益がある実状とは
(ヨハネの福音書16:5~15)
神は
まことでおられる
その方が
御子をこの世に遣わされたのはまことでおられるためである(ヨハネ17:3)
神の御子は御言葉でおられる(ヨハネ1:1)
その御言葉は真理である(ヨハネ14:6)
真理はいのちである(ローマ1:1~2)
イエスが去るのがどうして益なのであろうか?
イエスが去って行かなければ、
聖霊が来られないためである
聖霊が来られないのであれば、律法の下にいるようになり、
霊魂が罪に定められる
それゆえ、
律法の代わりとなるいのちの法を与えるために
父のもとに行こうとされた
聖霊が臨まれれば、その方が
律法を廃棄して、いのちを法を与えられる
聖霊の法は律法と異なり、
恵みである(エペソ2:8)
律法は私たちの霊魂を死に至らせたが、
聖霊の法は私たちの霊魂をいのちに至らせる
○ 主イエスの愛を受けなさい
その方が私たちの霊魂のために血を流してくださったが、
聖霊を受けさせるためであった
○ 聖霊は受けても受けなくてもいいというものではない
聖霊を受けないのであれば、永遠に律法の下にいるようになるし、
霊魂は死に至る
○ 霊魂がよみの権勢、すなわち死の権勢から
解放されるためには
聖霊を受けなければならない
※ 聖霊に対して関心をもたなければ、滅びる
聖霊に満たされ、真理を学び、
第一の復活に至らなければならない
益がある実状とは (ヨハネの福音書 16:5~15)
変わらないものが私たちを生かす
神はまことでおられます。「まこと」という言葉は「真理」という言葉と同じです。この世では何かの高尚な道理を指して「真理」といいますが、聖書でいう「真理」は「まこと」を指します。それでは、「まこと」とは何でしょうか?「まこと」とは永遠に変わらないものをいいます。
イエスは「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)といわれました。永遠のいのちを得るためにはまことの神、すなわち真理の神を知らなければなりません。イエスは自分を指して「真理」といわれましたし(ヨハネ14:6)、聖霊を「真理」の御霊といわれました(ヨハネ16:13)。このように聖書でいう「真理」はこの世でいう真理とは異なり、永遠に変わらないものをいいます。
律法は真理ではありません。ヨハネの福音書1章17節は「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」といいました。律法は変わります。これについてヘブル人への手紙7章12節は「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません。」といいましたし、8章13節は「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」といいました。
その反面、神は変わることがありません。全能なる神にも不可能なことが2つあります。ひとつは偽ることですし(ヘブル6:18)、もうひとつは変わることです(ヤコブ1:17)。もし神が偽ったり御心を変えたりするのであれば、その方を頼る私たちの信仰は失敗に終わってしまいます。
救いを受けるために律法を頼るのか? 律法からの救い!
神は私たちを律法に預けませんでしたし、むしろ律法から救ってくださいました。その方は律法の奴隷として抑圧を受けていた私たちのためにひとり子を遣わしてくださいました。よく「イエスが私たちを罪から救ってくださった。」といいますが、これは「イエスが私たちを律法から救ってくださった。」というのと同じです。なぜならば、罪の力は律法であるためです(Ⅰコリント15:56)。律法の下にいるのであれば、罪を隠すことができませんし、死、すなわち永遠の刑罰を避けることができません。
律法はモーセを通して与えられたときからイスラエルの信仰良心の基準となりました。また、イスラエルを除いた他の民族にも律法の役割をするものがあります。それは良心です。問題は「多くのキリスト者が良心について誤解しており、それによって神から与えられる恵みを受けることができないでいる。」という点です。
良心は人を救うことができないだけでなく、むしろ滅ぼします。イエスは弟子たちを最後まで愛されましたが、イスカリオテ・ユダにその愛が及ばなかったのはどうしてでしょうか? イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダは自分が犯したことを後悔し、イエスの無罪を再び主張しようとしましたが、それが失敗に終わると、良心の呵責を克服することができないで首をつって死んでしまいました。このように彼は良心的な者でしたが、その霊魂は良心によって滅んでしまいました。
イスラエルはシナイ山で律法を受けたときからイエスが来られるときまで約1500年間、律法を守ってきました。イエスが来られることによって律法の時代は幕を下ろしましたが、これは律法が肉体に関する規定であるという事実とも関係があります(ヘブル9:10)。律法は肉体に益をもたらすことはできますが、霊に益をもたらすことはできません。私たちがはっきりと知らなければならないのは神の関心が人の肉体にではなく、霊にあるという点です。
