魂を救うことはできませんでしたし、断絶された人と神の関係を回復させることもできませんでした。
その反面、イエス・キリストによる神の御言葉はこれらすべてを可能にしました。ここでイエス・キリストによる神の御言葉とはその方が口で語られた御言葉だけを指すわけではありません。神の御心に従ってこの世でなされたその方の働き、十字架で流されたその方の血、そして、苦難を受けたその方の体、それらすべてがイエス・キリストによる神の御言葉です。
その御言葉は肉体の耳だけで聞くことができません。イエスの働き、その方が教えられた御言葉、そして、その方の血と体はただ聖霊によってだけ知ることができます(ヨハネ14:26)。聖霊は真理の霊であり、自ら語るのではなく、聞いた通りに語られます(ヨハネ16:13~14)。残念なのは「今日、多くのキリスト者が聖書を解釈することにおいて、この世の知識や知恵や方法に頼り過ぎている。」という事実です。そのような聖書の解釈は聖霊の役割を疎外します。また、それによってキリストの教会はキリストが本来、期待されたところとは異なる人本主義宗教の属性を次第に強く現すようになります。
私たちの霊魂が聞かなければならないものがありますし、私たちの肉体だけが聞くことができるものがあります。この世の人々は霊が死んだ状態にあるために、神の御言葉を聞くことができません。彼らはこの世で発生する音を聞き、その音に従って行動します。バベルの塔が建てられるときに人々はひとつの言葉を使っていたために、同じ言葉を聞き、同じ目標のために働きました。しかし、神が彼らの言葉を混乱させたのちに、それはすべて無用の長物となりました。これと同じように、この世の人々が肉体の音に集中していたときに、神は人間の霊魂に必要な神の御言葉を遣わされましたし、それによって肉体に属したものの限界を明らかにされました。人間の霊魂に必要な御言葉とはイエス・キリストですし、人間はただ聖霊によってだけその方を知ることができます。
律法ではなく、新しい戒めを聞こう
ヨハネの黙示録2章と3章は繰り返し「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と強調しています。この世の音だけを聞く耳と神の御言葉を聞く耳が存在します。この世の音を聞く耳しかもたないのであれば、教会に通っていたとしても、この世の言葉だけを聞いて他の人を罪に定め、憎み、罠に陥れます。反対に、聖霊が語られる御言葉を聞く者には赦し、和解、愛が現れます。
神は私たちに新しい戒めを与えられました。多くのキリスト者が十戒を恐れますが、十戒を柱とする律法はキリストがすでに担われたために、これ以上、人を支配することができません(マタイ11:13)。神が律法と預言者を通して与えようとされたのはいのちでしたが、そのいのちを伝えた方がイエス・キリストでした。私たちが今、集中しなければならないのはその方から与えられた新しい戒めです。新しい戒めは「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というものです(ヨハネ13:34)。
私たちに向けられた神の愛を指してアガペーといいます。アガペーはその対象が誰であったとしても、あるいはどのような状態であったとしても、区別することなく施される愛です。神は私たちが罪人であったときに私たちを愛してくださいました。このような愛を受けたキリスト者もアガペーによって互いに愛し合わなければなりません。そのようにしさえすれば、キリスト者には敵がいないでしょう。人には本来、アガペーがありません。しかし、私たちは神からそれを受けたために、それを他の人に与えることができます。
教会の中でも他の人を憎む者が多いです。神は自分を愛する愛によって私たちを愛してくださいました。それゆえ、私たちも自分を愛するように隣人を愛するのが当然です。人は自分の体をどんなに愛するでしょうか? 人の体を構成する器官としては五臓六腑や手足、骨、筋肉などがあります。その中には健康なものもありますし、あまり健康でないものもありますが、私たちは差別することなくすべてを大事にします。教会はイエス・キリストの体であり、その中には多様な器官があります。その中でどれかが病気になったからといって、それを憎むことはありません。私たちにとってイエス・キリストの体を構成する器官はすべて愛の対象です。
私たちはすべて教会という体の器官です。私たちの主人は教会のかしらでおられるイエス・キリストです。私たちの霊魂を導いているのは誰によるものでしょうか? 聖霊によるものでしょうか? 人によるものでしょうか? 自分の霊魂のために目を覚ましていなければいけません。聖霊が語られる神の御言葉を聞かなければならない者が人の言葉に流されて堕落してはいけません(へブル6:4~8)。聖霊によって真理を知る知識を受けながら、肉体の欲に負けて真理を妨害してはいけません(ヘブル10:26~31)。
神本主義信仰をもとう
