神の御心
(ヨハネの福音書3:13~21)
神は
御子を愛される
その方が
その愛する御子をこの世に遣わされたのは
その御子によってこの世に救いを得させるためであった(ヨハネ3:16)
第一に、罪から救いを受け、
第二に、死から救いを受け、
第三に、いのちの復活によって永遠のいのちを得させるためであった(ヨハネ6:38~39)
このためにひとり子を与えられたのである
肉体が生きていく問題のためには
すでに太陽と雨を与えられた
イエスを与えられたのは霊魂のためであった(ルカ23:42~43)
このように
私たちの霊魂のために、神はひとり子を与えてくださったし、
イエスは自分の血を与えてくださった
聖霊はこれを証しする真理の霊でおられる
このようになさったのは
神の御心であった
イエスがなさったことはすべて父の御心であったし、(ヨハネ12:48~50)
聖霊がなさることも父の御心である
私たちは今、何を探し求めているのであろうか?
○ 父なる神と御子の御心に従おう
聖霊によって生きなければならない
自分の霊魂を生かさなければならない
○ たとえ肉体はラザロのように生きたとしても
自分の霊魂だけは生かさなければならないのではないか
霊魂を生かそう
○ バプテスマを受けて、この世から出て来なければならない
曲がった時代から救いを受けなければならない
ただ聖霊によって生きなければならない
※ 神の御心に従おう
肉体のために生きないで、ただ霊魂を愛して、
救いを受けた自分の霊魂に印を押されなければならない
神の御心 (ヨハネの福音書3:13~21)
これからはイエスの言葉を聞きなさい
神は御子を愛されます。イエスがヨルダン川でバプテスマを受けて水から上がられたときに、神はイエスを指して「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)と証しされました。このような証しはイエスが弟子たちとともに高い山に上られたときにもありました。そのとき、イエスは一部の弟子たちを連れて山に上られましたが、弟子たちはそこでイエスがモーセやエリヤと話し合っているのを見ました。彼らは自分の先生が信仰の偉人とともに並んで話し合っているのを見て喜びましたが、神はイエスを指して「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:5)といい、モーセとエリヤをそれ以上、見えなくされました。
モーセとエリヤはそれぞれ律法と預言者を代表する人物でした。モーセの律法と預言者の教訓に抑圧されていた人々に、神は「これからはイエスの言葉だけを聞きなさい。」といわれました。それまで人々の心を支配していたモーセの律法はその瞬間、消え去り、それからはイエスの御言葉だけが彼らの心に入って行くようになりました。また、それだけではありませんでした。預言者の役割はモーセの律法を詳しく解釈して人々に教えることでしたが、神は人々に「これからはイエスの言葉だけを聞きなさい。」と命じられました。
イエスが福音を伝えられたときに、その方を失望させる事実がありました。それは「生きるために身もだえしながらも、いざ人々が守ろうとしていたのはモーセの律法と預言者の教訓であった。」という事実でした。イエスはそのような人々に実状を知らせようとして、「あなたがたは『人を殺す者は裁きを受けなければならない。』と聞いている。しかし、兄弟に向かって腹を立てる者は裁きを受けなければならないし、兄弟に向かって『ばか者。』という者は燃えるゲヘナに投げ込まる。また、あなたがたは『姦淫してはならない。』と聞いている。しかし、情欲を抱いて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのである。」といわれました。これは「あなたがたは律法を守ることによって義とされようとするが、果たしてそれが可能であろうか? 律法の前で生き残る者がいるだろうか?」と強調されたのです。
私たちの誇りは恵みを受けたということ
イエスを信じる者の誇りは罪を犯さないということではありません。私たちは誰でも罪を犯しますが、それに対する価を払わなくてもいいのです。私たちの誇りは私たちが恵みを受けた者であるというところにあります。神の御前で「私は罪を犯しませんでした。私は義なる者です。」と主張するのであれば、その人は自分の義のために滅びます。私たちの証しは恵みを受けたという事実を誇るところにあります。