神が霊と肉をどんなに厳しく区分されたのかをはっきりと示す事件があります。神が地に満ちていた者の中からひとりを選んでいのちの息を吹き込まれて以来、この世には生きた霊とネフィリム、すなわち霊がある人と霊がない人が共存するようになりました。問題は彼らが結婚しはじめたときから現れました。生きた霊とネフィリムの間から生まれてきた者には霊が存在しなかったのです。そのようにして時間が経過するほど、生きた霊の数は減っていき、地球上から消えてしまいそうになりました。それで、神はその当時に完全な人、すなわち生きた霊だけで構成されていたノアの家族を選んで救い、残りの人をすべて洪水によって洗い流してしまいました。これを通して知ることができるように、霊に対する神の関心は肉体に対する関心とは比べることもできないほど大きいです。
イエスがこの地に来られたのは肉体のためではありませんでした。イエスが来られる前にも人類の肉体のために必要な良心はすでに存在していました。しかし、良心は人の霊魂を救うことができませんし、むしろ滅ぼします。神がエデンの園にアダムを置いて「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創2:17)といわれました。神の恵みを拒み、良心によって善悪を判断し、良心を基準とするのであれば、結局、それによって滅びるしかありません。
イエスがこの地に来られた理由がここにあります。イエスは私たちを「罪から」救ってくださいました。言い換えると、「律法から」あるいは「良心から」救ってくださいました。人が罪を犯したのちに自ら命を絶つことがありますが、それはどうしてでしょうか? 良心の呵責を感じるためです。このように良心の役割は人を救うことではなく、罪に定めることです。
十字架で死なれたイエス・キリストの功労を受け入れた者はそれ以上、罪人ではありません。その反面、キリストの功労を否定しながら続けて律法によって罪に定められる者は悪魔の奴隷となるしかありませんし、結局、悪魔のために備えられた地獄に行くようになります。悪魔は律法を悪用しますし、悪魔にだまされる者にとって律法は罪と死の法となります(ローマ8:2)。
律法から脱け出すことは聖霊によってだけ可能
イエスは弟子たちに「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)といわれました。もしイエスが天に行かないでこの地に続けてとどまっておられたのであれば、どのようなことが起こったでしょうか? 幸いにもイエスの近くに行った者はイエスに会うことができたでしょうが、人波によってイエスに近づくことができなかった者はようやくの思いで遠くからイエスを眺めたでしょう。イエスが信じる者すべてとともにされるためにはこの地を離れて天に行かなければなりませんでした。そのようにしてこそ父に求めて聖霊を遣わすことができたためです。
イエスが「私が去って行くことはあなたがたにとって益なのです。」といわれたほど、信じる者に聖霊が臨まれることはとても重要です。イエスは人々に多くのことを教えられましたが、人々は続けてその意味を悟ることができないで、律法に縛られていました。そのような姿は今日のキリスト者からも見ることができます。多くの人が教会に通いながらも、自分の信仰をただこの世に存在するさまざまな宗教のひとつとして扱います。真理を知ることができない彼らは続けて律法の抑圧を受けるために、「あれは食べてもいいが、これは食べてはいけない。」、あるいは「あれはしてもいいが、これはしてはいけない。」といいながら、一定の規範を守ることを信仰と誤解します。このようなことが起こるのは人々がイエスを信じるといいながらも聖霊を拒むためです。聖霊によらなければ、誰も律法から脱け出すことができません。
イエスは聖霊について「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)といわれました。罪と義と裁き! 律法が扱うのがこの3つです。律法は何が罪であり、何が義であるのか、もう一度言うと、何が善であり、何が悪であるのかを扱います。そして、「善悪の知る木の実を食べるときに、あなたは必ず死ぬ。」という御言葉のように、善悪を知ることによって避けることができなくなった裁きを扱います。律法が扱うこの3つはすべての宗教の主要な関心事でもあります。イエスに向けられた私たちの信仰は善悪を扱う宗教ではありません。私たちの信仰は恵みを体験するものです。
罪と義と裁きの実状
宗教人は常に「罪を犯したら、どうしよう?」と恐れます。彼らは「罪を犯さなければ、義人となることができる。」と考えます。しかし、イエスは「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」(ヨハネ16:10)といわれました。これはイエスのほかには義人がいないという意味です。どんなに罪を犯さなかったとしても、それによって人が義人となることはできません。
イエスは「聖霊が来ると、罪について、義について、裁きについて、この世にその誤りを認めさせます。」といわれました。韓国語の聖書では「この世にその誤りを認めさせる」という表現が「この世を責め立てる」となっていますが、どうしてそのような表現が使われたのでしょうか? 聖霊が来ると、罪と死の法を責め立てて消し去るためです。光が来れば、暗やみが退きます。それと同じように、聖霊が来れば、善悪を分別する良心を責め立てて消し去るのです。
弟子たちはモーセとエリヤとイエスをすべて得ようとしましたが、神はモーセとエリヤを雲で覆って取り去られました。そして、イエスを指して「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:5)といわれました。それゆえ、これからはモーセの律法と預言者の言葉に縛られていないで、神が愛して喜ばれるイエスの言葉だけを聞かなければなりません。