神本主義信仰とは何でしょうか? ペテロとヤコブとヨハネは主に従って山に上ったときに、モーセとエリヤが主とともに話し合っているのを見ました。弟子たちは偉大なモーセとエリヤが自分の先生と話しているのを見て興奮しました。そのとき、光り輝く雲が人々を包み、その中から「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という神の声がしました(マタイ17:5)。律法の下にいたイスラエルはそのときまでモーセとエリヤの言葉に権威を置いていましたが、神は「これからはイエス・キリストの御言葉を聞きなさい。」といわれたのです。
父なる神が愛されるところを愛すること、父なる神が喜ばれるところを喜ぶこと、父なる神が求められるところを求めること、これが神本主義信仰の核心です。父なる神がイエスを指して「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」と証しされたので、私たちもその方を愛して喜ばなければなりません。神が「彼の言うことを聞きなさい。」と命じられたので、これからはモーセの律法を基準としたり、エリヤを代表とする預言者の言葉に縛られたりしてはいけません。
イエスに会ったのちにも続けて律法と預言者の言葉に最高の権威を置いていた者は結局、神が愛して喜ばれる方を殺してしまいました。彼らはイエスを殺しながらそれが神の御心であると考えましたが、これは他の人を罪に定めることによって自分の義を誇ろうとする、肉体の感情からはじまったことでした。もし彼らのように自分の感情を満足させ、それによって喜んでいるのであれば、その霊魂は滅びるしかありません。
神本主義信仰はイエス・キリストを唯一の主人と認め、その方が語られる御言葉を聖霊によって聞きます。教会の唯一の主人はイエス・キリストでおられます。イエスはイエスを主人と認めた百人隊長の信仰からアブラハムの信仰を発見されました。そのように私たちの中からもそのような信仰が発見されなければなりません。私たちから「ただイエス・キリストだけが私の主人でおられます。」と認める信仰が現れなければなりません。神は「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」といって、私たちに神本主義信仰の核心を教えてくださいました。それゆえ、これ以上、モーセや預言者の言葉を聞いて自分を義と考えたり他の人を不義と定めたりしないで、聖霊の導きを受けなければなりません。肉体の考えは神を喜ばせることができません。ただ聖霊によって神本主義信仰をもちましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 7. 29 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
聖楽人のみなさんを愛します。
開拓者、元老監督の権威によって語られる私の言葉を聞いて従ってください。キリスト教会は人々の意見を集めて建てられるものではありません。人が自分の思い通りにしていたことはイエス・キリストの名でバプテスマを受けることによってすべて葬られました。人が自分の思い通りにしていたことは罪となり、神に逆らうこととなり、そのために霊魂は死にました。しかし、イエス・キリストの憐れみ、十字架での犠牲によって救いを受けました。私たちの信仰は人が作ったものではなく、神が定義されたものです。
神は私たちよりも先におられた方であり、永遠におられる方です。その方は人間と万物を創造し、それらに意志を付与されました。結論的に「自然の意志に従うのか、そうでなければ、造物主の意志に従うのか?」を選ばせました。そして、自然の意志を選んだ者は廃棄処分し、造物主の意志を選んだ者は天にいさせようとされました。この世の他の宗教は自然に生じたものです。その反面、キリスト教会は自然に生じたものではなく、神が選ばれたものです。
人間は自ら信仰を作ったのではなく、神が選ばれた信仰をもって従うのです。神はこれを羊と牧者にたとえて、この世に命じられました。主イエスは牧者であり、その血によって買い取られた者は羊です。牧者と羊の関係は徹底的に保たれるのです。それゆえ、イエスの名にひざまずいてイエスに従うのが信仰です。これが聖書の成就です(ヨハネ17:10~13)。
主イエスが天に行かれたのちに、聖霊が来て牧者を可視的に立てられました。その牧者を監督とし、神の血によって買い取られた羊を牧させました。それゆえ、監督は神の血と聖霊によって喜びに満たされ、神の御心を成就する者です。
愛する聖楽人のみなさん!
キリスト教会は人々の意見を集めて会議をする議会ではありません。人間の意志はただ神に求めるだけであって(マタイ6:33)、それ以外には存在しません。教会にはただ神の意志、すなわち神の御心だけが存在します。イエス・キリストは神の御心、神の意図です。監督は牧者の霊感をもって羊を導いていく権威者です。それゆえ、監督の権威が地に落ちるのであれば、霊感を得ることができません。
これからは感情を自制し、「肉体のすべての思いは神の敵となり、神を喜ばせることができない。」ということを悟り、悔い改めて神に帰るようにしてください。悔い改めてイエスに帰ってください。
元老監督 金箕東
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室