ある人は「私には証しすることがありません。お金を多く稼ぐこともできませんでしたし、良い職場を得ることもできませんでしたし、家を所有することもできませんでした。」といいます。このような考えはその人の霊魂を破壊するだけです。神は私たちに何も与えられなかったでしょうか? 本当に私たちには誇るべきものがないでしょうか? イエスは金持ちとラザロの話を語られました。金持ちはこの地で贅沢に遊び暮らしていましたが、ラザロは他の人の家の前で物ごいをしながら悲惨な生涯を送っていました。人々が見るときに、金持ちは祝福を受けた者でしたし、ラザロは呪いを受けた者でした。しかし、彼らが肉体を離れたのちに、その状況が変わりました。肉体の状態と霊魂の状態はこのように異なるのです。
たとえ状況がラザロのように悲惨であったとしても、私たちは自分の霊魂が恵みを受けたという事実を誇らなければなりません。苦労しながら良い家を得た者は親戚や友人を家に招待して、自分がなした成果を誇ろうとします。しかし、このような人は毎日、ぜいたくに遊び暮らして自分が受けた祝福を誇ろうとした金持ちと大きく異なるところがありません。金持ちとラザロの話から知ることができるように、肉体の成功よりも重要なのは霊魂の成功です。
ひとり子を与えられた神の御心
神は信じる者と信じない者を区別することなく、すべての人に等しく太陽や雨を与えられました。この地では義人であっても悪人であっても勤勉に働いてこそ食べていくことができます。イエスを信じるからといって働かないで神から与えられることだけを待っていてはいけません。肉体をもっている以上、誰でも力を尽くして働かなければなりません。
夫婦が4人の子どもと生活していましたが、突然、夫が死んでしまいました。妻はそれまでお金を稼いだこともありませんでしたし、世の事情もよく知りませんでした。しかし、それからは家事だけをしている立場ではなくなりました。4人の子どもを育てて学校に送るために、妻はそのときから力強く生きていくしかありませんでした。以前ならば恥ずかしくてできなかったこともそれからは子どものために厭わなくなりました。実際に私たちはこのような環境で成長した子どもが社会的に成功するケースを見ることがあります。母親の粘り強い努力がそのような実を結んだのです。
このようにこの地では誰でも努力するのであれば、生きることができる環境が備えられています。それなのに、どうして神はイエスを遣わされたのでしょうか? 神がイエスをこの世に遣わされたのは私たちの肉体のためではありませんでした。肉体のためにはすでに太陽や雨が与えられていました。神の御子もこの地に来て30年間、太陽や雨の恩恵を受けられました。神の御子が来られたのちに、それらが突然、効力を失ったわけではありませんでした。
イエスは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)といわれました。神がひとり子を遣わされたのは腐っていく肉体を滅ぼさないためでなく、霊魂を滅ぼさないためでした。信じる者も信じない者も服を着ること、車に乗ること、食べていくことなどにおいては大きく異なるところがありません。しかし、肉体が息を引き取ったのちにはそれぞれ進む道が異なります。イエスを信じる者はパラダイスに行きますが、信じない者は悪霊となって自分の家族を苦しめます。
最近、「100歳時代」という言葉をよく耳にします。これからは人の平均寿命が100歳に達するという意味です。しかし、よく考えてみてください。人が100歳まで生きるときに、どのような姿をもつようになるでしょうか? 目や耳は衰え、体は曲がって縮まります。果たしてそのような姿が慕い求めるほどの姿でしょうか? 反対に、自然寿命を満たすことができないで死ぬ者も少なくありません。交通事故で死ぬ者も多いですし、癌で死ぬ者も多いです。肉体はさらに数十年、生きることもありますが、結局は死んで消えてしまいます。重要なのはそののちに霊魂がどのようになるのかということです。
神が御子を遣わされたのは私たちの霊魂のためでした。倉を大きく建てて財産を蓄えておきながら自分を安心させる者について、イエスは「愚か者。お前の魂は今夜、取り去られる。それならば、お前が用意した物はいったい誰のものになるのか?」といわれました。人々は「今日がこの世での最後の日になるかもしれない。」と考えません。しかし、誰でもそのようなことを経験する可能性があります。重要なのは肉体が死んだのちに悪霊となってはいけないということです。神がひとり子を遣わされた御心がここにあります。
みなさんは教会に通いながら何を探し求めているでしょうか? 神がすでに太陽や雨を与えられたのに、続けてイエスに頼って肉体のことを解決しようとする者がどんなに多いでしょうか? 多くの人が霊魂のために施された恵みを受け入れないで現実の問題を解決しようとします。これはどんなに残念なことでしょうか? 神は私たちの霊魂のためにひとり子を遣わしてくださいましたが、私たちの考えはそのような神の御心からどんなに離れているでしょうか?