自分が呪いを受けるのではないかと恐れるキリスト者がどんなに多いでしょうか? そのように恐れなければならないのはキリスト者ではなく、律法の下にいる者です。律法の下にいる者の状況は肉体が祝福を受けるのか、あるいは呪いを受けるのか、2つにひとつです。彼らにとって善悪ははっきりとしています。しかし、キリスト者までそれを信仰と錯覚してはいけません。ガラテヤ人への手紙3章23節は「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。」といいました。この御言葉からも知ることができるように、律法は信仰ではありません。良心によって善悪を分別することも信仰ではありません。恵みを知ることこそ信仰です。
善悪を知るようになれば、恐れが伴います。ある人は食べ物を口に入れたのちに食事のための祈りをしなかったことを思い出し、口の中にある食べ物を吐き出して「主よ。赦してください!」と祈ります。このような行動を誘発するのは恐れです。ある人は「早朝祈りをしようとしたのに、起きることができなかった。呪われたら、どうしよう?」と恐れます。祈りが必要であるのならば、祈ればいいのです。祈らなかったからといって、赦してくださいという必要はありません。裁きに対する恐れから脱け出さなければなりません。
裁きについて、聖霊は「悪魔が裁かれた。」といわれました。悪魔には地獄に行くことだけが残されています。それゆえ、悪魔が受けた裁きに加わってはいけません。裁きが狙っているのは私たちではなく、悪魔です。イエスがすでに私たちの罪の価を贖ってくださいました。これから私たちを滅ぼすのは善悪の基準から逸脱した行動ではなく、イエス・キリストに対する不信仰です。もう一度言うと、イエス・キリストの恵みを拒むことが罪です。信じる者とは恵みを受けた者ですし、信じない者とは恵みを受けていない者です。
律法は霊魂を救うこともできないで、抑圧します。聖霊はこれを責め立てられます。このような聖霊の働きを受け入れてこそ、私たちの霊魂は生きることができます。神が愛されるのは私たちの肉体ではなく、イエス・キリストと結びついた私たちの霊魂です。教会生活の目的は良心に反しない生涯を完成することではなく、霊魂を生かすことです。ただイエス・キリストの恵みだけが私たちの霊魂を生かすことができます。イエスの血と肉、その名が私たちの霊魂に入って来るためには聖霊の働きがなければなりません。ただ聖霊によってだけ真理を知ることができます。自分の霊魂のために聖霊によって生きる者となりましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 8. 19 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私は神から召されたのちにリバイバル集会の講師として招待を受け、全国66ヶ所の教団教会を巡り歩いて、リバイバル集会を導いてきた。農繁期でも大型天幕を移動させながら、伝道集会を開いてきた。それを10年で終え、これからは独立牧会をしようと心に決め、ソウルの永登浦で教会を開拓した。30歳を少し超えたときであったし、若さと勇気に満ちていた。それまで生きてきた過程はとても大変なものであったが、主のための最後の選択であると信じて、聖楽教会を開拓した。
2ヶ月間、私は妻とともに新豊市場などを巡り歩いて、叫びながら伝道をした。又新小学校の前に立って「教会を開拓しますので、来てください」と頼みながら歩き回った。そして、3階の小さなホールに畳を敷き、礼拝の空間を準備するために日々、慌ただしく働いた。
「10人を与えてください」という簡単な祈りを狂ったように繰り返しながら歩き回った。あるときは自分でも知らないうちに大きな声で「10人を与えてください」と叫んでいた。又新小学校の生徒たちが下校途中にそれを聞いて、私のうしろで「10人を与えてください」と合唱したりもした。そのように「10人、10人」と叫んでいたのがいつの間にか100人となり、1000人となり、1万人となった。そして、神の血によって買い取られた教会は世界的な教会に成長し、世界に福音を広げた。
しかし、独立教会であり、守ってくれるものもなかったために、聖楽教会と開拓者である監督の孤独は言葉にならないほどであった。私は「独立教会を守らなければならない。宗教化され、教理と教権によって遠く離れてしまった彼らとは区別されなければならない。」と考え、耐えてきた。
そのようなある日、その幸せで平穏だった私たちの教会に台風が襲ってきた。これによって老いた木が根から引き抜かれ、跡形もなくなった。口にすることもできない悪口を口にし、歳も若い者が年老いた牧師の名を友人の名を呼ぶかのように呼んだ。その激しい狂風はまるで船を転覆させるかのようであった。
この世で考えられるあらゆる悪い手段を動員して圧迫を加え、迫害してきた。私と私の子どもと子孫、心をひとつにして還言の使命を担い、ともにしてきた私たちの家族に向かって「金箕東一家を追い出せ」と叫んだ。ついには年老いて力もなくなった老夫婦を社宅から追い出そうとまでしている。
私の若さと半世紀はこの場所ですべて粉々となった。腰も痛み、足も力を失い、ようやくの思いで椅子に座って説教をしているが、その椅子さえも「こわしてしまえ」と扇動し、押し寄せてきた。この年老いたしもべの最後の講壇さえもねたみ、それさえも妨害しようとしている。心が痛むし、涙が出て来る。
主よ。これがこの世から受ける最後の贈り物のようです。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室