聖霊の法に従いなさい
(ローマ人への手紙8:1~11)
神は
父でおられる
その方が
御言葉によってこの世を救われたが、その御言葉は(ヨハネ1:17~18)
神の御心であり、(ヨハネ12:47~50)
神の義である(マタイ6:33)
獣は動物として生きたのちに土に帰るが、(創3:19)
人は生きた霊であり、肉体は土に帰り、霊は
神に帰る(ヨハネ3:4~8)
しかし、
神に帰ることができない霊が存在するが、
それは信じない者の霊である(マタイ25:41)
彼らの霊は死んだために、その魂もともに地獄に行く
私たちはそのような事実をはっきりと知る
「ベレヤ」が一般の教理と異なるのは
霊的に満たされているという点である(エペソ1:23)
サタン、すなわち悪魔は堕落した天使である(黙12:7~9)
「悪霊は不信者の死後の存在である」というのは
ベレヤの主張であるし、聖書的である(マタイ12:43~45)
すべての罪と罪過は赦しを受けるが、
聖霊の原理、法に逆らう者は永遠に赦しを受けることができない(マタイ12:31~37)
○キリスト教信仰はただ
聖霊の法にだけ従う
聖霊の法は律法と良心の上にある
○聖霊を受けたとしても
聖霊の法に従わない者は堕落した者である
堕落した者は再び悔い改めることができない
○聖霊の法を知りながらもことさらに罪を犯す者には
罪のためのいけにえがない
ただ刑罰の裁きがあるだけである
※ ベレヤは神本主義信仰の揺籃である
神本主義信仰によって復活しよう
聖霊の法に従うのがベレヤ人である
聖霊の法に従いなさい (ローマ人への手紙 8:1~11)
聖霊の支配を受ける人格
神は父でおられます。人は母親の胎から出て来たのちに母親の顔を見つめながら、母親から与えられる乳を飲みます。母親の乳は子どものいのちを保護して育てる重要な食物です。母親は子どもに乳を与えるために自分の体から体液を絞り出しますし、子どもはそれを飲みながら母親の愛を受けます。また、子どもはある瞬間から父親の顔を見つめながら父親の威厳を感じるようになりますし、父親が活動するのを見ながら自分も父親のようになろうという思いを抱くようになります。このような面で人は獣と異なります。
人が獣よりも優れているのはどうしてでしょうか? もちろん霊的な存在であるという点もありますが、人格をもっているために、獣よりも優れています。人格とは知性、感性、意志をいいます。人は知性をもつために知識を蓄積することができますし、感性をもつために他の人を愛することができますし、意志をもつために自分が願うものを選択することができます。この3つの中で意志は特に重要です。神が自分を現されたというのは結局、神が自分の意志を現されたということですし、私たちはそれを神の御心と呼びます。
神を見た者は誰もいません。それにもかかわらず、今、私たちが神を知るのは神の御心を知ったためです。どのようにして神の御心を知ったのでしょうか? イエスが「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」(ヨハネ6:38)といわれたように、イエスがこの地に来て神の御心を成就されたためです。聖霊も私たちを助けるときに自分の思い通りにではなく、神の御心通りに助けてくださいます(ローマ8:27)。
神が御心をもっておられるように、人も人格体として意志をもっています。神は人に良いものを与えようとされますが、人の意志を超越されません。神が人に「信じなさい!」といわれるのは人の意志を無視して強制的に信仰を注入させようとするのではなく、「信仰をもちなさい。」と勧めるのです。しかし、その勧めを受容するのかについては人が決定します。それを受け入れる者は神の子となりますが、受け入れない者は息が絶える瞬間、悪霊となってしまいます。神は人がいのちと祝福を享受することを願われますが、徹底的に人の意志を尊重されます(申30:19~20)。
このように人には人格、すなわち知性、感性、意志がありますが、人がこれらをどのように扱うのかによってその人の性格が変わってきます。また、その性格はその人の性質を左右しますし、その性質はその人の品性を決定します。問題はその人の性格、性質、品性が肉体の支配を受けているのか、そうでなければ、聖霊の支配を受けているのかということです。
ある人は性格、性質、品性に不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、陰口、そしりのようなものが満ちています(ローマ1:28~32)。これらは神に反抗するものです。神の律法に服従しませんし、服従することもできません(ローマ8:7)。その反面、聖霊によって生まれ変わった者からは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のようなものが現れます(ガラテヤ5:22)。聖霊によって人格が変わり、それによってその性格、性質、品性まで正しく変わるのです。
それゆえ、神の御心通りにするためには聖霊を受けなければなりません。聖霊によって生まれ変わってこそ、神の国に入って行くことができますし、神の導きを受けることができます(ヨハネ3:5~8)。続けて教会に出席しているという事実をもって満足しないで、聖霊を受けなければなりません。