イエスは「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6:39~40)といわれました。
みなさんは神の御心を歓迎しているでしょうか? 神は私たちの霊魂を愛されます。その愛を受けてください。イエスを指して「これは私が愛する子」といわれた神が私たちをイエスとひとつにしてくださいました。それゆえ、私たちはイエスの中で神の愛を受けるようになりました。本来、私たちは永遠に滅びる者でしたが、今はイエスを霊魂に迎え入れた者、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲んだ者となりました。
私たちがイエスの血を飲んだという事実はとても重要です。イエスの血を飲まなければ、罪から脱け出すことはできないためです。人を殺さなかったとしても、盗みを犯さなかったとしても、私たちの霊魂は罪によって滅びるしかありません。それゆえ、神はイエスを遣わして血を流させましたし、これを通して私たちの罪の価を払ってくださいました。イエスが血を流されたのは私たちに良い家や高い服を与えるためではありませんでした。
罪と死の法からいのちの聖霊の法に
イエスは弟子たちに「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」(ヨハネ16:7)といわれました。弟子たちはイエスが自分たちといつまでもともにおられることを願いましたが、主の考えは異なりました。イエスが去って行くのは弟子たちだけでなく、信じる者すべてに益となりました。それはイエスが去って行ってこそ聖霊が来られるためでした。神の御子がこの地に来て血を流されましたし、それによって私たちは益を得ましたが、それよりも私たちの霊魂にさらに益となるのは聖霊が来られることです。
イエスの血は過去の罪をなくしましたが、聖霊は私たちがこれから罪を犯して滅びるのを防いでくださいます。聖霊が防いでくださるその罪とは何でしょうか? イエスは「聖霊が来ると、罪についてその実状が何であるのかを教えられる。」といわれました。それまで人々は律法が教える罪だけを知っていましたし、その罪を犯さないように努力してきました。しかし、聖霊は罪の実状が何であるのかを教えられます。これについてイエスは「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:9)といわれました。そうです。イエスを信じないことが罪です。人殺し、強盗、偽りよりも恐ろしい罪はイエスを信じることができないことです。
聖霊が来られることが益となるのは聖霊が来て律法の代わりをするためです。ローマ人への手紙8章1~2節は「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」といいました。律法は罪と死の法ですし、聖霊はいのちの法です。聖霊が来られないのであれば、続けて良心の下にいるようになります。良心の下にいる者がするのは自分の義を立てること、あるいは自分を裁くことです。それゆえ、聖霊が来て罪と死の法を退け、私たちを守ってくださるようにしなければなりません。
いのちの聖霊の法によって支配を受ける者は神の愛から引き離されることがありません。死も、いのちも、天使も、権威ある者も、今あるものも、のちに来るものも、力あるものも、高さも、深さも、そのほかのどのような被造物も、その人を罪に定めたり地獄に連れて行ったりすることはできません(ローマ8:38~39)。それゆえ、私たちは聖霊を働かせなければなりません。私たちの霊魂のためにひとり子を遣わしてくださった神の御心が成就されるようにしなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 8. 12 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
主よ! 私の霊魂は極めて小さなからし種のようなものですが、成長して木となり、鳥が枝に巣を作りました。しもべを捨てないで、半世紀を導いてくださいました。限りない栄光です。
1962年5月、しもべは草籠山に導かれ、10日間、水も飲まず、食事もせず、ただひざまずいて祈り、限りなく涙を流しました。主はこの世で何の役にも立たず、一食を取ることもままならなかった人間を引き取って、働きを与えてくださいました。
しもべは「主のために死にます。」と願い、「しもべに死を担う働きを与えてください。」と求めました。そのとき、主は「福音を伝えなさい。」といってしもべに大きな力と大胆さを与え、険しいゴルゴタの道を見せてくださいました。そのときに見たその道は明るい光の中で開かれており、とても幸せな道に見えました。しかし、下山した日から私に迫ってきたのは迫害と無視でした。それでも、主から与えられた栄光の道であったために、耐えてきました。神から与えられた名のように視無言をしてきました。口に小石をくわえたろばのように主だけを乗せて前だけを見て走ってきました。
しもべは進めば進むほど険しくなる道に感謝し、喜びながら、最後の栄光を想像してみました。「このように10年も耐えることができるであろうか?」と考えながら10年が過ぎ、そのようにしていつの間にか60年になりました。今はその栄光の門の前に来ていることに感謝しながら最後の勝利を確信しています。
この年老いたしもべに何の欲があるでしょうか。この世にはうらやむものも、ねたむものもありません。凱旋した将軍のように、その日、天の天使の歓声だけを聞きたいという思いに満たされています。最後のその瞬間のために、しもべはステパノのようにすべてを下ろします。真理のために自分の命を差し出したステパノのように、卑怯になることなく、すべてを下ろそうとします。そのために今日も一日中、悪口を浴びています。
主がしもべを義とし、聖くしてくださいましたが、彼らは主の栄光の血の力を熱心に否定するかのように罪に定めています。主は還言のために死ぬ戒めをしもべに与えられましたが、彼らはいんちきだといって悪口を言い、辱めようとしています。彼らの労苦が自分の霊魂に何の助けにもならないということがどうしてわからないのでしょうか。彼らを憐れんでください。
あまり残されていないしもべの肉体の道を栄えさせないで、さらにむち打たれるようにしてください。その代わりにしもべの霊魂に大きな慰めと義の冠を与えてください。栄光の中でこの世に勝利して、この世を離れることだけがしもべの願いです。この世を見ると、涙が出て来ますが、高いところを見ると、幸せです。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室