タボル山で与えられた新しい戒め
イエスはペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に上られました。その山はナザレで最も高い山であるタボル山であったといわれています。弟子たちはその山でイエスの顔が太陽のように輝き、衣が光のように白くなるのを見ただけでなく、イエスがモーセやエリヤと話し合っているのを見ました。モーセとエリヤは旧約聖書を構成している2つの柱である律法と預言をそれぞれ代表する人物でした。そのように偉大な人物が自分の先生とともにいるのを見た弟子たちは大喜びしました。しかし、神はモーセとエリヤを取り去って、イエスだけを残されました。これはイエスが現れたことによって律法と預言の時代が幕を下ろしたということを物語っているのです(マタイ11:13)。
神はイエスを指して「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」といわれました(マタイ17:5)。イエスがナザレで暮らしておられたときには誰もイエスが神の御子でおられるということを知ることができませんでした。しかし、神はイエスがバプテスマを受けて水から上がられるときにイエスを指して「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」と証しされましたし(マタイ3:17)、タボル山で再びそのように証しされたのです。
また、神は弟子たちに「彼の言うことを聞きなさい。」と命じられました(マタイ17:5)。私たちはこの御言葉が戒めであるという事実を知らなければなりません。戒めはどんなに恐ろしいでしょうか? 戒めを犯した人類を救うためには全能でおられる神さえも自分の御子を十字架に差し出さなければなりませんでした。
神はアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創2:17)といわれましたが、これは善悪を分別する行為を禁止されたのです。善悪を分別するというのはどのような意味でしょうか? 裁きを意味します。裁きは神の固有の領域ですし、神はそれを人に譲渡されたことがありません。人々が律法や良心によって自分、あるいは他の人を判断するのも善悪を分別することです。これは神が喜ばれることではありませんし、むしろ人を滅びに導くことです。
神は「善悪を知る木から取って食べてはいけない。」といわれましたが、アダムは悪魔の惑わしによってその実を食べてしまいました。これは人類の霊を死なせるというひどい結果を招きました。人類はそれによって地獄に行くしかない境遇となりました。しかし、感謝すべきことに、地獄の刑罰がはじまる前にイエスがこの世に来て人類の代わりに死なれ、それによって人類に救いの道が開かれました。このように戒めを犯すというのはそれによって神の御子さえも十字架につけられなければならなかったほど恐ろしいことです。
イエスが十字架で死なれたために、人類は律法の前で自由を得ました。これから私たちが守らなければならないのは神がタボル山で与えられた新しい戒めです。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という戒めは善悪を知る木の実の戒めよりもはるかに恐ろしい戒めです。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」という善悪を知る木の実の戒めには「アダムがそれを食べるのであれば、イエスが代わりに死なれる。」という預言が含まれていますが、「彼の言うことを聞きなさい。」という戒めには「それを守らない者のために誰かが代わりに死ぬ。」という預言がありません。それゆえ、これからは神が命じられた通りにモーセやエリヤではなく、イエスの言葉を聞かなければなりません。イエスの言葉を聞かないのであれば、誰も救いを受けることができません。救いを受けることができない者は悪霊となり、最後には地獄に行くという運命を避けることができません。
聖霊の法に従おう
私たちは聖書が提供する霊的な知識とそれによる霊的な体験をもたなければなりません。そのためにはまず聖霊を受けなければなりません。イエスが「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)といわれたので、その御言葉が私たちになされなければなりません。聖霊を受けることがどれほど重要であるのか、イエスは弟子たちに「聖霊を受けるときまではエルサレムを離れてはいけない。」といわれました。また、イエスは弟子たちに「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」(ヨハネ16:7)といわれました。それは「イエスが去って行ってこそ聖霊が来られるし、聖霊が来られてこそ人々がイエスの御言葉を受けることができる。」という理由からでした。
私たちの信仰は神本主義信仰でなければなりません。神本主義の核心は何でしょうか? 神が愛される者を愛し、神が喜ばれる者を喜ぶことです。神はイエスを指して「これは私の愛する子」といわれたのであって、モーセやエリヤを指してそのようにいわれたのではありません。私たちの信仰は神が愛されるイエスを愛することです。
また、神はイエスを指して「私はこれを喜ぶ。」といわれました。お金が多く集まると、人々は喜びます。しかし、イエスは「何を食べるのか、何を飲むのか、何を着るのかなどといって心配するのはやめなさい。神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」といわれました(マタイ6:31~33)。私たちが求めなければならない神の義とは何でしょうか? イエスです。私たちは本来、義がない者ですが、イエスが私たちの中に入って来られたために、私たちも義なる者となりましたし、それによって神を父と呼ぶことができるようになりました。それゆえ、私たちの喜びはイエスの名にあります。
イエスという名は相続財産として御子に与えられた名です。ヘブル人への手紙1章4節は「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」といいました。また、神は御子の中で私たちにもその名を相続財産として与えてくださいました。それゆえ、私たちはただイエスの名によってだけ神を喜ばせることができます。私たちは礼拝をささげるときにもイエスの名を超越することができませんし、祈るときにもイエスの名を超越することができませんし、教会で職分を担ったり奉仕したりするときにもイエスの名を超越することができません。神は天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがイエスの名の前で膝をかがめるようにし、すべての口が「イエス・キリストは主である。」と告白して父なる神に栄光をささげるようにされました(ピリピ2:10~11)。
聖霊の法に従わなければなりません。律法は死と呪いの法ですし、聖霊はいのちの法です。ローマ人への手紙8章1~2節は「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」といいました。交通法規を知らない者が車を運転するのはとても危険ですが、交通法規を知る者は安全に運転をすることができます。これと同じように、聖霊の法に支配される者には平安、慰め、力、恵みがあります。律法や良心は私たちを救うことができません。これからはイエスの御言葉を聞いてください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 8. 5 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
教会を建てるのは聖霊と御言葉である。もし人が教会を建てようとするのであれば、人の義を基準とするようになる。人はすべてモーセの律法の下で罪に定められた。それゆえ、義人はいないし、聖なる者もいない。私たちはすべて律法によって死んだ者であり、永遠な刑罰を待つ者であった。しかし、神の愛とイエス・キリストの功労が義となって、私たちはその恵みを受けた。教会となったのはただイエス・キリストの恵みによってであった。
恵みがないところには罪の定めだけがあるし、疑いだけがあるし、憎しみだけがある。その背後には訴える者、悪魔が働いている(エペソ2:2)。しかし、私たちはイエス・キリストの恵みによって罪から救いを受けた。律法から解放された。今、私たちはその代わりに神の愛の法である聖霊の法によって導きを受ける。聖霊の法によって導きを受ける者は自由な者である。その方が私たちを自由にするのであれば、私たちは自由である。
だまされてはいけない。彼らは神の愛とイエス・キリストの功労であるその方の恵みを否定する者である。見なさい。イエス・キリストの恵みを信じない者の口からはただ罪の定めだけが出て来る。これは偽りの霊が主張する言葉である。
私がこの世に勝利するのは主の恵みを多く受け、また、神の愛を受けているためである。激しい風が吹きはじめたとしても、大きな波が押し寄せてきたとしても、小さな舟がひどく揺れたとしても、艫のほうで枕をして眠っている主の平安が私たちの信仰である。激しい風を見る者は信仰がない者である。主イエスの平安を見てその方とともにする者が信じる者である。信じる者はその平安を自分のものとする。生涯、視無言をして生きるというのは大変であり、悔しかったりもするが、それは私が自分を守る大きな力である。
ある人は週報に松竹岩(牧師コーナー)を書くなと脅迫する。自分たちは毎日、聖徒に会いながら、どうして元老監督が一週間に一回、聖徒に会うのをやめさせようとするのか? これは元老監督と教会員との交わりを断ち切るためであり、それによって視無言を消し去るためである。スズメもさえずり、ミミズも這って進むが、視無言もそのようにするのである。
私が文章を書くのを誰が妨げることができようか。天の天使であろうか。この世の権勢であろうか。私は息が絶える日までまことの言葉を松竹岩に書きたい。人間であるために、私にも痛みや悔しさ、悩みがあるし、幸せがある。短かったとしてもそれを文章として書くことができるので、幸いである。視無言の悪口を言ってはいけない。主はすぐに来られる。私はその方の御前に行って慰めを受けようとする。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室